Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

つぶさにミルフィーユ

今日は、森 博嗣さんの「つぶさにミルフィーユ」。例によって例のごとくのエッセイ集です。以前、何を紹介しましたっけ? ま、いいか。

あまり気にしないで気になったところだけちょろちょろと紹介してみます。まず本気出さない戦略。

本気は出さない、という戦略もありえる。
(p.45)

ありえるどころか、これ日常茶飯事ですよね。サッカーの試合とか。時間つぶしのパス回し…ってあれは本気でやってるのか。私は100%以上で仕事したのって数回しか記憶にないですよ、いや、記憶にございません。もう忘れました。本気でやると超疲れますからね、本気で1日やって2日ぼんやりするより、80%で毎日コツコツやった方がよほど効率がいい。そういう世界もあります。

まあでも、ここで言ってる本気というのは、「おまえ、本気を出さないって本気か?」「うん、本気だ」「マジかよ」みたいな感じかな。

小節を読む人間が、日本には千人に一人くらいしかいないし、
(p.72)

これって本当なんですか?

いくら何でも少なすぎるような気がするのですが、とある一冊を読む人間が、という意味…いやいや、

ある特定の作品になると、何万人に一人くらいの確率になる
(p.72)

よく分からんですね。私の周囲の人達は大抵、小説を読んでいますけど、それって超絶珍しい環境なのかもしれません。それにしても百万部売れる小説とか、千人に1人しか読んでないのなら、日本には人間が10億人いるんですよね。いやまて、もしかして森さんの小説をって意味ですか。

十二といえば、十二支と十二単くらいしか思いつかない
(p.79)

よく十二単を思いついたな、と思います。もちろん時間の話はこの少し前に出てくるので、見落としてはいません。ただ、日本語には「十二分」(じゅうにぶん)という言葉がありますよね。私はそちらがまず頭に浮かびました。120%という感性が宇宙戦艦ヤマトみたいでナイスなのです。あと冠位十二階とかどうよ。十二支まで来たのなら十二使徒とか。

「予定どおり粛々と進めることについて、もう少し語ろう。」で、作業に没頭しているときにこんな感じだといいます。

この「没頭」が面白いのである。
(p.92)

これはよく分かるような気がします。プログラムを修正するときに、そのような作業がよくあります。

森さんは、英語が苦手だったけど英語は読める、想像できるから、といいます。

ぼんやりとこんな意味だったなと思っているがままの方が英語がわかる。
(p.95)

イメージというか、対応する日本語じゃなくてぼんやりを関連付けるというのがミソなのだと思います。先日、Yahoo!知恵袋にあった質問に、This questionn is the () difficult of all. という穴埋め問題があって、正解は most なのですが、best はなぜ間違いなのか、というのがありました。この人は best を「いちばん」という意味だと思っているわけです。その「いちばん」とはちょっと何かが違うようですが。

知っていることと、わかっていることは違う。
(p.95)

ま、確かにプログラミングを知っていてもわかっていない人がいますね。あと、分かっていないのに開発できる人がいます。これは、わんさかいます。

最近では、TVもネットも、無料の情報にほぼ宣伝が紛れ込んでいる。
(p.119)

結構昔からそうだったような気がしますけど、ステマ、ていうか、どことはいいませんがパソコン通信は有料サービスでしたが宣伝が紛れていたような…

デビュー以来二十数年間、ほぼ毎日書いてきた。
(p.146)

ブログを毎日書いているという話です。毎日書いていると、毎日書いているという話を書きたくなるようです。わかります。ところで一体そのブログはどこにあるのだ、と思って探してみるとこれが案外見つかりません。20分ほど探して発見したのですが、興味のある人は探してみてください。探すだけでも脳は活性化します。見たところ、本当に毎日投稿されているのですが、毎日 07:00 にきれいに投稿しているというあたりに何かピンときたら110番的なもやっとしたものがあります。

日記を書くことは、とても簡単だ。
(p.146)

という人もいるのですが、私にはとても難しいのです。

ついこのまえまで、企業戦士はもて囃されていた。滋養強壮剤を飲んで戦いに臨んでいた。
(p.163)

