Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

掟上今日子の推薦文

何かどれを書いたかもう分からなくなってるんですけど、今日は忘却探偵シリーズから「掟上今日子の推薦文」。

まず、いきなり教訓的ですが。

人生は就職したくらいでは決まらない。
(p.6)

就職は、せいぜいベクトルの始点が固定された程度のことですね。方向も大きさも無限の組み合わせがある。ただ、そこから到達できる範囲は限られてしまうのです。それが人生。

だから――人生の転機なんて、どこにあるのかわからない。がっかりすることなんてない。人はいつからだって変われるし、未来に何が待ち受けているか、いつだってわくわくしていていいのだ。何歳になっても、どんな一日だって、冒険の始まりなのだ。
(p.7)

バッドエンドもありますけどね。もっとも、バッドがない限り、ハッピーエンドもあり得ないのです。

先生いわく、才能ってのは、より高度な努力をすることができる、資格みたいなものだってよ――俺は天才だから、人の百倍努力しなきゃならねーそうだ。
(p.50)

そんな程度で足りますかね。何をもって百倍というかですが、人って案外努力してないですよ。

「人は必然性がなくとも嘘をつきますよ」
(p.96)

このカードに書いてあることは嘘、という数学パズルを思い出しました。

仕事を依頼して、謎を解いてもらっても――何も変わったわけではなく、そして、何を変えようというつもりもない。
(p.125)

本人の脳内のデータは変わると思いますが。つまり学習です。

食料問題に関して、

『食べたくても食べられない人』が住まう環境を、『好き嫌いみたいな贅沢が言える』ようになるまで発展させるのが、道理と言うものではないだろうか?
(p.131)

動物愛護団体が激怒しそうな話ですね。個人的には植物を無視して動物だけ愛護するのはどうかと思うのですが。植物も生きているはずです。また、最近は「好き嫌い」じゃなくて、ソレ食べたら死ぬ系の人が激増中のような気がします。それも激増したわけではなく、昔は食べて死んでいたのが、今は食べないから生き延びている、という解釈が妥当なのかもしれませんが。

むしろ今の時流は、才能という考えかたを、できるだけしないで過ごすような方向に向いていると思うのだが。
(p.157)

一斉繰上スタート…じゃなくて、運動会でみんなでゴール的な。

さて、ストーリーにアトリエ荘というマンションが出てきます。老人の所有物件で、画家の卵を住まわせているのですが、

将来を夢見る若者達が集う、クリエイティブ精神にあふれる創作集団か何かだと思っているんであれば、そりゃあまったくもって違うってことだけは、しっかりわかっとけよ。将来をを夢見る若者というより、俺も含めて、夢食って生きてる化物共の集う場所だ。
(p.181)

表現力がイメージに追いつかない人を集めたら、魑魅魍魎の巣窟になるのです。

偏らせれば、崩れやすくなります
(p.191)

バランスの問題ですね。最後にちょっといいことを。

一流のプロフェッショナルに共通するのは、やはり、努力した時間の圧倒的な量なのだ。
(p.194)

10年とかいいますね。


掟上今日子の推薦文
西尾 維新 著
VOFAN イラスト
講談社BOX
ISBN: 978-4062194501

南京慟哭

今日紹介するのは「南京慟哭」。

南京事件を実際に体験した中国人による小説。小説とはいっても、実際の体験がかなり使われていると思われる戦闘シーンは壮絶にリアルである。

玉龍はまた怯えてしまった。そして辺りをもう一度よく見まわしてみた。よく見てみると、この人の言うとおり、切断された血まみれの足が草地に転がっていたのだ。
(p.49)

玉龍は血が苦手な仏教徒だ。説得されて、爆撃を受けた建物に救出に行って、足を失った人を見付けるシーン。このような場面はリアルに日常的だったらしい。

日本がやっている戦争の目標は中国の民衆ばかりで、軍隊ではないんだ――
(p.64)

これが爆撃された市民の言葉なのだ。もちろん目標は軍隊だろうが、実際に巻き添えになる市民としては当然の感情だろう。

これから、市民のものは何一つ、草や髪の毛一本だって、道に落ちている金であっても絶対に持っていちゃいかんぞ。中国兵というのはこうでなければいけないんだ。
(p.101)

