今日は「新装版 日本人を考える 司馬遼太郎対談集」から、 桑原武夫さんとの対談を紹介する。 タイトルは「〝人工日本語〟の功罪」。 この対談は1971年に行われた。
ここで「人工日本語」というのは、方言に分かれていた旧知の土着の日本語ではなく、共通語として生成した標準語のことを言っている。今だとAIが作る文章とかあるから、もっとヘンな時代になっているようだが、それはさておき。
そういう人工日本語つまりいまの標準語は、論理的表現はできるが、感情表現にはどうも適しておらないように思います。
(p.243、司馬)
例として「ああしんど」が紹介されているのだが、どうもピンと来ない。SNSやスマホはもちろん、インターネットは世間には知られていない時代の話だ。ただ、感情表現云々よりも、日本人の感情が変化したという考え方もありそうだ。
松本清張さんの文章に対して、
ひとつのセンテンスがひとつの意味しか背負っていない文章ですね。それまでの多くの書き日本語は、途切れもなく続いて、ひとつのセンテンスという荷車に、荷物を沢山積んでおった感じがしますが、
(p.249、司馬)
樋口一葉とか尾崎紅葉の文章はワンセンテンスにてんこ盛りで、どんどん意味が繋がっていくスタイルだった。詩の対局を行くような文章だ。それに比べて松本清張さんは革命的なのだ。
ああいう東条語で議論をしてゆけば、現実の軍事情勢がどうなっていても、インパールへ大軍を送るべきだというような結果になるような感じがします。
(p.253)
とはいっても、それで丸め込まれるのは聞く側の問題が大きいような気もする。
桑原さんは日本語と欧米の言語の論理性を比較している。
論理的であるかないかを何によって考えるかというと、普通アリストテレス以来の西洋の論理学によってでしょう。ところが、もう一つ、感情の論理学という問題もありますね。
(p.254、桑原)
日本語にはロジカルに考えると非論理的なのに説得力がある、というような「こころの論理」があるのだ。情に訴えるというか、論理的にはアレだけど直観的に正しいような気がする表現があるし、
日本語にはいろいろ問題があるにしても、むつかしい哲学でも精密科学でも自国語で書ける。
(p.259、桑原)
ラテン語系の言語では書けないようなコトも書けそうな気がする。個人的には、これは主語が省略できるという特徴による影響が大きいと思う。英語は文の構造的に主語がないとどうにもならない。日本語は主語が分かり切っていたら書かなくても意味が通じる。書かないという逆説的な表現がある。解釈を100%受け手に任せてしまうのだ。
わたしも『文学入門』という本の中に「これほど人生にとって大切なものはない」と書いた。文学は人生にとって必要だということを書いた本ですが、「これ」は、文学という意味にも、文学を読むことという意味にもとれる。
(p.260、桑原)
日本語は多義的、曖昧な表現が多用される言語ともいえる。曖昧になることで、表現できる範囲が広がり、厳密な表現しかできない言語を超えたモノを表現できるのではないか。
(つづく)
新装版 日本人を考える 司馬遼太郎対談集
司馬 遼太郎 著
文春文庫
ISBN: 978-4167901257