セーラー戦士というのを思い出しましたが、何でもありません。いつの間にか、残業は悪、残業は禁止という時代になっているようです。残業代が出なくなるので、自動的に、貯蓄0の世帯が増えているとか。日本はどこに向かっているのでしょう。

仮にも経営者がこんなことを言うのもなんですが、理想的には、同じことをだらだらと楽にやって残業代ももらえる方がありがたいのではないか、とか想像してしまうのです。何か、最近の企業は、残業は禁止、でも残業前と同じ量の仕事はこなせ、という厳命のようですし、そんなことしたら無残業過労死増加という新たなフェーズに突入しそうな気がします。

ウェブページでよく見かける虫眼鏡のマーク
(p172)

UIの専門家としてこれは恥ずかしい話なのですが、このアイコンが虫眼鏡だということに長年気付きませんでした。言ってよ言ってよ…。

写真を示すマークは、たいていカメラの絵なのだが、
(p.173)

こちらはデジカメという代物があるので大丈夫でしょう。デジカメがカメラの形をしなくなったら危険ですが。

つながりたい人が多いのは知っているが、つながったらなにか良いことがあるのだろうか。そこが想像できない。僕はつながっていない方が得だと考えている。つながることは面倒だし煩いし不自由だ。
(p.175)

私は森さんと同意見なのですが、つながったら良いことがあるというのは、褒めてもらえることです。つまり、ナイスを押してもらえるとか、それが今の若い人にはメリットなんです。それに、最近の若い人はウサギと同じで、つながっていないと死んでしまうのです。

スポーツ選手が故郷に凱旋するシーンをニュースで流しているけれど、あれもわからない。
(p.175)

これって古代ローマ時代の名残じゃないのかな。凱旋ってやつでしょ。


つぶさにミルフィーユ The cream of the notes 6
森 博嗣 著
講談社文庫
ISBN: 978-4062937702

子盗ろ

今日は「はぐれ長屋の用心棒」シリーズから「子盗ろ」。ことろ、というのは子供の遊びのようですが、よく分かりません。ざっくり概略を紹介しますと、今回は、人さらいと対決する話です。

このシリーズ、主人公は源九郎、というのを何度か紹介していますが、こんな感じです。

源九郎は鏡新明智流の達者だった。十一歳のとき、日本橋茅場町にあった桃井春蔵士学館に入門し、めきめきと腕を上げた。
(p.60)

その後転々として、はぐれ長屋に至るわけです。ただし転々とした間にいろんな技を身に付けています。年を取って、技を繰り出すとすぐに疲れてぜぇぜぇ言うような体力になっています。ウルトラマンみたいなものです。

この作品は、江戸の風景がよく出てきます。江戸の話なので当然ではありますが、これは武士を尾行するシーンです。

羽生は、神田川にかかる昌平橋を渡り神田へ出た。さらに、日本橋の方へ足早に歩いていく。
(略)
羽生は、芝口橋(新橋)を渡ってしばらく歩くと、右手の町家の先に増上寺の堂塔が見えてきた。浜松町である。
(pp.188-189)

羽生というのが謎の武士。増上寺というのは大門のところですが、昌平橋から浜松町って4~5kmありませんかね、結構歩いてますね。

このシリーズ、サラっと読み切れる軽さですが、ちょこちょこと江戸の風景が織り込まれています。今の東京はテクノポリスなのでその片鱗もないのかもしれませんが、何かタイムスリップしたいような気分になれます。

風のなかに魚の臭いがただよっていた。
わたった先が日本橋本船町。日本橋川の東側にあたるこの辺りが、岸沿いに魚屋が軒を連ねる魚河岸で、本船町、隣町の安針町、長浜町と生魚をあつかう店や塩乾物をあつかう店などがたて込んでいる。
(p.254)

このような光景は後世に残すべきだと思うのですが、東京は空襲で焼けてしまいましたし、ちょっと無理がありますか。江戸というのは火事で何度も焼けて復活した不死身の町なのですが、元通りになるわけではないようです。