袁唐(ユエンタン)が、民家から物品を盗んでいる兵士を見付けて叱責するシーン。その民家はこれから焼き捨てることになっていたので、兵士は「焼いてしまうものなら持っていたって構わない」と判断したのだ。そう言われて、袁唐は自分の判断が間違っているのではないかと迷うが、結論として、先のように言って見逃すことにする。

後半に多数出てくる戦闘シーンは具体的で説得力のある内容と、心理的な葛藤が細かく描写されているあたりが興味深い。

「どのくらいある?」
張涵(チャンハン)は、つまらなさそうに聞き続けた。
「五百発です」
「足りるのか?」
「言うまでもなく、どう考えてみても足りません」

答えているのは部下の王煜英(ワンユイイン)。機関銃兵。日本軍の戦車が攻撃しに来るというので、鋼心弾が何発あるかと問うたのである。南京を守る中国の部隊が物資に不足していたことがわかる。結局、圧倒的に戦力で劣るため耐えきれず、逃げ出すことになるのだが、

誰かが丸太と縄でいかだを組み、そのうえに乗りこんだ。するとまた人々はこのいかだに殺到した。
先に乗った者は後の者を蹴落とし、後から来た者は先の者を引きずり降ろす。
(p.179)

地獄絵図である。現実のバトルシーンはそういうものなのだ。

厳龍が見たものがある。何なのだろう。

ふと見上げると大きな木の枝に外套のようなものが何枚か掛っている。ぼんやりとしてよく見えないが、八枚はあるようだ。不思議に思って近づいてみると、それは日本兵の首吊り死体だった。それもどうやら自殺のように見えた。
(p.209)

それが何故なのかは描かれていないのだが、このようなシーンをわざわざ想像して書く必然性はないから、実際に見たのだろう。しかし、なぜ当時の状況で日本兵が自殺しなければいけないのかは、分からない。

日本は重大な矛盾をその内部に抱えているがゆえに、必ず敗れるということが、このときはっきりわかった。
(p.210)

このように書かれているが。その矛盾が何かも分からない。

訳者解説には、次のような記述がある。

この小説には中国共産党が一度も現れない。だがこれは戦史において、まぎれもない事実であった。歴史学者黄仁宇は最近出版された著書「中国マクロヒストリー」(一九九四・四、東方書店)の中で、中日戦争二千百万の中国人犠牲者のうち、その三分の二以上は国民党軍とその統治下の民間人であり、抵抗の歴史から国民党の力を消すのは妥当でないという指摘をしている。
(p.228)

中国には出版の自由はない。完全な情報コントロール下にある。そこからこのような本が出てくるのは、ある意味驚きである。


南京慟哭
阿壟 著, 原著
関根 謙 翻訳
五月書房
ISBN: 978-4772702188

修道女フィデルマの挑戦(修道女フィデルマ短編集)

今日は「修道女フィデルマの挑戦」。先日紹介した「叡智」と同じシリーズで、6つの短編が入っています。

最初の2作品は、フィデルマの学生時代の話で、ファン的にいろいろ見所があるようです。1話の「化粧ポウチ」は、フィデルマのポウチが盗まれます。これは案外簡単に解決してしまいますが、奥が深い言葉がわんさか出てきます。

聡明な言葉と賢明な行動が、常に手を取り合っているとは限りません
(p.19)

口だけとかね。深くもないか。ストーリー的には簡単に判断するな、ということのようですが。

2話「痣」はフィデルマの卒業試験です。面接ですね。

我らの古の進行は、知識を文字に記すことを禁じておった。
(p.67)

古代のどこかでそのようなルールがあったような気がしますが、ギリシャ? 面接のバトルはだんだんヒートアップしていきます。

その言葉がどなたの口から出たものであれ、真実は真実です
(p.95)

