長編です。どこかに「カレーの話じゃないよ」的なことを書いたような記憶がありますが、気にしないでください。今回読んだのは、望月哲男さんの訳です。人物紹介とかしていたら今年が終わってしまいそうなので、ほぼヤメたいところですが、最小限ということで、個人的に注目したのが、アンナではなくリョーヴィン。アンナの兄はオブロンスキーで、その妻ドリーの妹がキティ。キティが結婚する相手がリョーヴィンという人間関係になっています。
結婚話も一筋縄ではいかないのですが、個人的にどうしても気になるのが、リョーヴィンの性格なのです。
どんな性格かというと、例えば、オブロンスキーがリョーヴィンに対して言った言葉。
きみは自分が筋を通す人なので、世の中のこともすべて筋が通っていてほしいんだろうが、そうは問屋がおろさない。
(第1巻、p.111)
また、本人自身は次のようなことを考えています。
なぜなら正しい思想は必ずや成果をもたらすものだからだ。
(第2巻、p.277)
もちろんこんなことは理想論であり、確かに成果はあるかもしれませんが、それが期待した成果である保証はありません。実際、リョーヴィンは現実に何度も打ちのめされます。それに対して、リョーヴィンは理屈を抜きにして自分の考えた通りにやってしまうという不条理なところがあります。
キティのこの言葉、
議論なんて、何が面白いんでしょう? どちらかが相手を言い負かすなんていうことは、けっしてありえませんのに」
(第2巻、p.404)
これに対して、リョーヴィンは次のように返します。
たいていの場合、議論が白熱するのは、単に相手が何を論証したがっているのかどうしても理解できないからですよ
(第2巻、p.404)
何か妙にクールですよね。全篇に渡って、議論のシーンは多々出てきます。それは当時のロシアの政治や風潮を批判する意味もあるのかもしれませんが、コズヌィシェフが次のように言ってますので、
「われわれロシア人はいつもそうだ。ひょっとしたらそこがまたわれわれの長所なのかもしないがね。つまり自分の欠点を見る能力がさ。でもわれわれはつい度を越して、皮肉の投げあいに没頭してしまうのさ。
(第1巻、p.69)
実はこの小説は皮肉小説なのかもしれません。
この物語のロシアは農奴解放後、貴族という階級が未だそれを支配するという中途半端な時代の真っただ中て、リョーヴィンは今の日本でいうと中間管理職のような立ち位置、部下である農民はいうことを聞かないし、業績は上がらない、という板挟み状態になっています。
ところで、タイトルになっているアンナはだんだん壊れていきます。
「いまの人は、わたしを知っていると思ったのね。でも他の世間の人たちと同じように、わたしのことなんかちっとも知らないんだ。わたし自身だって知らないんだから。」
(第4巻、p.232)
自分が自分を知らないというのは哲学的な話のようです。流石にロシア文学に禅のような思想は入ってこないと思うのですが、次はリョーヴィンの考えです。
自分は実際、人生における一つの小さな条件を失念し、見逃していた。つまり死がやってくれば、すべてが終わってしまう。だから何ひとつはじめる価値はないし、しかもそれはどうしようもないことなのだ。
(第2巻、p.289)
これでは、映画やドラマやアニメがいつかは終わるから見る価値がないと言っているようなものですが、誰でもこの種のニヒルを一度はしてみるものです。リョーヴィンはこの難問を宗教的に解決しますが、今のロシア人だとどのように解決するのでしょうか。
アンナ・カレーニナ〈1〉
レフ・ニコラエヴィチ トルストイ 著
望月 哲男 翻訳
光文社古典新訳文庫
ISBN: 978-4334751593
アンナ・カレーニナ〈2〉
ISBN: 978-4334751609
アンナ・カレーニナ〈3〉
ISBN: 978-4334751630
アンナ・カレーニナ〈4〉
ISBN: 978-4334751708