今回の話は、最後に殺し屋と対決するときに、こんな会話があります。

「うぬの名は」
源九郎が誰何した。小室兄弟としか分かっていなかった。
「小室甚之助」
「わしは、華町源九郎」
「華町、勝負!」
(p.296)

日本人は形から入るといいますが、こういうプロトコル、好きなんですね。さっさと攻撃すればいいのに、とか思うのですが。

 

子盗ろ―はぐれ長屋の用心棒
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575662122

深川袖しぐれ

今日の本は、鳥羽亮さんの、はぐれ長屋の用心棒シリーズから、「深川袖しぐれ」です。このあたり、図書館で適当に手あたり次第に借りているので、順番は貸し出されていないのを手に取る結果、適当です。

茂次は研師、つまり刃物を研ぐ職人です。それがひょんなことで幼馴染のお梅さんを助けることになります。お梅は父親の博打の借金のカタに取られようとしていたのです。結局お梅はさらわれてしまい、それを取り戻す、というのがストーリーです。

悪役は相撲の五平。

五平は抜け目のない男でな。表向き賭場は、右腕の与三次という男に仕切らせている。そっくり挙げても、五平はたまたま客で来ていただけだと言い張るだろう。
(p.78)

悪役の親分はそんなものでしょう。この五平が自ら警告に来ます。

「伝兵衛長屋の華町源九郎さまでございましょう」
(p.106)

ふてぶてしいものです。危ない男を三人連れてきていますが、この三人が凄腕の殺し屋ということになっています。

江戸の街並みの描写もわんさか出てきますが、

特に、深川七場所と呼ばれた仲町、土橋、新地、石場、表櫓、裾継、佃新地には、遊女を置いた女郎屋や子供屋が立ち並び大勢の客を集めていた。
(p.94)

子供屋というのは見慣れない言葉だと思いますが、遊女を置いていた家のことです。遊女は子供屋では仕事をせず、呼ばれてから茶屋に向かって客と会うのです。お梅はそういう所に連れていかれたわけで、もちろん逃げ出せませんし、借金のカタで連れ出されているので逃げても連れ戻されるだけです。

殺し屋が3人も相手なので壮絶なバトルになるわけですが、猛烈な戦闘シーンはなかなかなものです。

 

深川袖しぐれ―はぐれ長屋の用心棒
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575662245

秋月記

今日の本は秋月記(あきづきき)。福岡藩支藩である秋月藩という小さな藩の話。なかなか重厚な小説で、昨日紹介したのが娯楽系の時代小説とすれば、こちらは本格派。じっくり読んだ上で数回読み返したくなる。体感的には、読んでいて、同じ文字数でも3倍時間がかかる感じがした。

物語は老いた主人公の間小四郎(余楽斎)が失脚するシーンから始まる。そして子供の頃の話から失脚するまでの長い話が始まるわけだ。子供の頃の小四郎は臆病者で、犬に襲われたときに妹を置いて逃げてしまい、妹がそれが元で死んでしまったと思い込んでいる。実際はいろんな不幸が重なって亡くなっているのだが。

弱虫では武士として生きていけないので道場に通い始めると、そこではいわゆるいじめのようなことも体験する。ただ、道場の師範である藤田伝助は、そこに見どころがあるという。

臆病者だとあきらめてしまえ。怖いがゆえに夢中で剣を振るうのだ。
(p.25)

柔術の達人、藤蔵にはこんなことを言われる。

「おのれが弱いことを知っておる者はいつか強くなれる。お主がわしより臆病ならわしより強くなるだろう」
(p.53)

弱さを知っていればこそ強くなれるというのは深い。確かに、強いと思っている人ほどうっかり無茶をしてあっけなく敗れてしまうことはある。弱い人ほど、危ないと思ったら逃げるから、敗れることはない。それはある意味強いということかもしれない。

秋月藩は小藩で、とにかく金がない。そこにつけ込んで、何とかして乗っ取ってやろうと福岡藩があの手この手をまわしてくる。それを何とかギリギリの所でクリアしていく様子が凄い。クリアすると次の敵が現われる。やっと全部片づけたと思うと、