いろんな人の話を聞いてから判断しろという話の後で、先の言葉が出てきます。よくあるのが、偉い人の話を鵜呑みにするというパターンです。しかし、幼稚園児だって正しいことを言えば正しいのだし、大学教授だって間違ったことを言えばそれは間違いでしょう。卒業試験の趣旨としては、

反対者を前にして、不利な状況にあろうと、あるいは権威の壁にぶつかろうと、あくまでも真実を見出す努力を貫き通す堅忍不抜なる精神力を持っているかどうかを見る
(p.99)

とかいって、無理難題を吹っかけてくるのです。試験前に閉じ込めるとか、結構無茶苦茶やっています。

ところでこのシリーズ、巻末の解説でも指摘されているのですが、

フィデルマは、走ることにした。ちょうど廊下の曲がり角にさしかかった時、逆のほうからやって来たらしいアインダールが、ぶつかってきた。
(p.34)

よく廊下の出合い頭でぶつかるんですよね。そもそも走っちゃダメだと思うのですが。ちなみに解説者は、こんなことを言っています。

次回はぜひパンをくわえさせてほしい。
(p.313)

食パンは必須ですよね。

3作目の「死者の囁き」は、死体から犯行を推理するという、法医学の達人みたいな話です。死人に口なしといいますが、実際は多くを物語るわけです。

外観を、相手の秘めた本質だと思い込むことは、愚かしいことです
(p.115)

私の場合、展示会等に名刺持参で行くときは、普段の十倍の値段の服を着て行きますね。いい腕時計をして。何をしたいのだろう。

4作名「バンシー」(The Banshee)。バンシーは日本でいえば死神みたいなものでしょうか。

遥かなる昔、バンシーは、ある特定の高貴な一家に庇護を与える女神であって、彼らの地上の生が終わって、〝彼方なる国〟に生まれ変わろうとする時が近づくと、差し迫った現世の死を悲しげに告げてくれる、と考えられておりましたのじゃ
(pp.155-156)

歌声を聞くと死ぬというのはセイレーンのような感じでしょうか。鵺の鳴く夜とか。

5作目「消えた鷲」は宝さがし。このシリーズにしてはちょっとパワーが落ちる感じがしますが、もしかすると原作はラテン語が分かると解けるのかも。6作目「昏い月 昇る夜」は、消えた船と荷物を探索する話。江戸の廻船問屋のような話です。船主は損害賠償を求めていますが、フィデルマは消えた乗組員が気になってしまいます。そういう性格のようです。


修道女フィデルマの挑戦(修道女フィデルマ短編集)
ピーター・トレメイン 著
甲斐 萬里江 翻訳
創元推理文庫
ISBN: 978-4488218225

掟上今日子の備忘録

今日は忘却探偵シリーズから「掟上今日子の備忘録」です。順番滅茶苦茶で紹介してきましたが、これがシリーズ最初の作品ですね。

すでに誰が誰とか紹介してしまったような気がするので、忘れましたが、あえて繰り返しません。この巻を読めばだいたいのことが分かるようです。5つの短編が入っています。

第一話 初めまして、今日子さん
第二話 紹介します、今日子さん
第三話 お暇ですか、今日子さん
第四話 失礼します、今日子さん
第五話 さようなら、今日子さん

第一話は、

犯人を罠にひっかけるようなやりかたは禁じ手にしている
(p.62)

というような禁じ手で犯人を特定しているので、まあ反則みたいなものですな。

第二話は

「お前の百万円は預かった。返して欲しければ一億円用意しろ」
(p.74)

という謎の脅迫事件なのですが、個人的に、どうして百万円で一億円を要求できるのか、という最大の謎が読んでいる途中で解けてしまったので、ミステリー的にはいまいちなのでしょうか。ただ、ネットバンキングを使わないというのは、単純に足が付かないようにするため、という理由がありそうなので、そこはどうかと思いました。

で、気を取り直して、第三話なのですが、これがまた、

作品の原稿枚数は、およそ120分あれば読めるくらい。
(p.170)

これでピンと来てしまったので、これまたいまいちなのか。しかし、今時の若い人は120分といわれてもピンとこないでしょ。私の世代だとピンと来てしまうのですよ。それより、この話は次の箇所。

