Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

戦中派不戦日記

いくら何でもそろそろ紹介し始めないとアレなので書いてみる。この本は昭和20年の日記となる。終戦前後の記録としての価値がある。山田さん曰く、

一日ごとにありのまま、感じ、見たことを記録したこの日記
(p.10)

だという。今であればブログやツイートで大量の一市民の声がありのまま残っているが、戦争中の真の様子は報道からは伺えないから、日記のような文献は貴重であると思う。

当時既に文豪と呼ばれた人達がいたと思うのだが、どんな日記を書いていたのか興味がある。山田さんの場合、当時は医学生ということで、かなり理屈っぽい

B29は今後昼間爆撃の基地を失い、夜間のみとなれる由書かる。これは面妖なり。
(一月七日)

今回は、引用は全て昭和二十年なので、何月何日だけを表記させていただく。この引用は、新聞にそのような話が出ていたという件。アメリカは昼の爆撃と夜の爆撃で出撃する基地が決まっているのか謎。ていうか、昼しか爆撃できないというのはまだ分かるが、夜しか使えないというのは確かに理屈が分からない。

銭湯に行くのも戦闘だった。

とにかくふつうの履物をはいてゆけば、絶対に盗まれる
(一月七日)

一瞬の隙も命取りになる。いや、命だけは助かっている。かといって裸足で行くわけにも行かない。原理的には裸足で行って、履物を盗んで帰るという技はあるのだが。

空襲跡の記述は至るところに出てくる。この時点ではまだ大空襲前夜ではあるが、既にヤバい状況なのだ。

神田区役所附近、美土代町、神田駅附近、惨澹たる廃墟と化す。
(一月八日)

山田さんの思想の根本原理は虚無のようだ。ということで、廃墟というのはカラーとしては合っているような気がしてくる。

人類が幾千年たっても全然幸福の相対量を増さぬと嘆く人間は、生命の意義を誤っている。生む、ただそのことだけに生命のすべてがあるのだ。生まれてのちの幸福はその目的でも意義でもない。
(一月十三日)

生命論的な文脈中に出てくる一節。幸福の相対量という考え方が面白い。絶対量ではないのだ。そういえば幸福量一定の法則というのもあったような気がするが。山田さんは葬式まで注文している。

余の遺言はただ一つ「無葬式」。
紙製の蓮花、欲ふかき坊主の意味わからざる読経、悲しくも可笑しくもあらざるに神妙げなる顔の陳列。いずれも腹の底から御免こうむりたし。
(一月十五日)

誰でもある程度の年齢になれば、自分の葬式はどんなのがいい、とか考えることがあるものだが、学生のときにそれを考えているというのは戦時中だからか。空襲で逃げ遅れて焼け死んだら葬式どころではない。しかし山田さんは結局生き延びるのだ。

戦争は人間を正直にすという。戦場にある者或はしからん。しかれども国民の大部分を不正直にすることはたしかなり。
(一月二十九日)

最近、都営地下鉄の乗客のマナーが戦時中並だ、という話をとあるブログで書いたような気がする。裏には次のような話がある。

この行列を見つつ割込まんとする老女あり。みな口々にこれを叱れど、笑み返すのみにて去ることなし。ついに割込み買いて去る。珍しきことにあらざれど、四十過ぎての女ばかり図々しきもの世にあらず。
(一月三十一日)

何の行列かというと、七味トーガラシだという。トーガラシを買うにも並ばないと手に入らないし、並んでも運が悪いと手に入らないのだ。最近、限定品の人形でそういう話があったような。てなわけで、他にも列に割り込まれる話が出てくる。当時の日本はそれで当たり前だったらしい。

これで1月終わりなので、今日はここで止めておく。毎月に分けて書きたいわけではないが。


戦中派不戦日記
山田 風太郎 著
角川文庫
ISBN: 978-4041356586