今日は山本周五郎さんの「柳橋物語・むかしも今も」から、柳橋物語です。人情噺です。
私が山本周五郎さんにハマるきっかけになったのは「葦は見ていた」なのですが、この話も同じようなうまく行かない人生がベースになっている作品です。幸せというのが何なのか、というのは永遠のテーマですが、
運、不運なんというものは死んでみなければ知れないものさ。
(p.27)
これでは何か張り合いがないような気もするし、
金があって好き勝手な暮しができたとしても、それで仕合せとはきまらないものだ、人間はどっちにしても苦労するようにできているんだから
(p.36)
どうやっても苦労するというのは真実だとしても、これはこれでキツいですね。確かに、金持ちで不自由なく暮らせたら幸せか、というと人生そんなに簡単なものではないのです。
この物語は、おせんちゃんが将来を誓い合った庄さんという男を待っている間に、江戸の大火で一人になってしまい、赤ん坊を拾って呆然としているところを赤の他人の勘さん夫婦に助けてもらって何とかなるかという時に、洪水で夫婦が行方不明になってしまい、その後も踏んだり蹴ったりで村八分のような生活をすることになるという、大変苦しいストーリーです。
「人間は調子のいいときは、自分のことしか考えないものだ」
(p.66)
そうはいいますが、この物語では、調子のいいときは他人の悪口ばかり言ってるような気がします。それはおいといて、実はこの科白には続きがあって、
「……自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる、だかもうどうしようもない、花は散ってしまったし、水は流れていってしまったんだ、なに一つとり返しはつきあしない、ばかなもんだ、ほんとうに人間なんてばかなもんだ」
(p.66)
気付いた時には手遅れだというのです。これでは最初から最後まで人生が不運で決まってしまったようなものですが、おせんさんは、この話の最後は、
世を憚ったり怖れたりするいじけた気持ちもなくなり、「生きよう」という心の張と力が出てきた。
(p.213)
このように心が変わっていく、その途中経過が生々しく激しくて、読み終わるとちょっと疲れる作品です。「葦は見ていた」を最初に読んだときは呆然としたものですが、これはこれでもやもやした不思議な感覚が残ります。
「むかしも今も」はまた別の機会に紹介したいと思います。