忘れているものだ。そして、覚えているものだ。なるほど、新しい知識を知り、新しい体験をするというのは快感だが、同様に、忘れている知識や体験を思い出すという行為も快感である――気持ちいい。
(p.161)

確かに何十年も前のことを再認識することはあります。しかし、完全に忘れていたり、誤解が定着してしまった記憶もあるものです。

第四話、第五話は、第三話からの連作で、第三作に出てきた須永昼兵衛という小説家が不審死した事件のネタです。

作家にとって自殺というのは、お前が考えているほど不名誉な最期ではない。
(p.211)

これに関して、その後いろいろ反論とか交えて出てくるのですが、個人的には、作家だろうがそうでなかろうが、自殺と名誉はあまり関係ないと思っていますけど。キリスト教の世界だと自殺は超絶悪であり、武士だと切腹は名誉を守る行為なんですよね。ややこしい。


掟上今日子の備忘録
西尾 維新 著
VOFAN イラスト
ISBN: 978-4062192026

アンナ・カレーニナ

長編です。どこかに「カレーの話じゃないよ」的なことを書いたような記憶がありますが、気にしないでください。今回読んだのは、望月哲男さんの訳です。人物紹介とかしていたら今年が終わってしまいそうなので、ほぼヤメたいところですが、最小限ということで、個人的に注目したのが、アンナではなくリョーヴィン。アンナの兄はオブロンスキーで、その妻ドリーの妹がキティ。キティが結婚する相手がリョーヴィンという人間関係になっています。

結婚話も一筋縄ではいかないのですが、個人的にどうしても気になるのが、リョーヴィンの性格なのです。

どんな性格かというと、例えば、オブロンスキーがリョーヴィンに対して言った言葉。

きみは自分が筋を通す人なので、世の中のこともすべて筋が通っていてほしいんだろうが、そうは問屋がおろさない。
(第1巻、p.111)

また、本人自身は次のようなことを考えています。

なぜなら正しい思想は必ずや成果をもたらすものだからだ。
(第2巻、p.277)

もちろんこんなことは理想論であり、確かに成果はあるかもしれませんが、それが期待した成果である保証はありません。実際、リョーヴィンは現実に何度も打ちのめされます。それに対して、リョーヴィンは理屈を抜きにして自分の考えた通りにやってしまうという不条理なところがあります。

キティのこの言葉、

議論なんて、何が面白いんでしょう? どちらかが相手を言い負かすなんていうことは、けっしてありえませんのに」
(第2巻、p.404)

これに対して、リョーヴィンは次のように返します。

たいていの場合、議論が白熱するのは、単に相手が何を論証したがっているのかどうしても理解できないからですよ
(第2巻、p.404)

何か妙にクールですよね。全篇に渡って、議論のシーンは多々出てきます。それは当時のロシアの政治や風潮を批判する意味もあるのかもしれませんが、コズヌィシェフが次のように言ってますので、

「われわれロシア人はいつもそうだ。ひょっとしたらそこがまたわれわれの長所なのかもしないがね。つまり自分の欠点を見る能力がさ。でもわれわれはつい度を越して、皮肉の投げあいに没頭してしまうのさ。
(第1巻、p.69)

実はこの小説は皮肉小説なのかもしれません。

この物語のロシアは農奴解放後、貴族という階級が未だそれを支配するという中途半端な時代の真っただ中て、リョーヴィンは今の日本でいうと中間管理職のような立ち位置、部下である農民はいうことを聞かないし、業績は上がらない、という板挟み状態になっています。

ところで、タイトルになっているアンナはだんだん壊れていきます。

「いまの人は、わたしを知っていると思ったのね。でも他の世間の人たちと同じように、わたしのことなんかちっとも知らないんだ。わたし自身だって知らないんだから。」
(第4巻、p.232)

自分が自分を知らないというのは哲学的な話のようです。流石にロシア文学に禅のような思想は入ってこないと思うのですが、次はリョーヴィンの考えです。

自分は実際、人生における一つの小さな条件を失念し、見逃していた。つまり死がやってくれば、すべてが終わってしまう。だから何ひとつはじめる価値はないし、しかもそれはどうしようもないことなのだ。
(第2巻、p.289)

これでは、映画やドラマやアニメがいつかは終わるから見る価値がないと言っているようなものですが、誰でもこの種のニヒルを一度はしてみるものです。リョーヴィンはこの難問を宗教的に解決しますが、今のロシア人だとどのように解決するのでしょうか。


アンナ・カレーニナ〈1〉
レフ・ニコラエヴィチ トルストイ
望月 哲男 翻訳
光文社古典新訳文庫
ISBN: 978-4334751593

アンナ・カレーニナ〈2〉
ISBN: 978-4334751609

アンナ・カレーニナ〈3〉
ISBN: 978-4334751630

アンナ・カレーニナ〈4〉
ISBN: 978-4334751708

りぽぐら!

表紙に書いてありますが、リポグラム lipogram というのは、特定の語または特定の文字を使わないで書くという遊びです。遊びと言い切っていいのかな。いいでしょう。こんなのハンマーの折れたタイプライターで小説を書きたい人でもなければ何の現実性もありません。しかも、ハッキリ言って読んでいて面白くない。書くのは面白いかもしれないが、同じ話を何度も読まされて、エンドレスエイトじゃあるまいし。まあでも各ショートストーリーはそれなりにスパイシーなので紹介してみます。

1作目は「妹は人殺し」。滅茶苦茶非現実的な話で、兄に気付かれずに妹が自宅に来た友達を殺してベッドの下に隠すなんてあり得ない。でもそんなのどうでもいいわけで、比較のために、最初の1文を引用しておきます。

妹が人を殺したらしい。
(p.8)

これが1パターン目は、こうなります。

僕の妹は殺人犯。
(p.24)

何で表現が変わるかというと、「あ・お・き・け・ち・な・に・ぬ・れ・ろ」は使用禁止なのです。ということは「殺した」は「ころした」で「ろ」が入ってしまうので使えません。でも「らしい」は残してもいいんじゃないのかな。で、2パターン目は「こ・し・す・せ・ひ・ま・ゆ・ら・る・わ」が禁止です。

妹が人を殺めた。
(p.40)

案外あっさりとクリアしている。「殺した」は「こ」がダメなので「あやめた」になりましたか。「らしい」も「し」がダメ。そして3パターン目は

実妹が人間を殺したのだ。
(p.56)

「じつまい」なんて言葉聞いたことないですけど。仮妹ってのもあるのかな。4パターン目にもなると、

我が愚昧、人を殺しけり。
(p.72)

何で古文? というのは、禁止語に「た」が入っているのです。「た」を禁止にすると「~だ」という表現がアウトなのでもうどうしようもないのを、古文だと何とかなるなり。これ、2作目の「ギャンブル『札束崩し』」では、関西弁にすることで回避しています。関西弁だと「だ」は「や」に置き換えてokなんやで。3作目の「倫理社会」は古文・関西弁、両方出てきます。

この「倫理社会」のストーリー、ちょっと気になったので紹介しますと、世界は完全監視社会で、全ての行動がポイントとして評価されるという想定です。だから悪いことはできない。してもいいけど、したら評価が下がっていろいろ不便になるのです。ところが、全世界が監視されているはずなのに、一か所だけ死角があった。そこでは何をしても評価に影響はない。という場所で、

倫理的な配慮を一切することなく、ぼくは彼を、気がついたら殺していた。
(p.188)

というのですが、ここがどうも納得いかん。評価されないからといって、そう簡単に殺せるものなのでしょうか。人間は洗脳されます。残念ながら。普段から倫理的な行動を強制されていたら、何をしてもいいと言われても普段通り動いてしまうような気もするわけです。

ちなみに、禁止ワード「えすたちにぬふほよわ + さそとねめる」になると、

拙者は倫理を擲(なげう)って――彼を心から殺して。平穏をなくせしものなり。
(p.200)

「くけせひまやゆりれん + さそとねめる」だと、

私は。彼女を。殺した。
公序値を――公序を無視して。
でも、無私ではない。
(p.213)

なにが。

そして、「いおかつてなのみむろ + さそとねめる」で、

ゆえに儂は不審者を死者にした。
やましくはあらへんや――ここに公序はあらへんように。
(p.226)

「あらへんや」は変やな。「あらへんのや」…はあかんのか。ここは「あらへん」だけでええんちゃうか。


りぽぐら!
講談社ノベルス
西尾 維新 著
ISBN: 978-4061828971

修道女フィデルマの叡智 修道女フィデルマ短編集

今日の本は「修道女フィデルマの叡智」。ミステリーでファンタジーです。この本は短編集で、5つの作品が入っています。

フィデルマはドーリィー(弁護士・裁判官)であり、アイルランド五王国の法廷に立つ権利を持っていて、アンルー(上位弁護士)という肩書も持っていて、しかも王位継承予定者の妹という、至れり尽くせりの設定で、知恵と勇気【謎】で難事件を解決していくのです。 聞き取りの結果から真犯人を推理するストーリーは正統派、なかなかのもので、さらに、このシリーズは意外な犯人というところでかなり首尾一環しています。

1作目「聖餐式の毒杯」は、ローマ巡礼中にたまたま立ち寄った小さな教会のミサで毒殺事件に遭遇するという話。登場人物は少ないのですが、皆怪しくて、読んでいても犯人を絞らせてくれません。

2作目「ホロフェルネスの幕舎」は、旧友のリアダーンが息子の殺害犯人として捕らえられて、その弁護をするというストーリー。動機もなかなか深くできています。ファンタジーということで、刑罰も独特なのですが、

もしリアダーンに有罪判決が下された場合、いたって禍々しい犯罪であるので、リアダーンは屋根も櫂も帆もない小舟に、食料も水もなしに乗せられ、外洋へ押し出されることになりましょうな。
(p.88)

この刑罰の意味は巻末に解説があって、「神の裁きに委ねる」という趣旨のようです。こういう刑罰は現代社会では見られないものですね。

3作目の「旅籠の幽霊」は、母危篤の知らせを受けて吹雪の中を旅しているフィデルマが嵐の中に見つけた宿屋に幽霊が…というストーリーです。この宿屋の主人が、

この旅籠の中に、お宝を残していく
(p.146)

と言って出兵するのですが、あっさり戦死してしまう。独り身になってしまった女主人のモンケイはお宝を探しますが、出てきません。ていうか、元から信用していないのです。あれこれ何とかやりくりしているうちに、今の主人を見付けて結婚し、二人で宿をやるようになったのです。そこで出てきたのが元夫の幽霊というコワイ話。ちなみにこの話、フィデルマの母はどうなったのか全然分かりません。

4作目の「大王の剣」は、王位継承に使う剣が盗まれてしまうという物語。王位を継承する者が守るべき七つの証というのが、

「正しき王は、タラの〈大集会〉において承認されたものでなければならぬ。王は、唯一の真の神エホバの教えに従うものでなければならぬ。王は、王権の象徴である聖なる宝剣を継承し、それに対して忠誠をつくす者でなければならぬ。王は、〈ブレホン法〉を遵奉して国を治めねばならぬ。王の判断は、公正にして確乎たるものであって、非難を招くが如き瑕瑾ある決断であってはならぬ。王は、王土と国民の繁栄と安泰を求めねばならぬ。王は、決して大儀なき戦にその武力を行使してはならぬ……」
(p.184)

宝剣がないと王位が継承できませんから大変です。容疑者は既に逮捕されていますが、剣が出てきません。そこでフィデルマ登場となるのです。この話は動機が意外で、やはり面白いです。

5作目の「大王廟の悲鳴」は、墓場から悲鳴が聞こえてきたという、これもコワい話。封印されている墓の門を開けてみると、

扉のすぐ内側に、男の死体が転がっていたのだ。
(p.254)

封印されている墓地で殺されたのだから密室殺人のようなものですね。


修道女フィデルマの叡智 修道女フィデルマ短編集
ピーター・トレメイン 著
甲斐 萬里江 翻訳
創元推理文庫
ISBN: 978-4488218119