目の前の敵がいなくなれば、味方の中に敵ができる。
(p.297)

共通の敵がいなくなると、昨日の友は今日の敵、というわけだ。くわばらくわばら。

それにしても、とにかく金がない。借金しまくっている。大坂商人からも借りていて、どうも簡単に返せそうにないから、しばらく待ってくれと交渉しに行く。これも重い役目を任ぜられたというよりは、失敗させて失脚させるのが目的のような気がしてくる。後半で出てくる大坂の芸妓、七與の言葉が凄い。

金というものは、雨のように天から降りまへん。泥の中に落ちてるもんだす。手を汚さんでとることはできまへん。
(p.310)

この七與、小四郎は他の商人に、蝮に気を付けろと警告を受けていた。その蝮である。毒がハンパなくて、最後はそれが原因で大変なことになるが、ところが小四郎はそれに動じない。いつの間にか禅の極意まで身に付けたのかは、この小説からは分からないが、こんな小話も出てくる。

「ひとは美しい風景を見ると心が落ち着く。なぜなのかわかるか」
(p.342)

これは難問だが、但しこの後に答が書いてある。個人的にはちょっと違和感が残るが、まあそれはどうでもいいことだろう。

このストーリーで、小四郎は出世するが、出世するというのは重い責任を背負うということ。小四郎の父は昔、郡奉行という役に就いていた。小四郎が同じく郡奉行に任じられた時、それを思い出して父にアドバイスを求める。すると、領内を観察することが大事だという。

「そなたにはまだわからぬかもしれぬが、ひとにとって、存外に大事なことなのだ」
(p.212)

観察といっても、探偵が捜査するようなものではなくて、

「野の風に吹かれ、河の水に手をひたし、山野の風物を愛で、作物の実りを楽しむことができる」
(p.212)

それが大事だというのだ。これは案外、今の世でも言えるようなことのように思える。何気ないところを観察していると、猛烈に重要なことが見えてくることがあるのだ。こういう所が何か悟りの境地に至るヒントなのだろうか。

悟りといえば、中盤まで悪役として出てくる宮崎織部が圧巻である。物語中盤で失脚して流刑になってしまうが、最後まで読み終えたところで、小四郎と織部が重ね合って見えてくる。奥のある構成なのだ。

最後に、長崎の石工が秋月で作った石橋が崩落してしまうシーンで石工が語る言葉を紹介したい。

「長崎では一度も橋が崩れるなどということはありませんでした。それだけに皆自信がありすぎたのです。ちょっとした手抜きぐらいで崩れることはないだろうと思ってしまいました」
(p.133-134)

自信がありすぎる、というのが面白い。石橋を叩いて渡るという言葉はあるが。


秋月記
葉室 麟 著
角川文庫
ISBN: 978-4041000670

おしかけた姫君

今日は鳥羽亮さんの「はぐれ長屋の用心棒」シリーズから「おしかけた姫君」です。シリーズ21作目ということです。

主人公は華町源九郎。普段は長屋で傘張りの内職をして貧乏生活なのですが、実は。

源九郎は鏡新明智流の達人だった。
(p.35)

じゃあ向かうところ敵なしかというと、世の中には強いのがいくらでもいる訳で、たまには簡単に勝たせてくれない相手も出てくるし、もう年なのでスタミナに問題があります。しかし経験値は高いのでいろんなノウハウを身に付けている。

多くの修羅場をくぐってきた源九郎は、利のない勝負から逃げることも剣の腕のうちだと思っていた。
(p.130)

宮本武蔵柳生宗矩の境地ですね。極めてます。とはいっても、やはりかなりの凄腕なので、腕の立つ長屋の仲間と組んで、用心棒的な業務活動をしているわけです。今回の依頼者はこんなことを言う。

そこもとたちは、これまでに旗本、御家人はおろか、大名家の騒動にも手を貸し、うまく収めているとのこと。
(p.84)

まあ悪くいえばヤクザみたいな気がしないでもないですが、よく言えば警備の人達。SPですか。前半では、篠田屋という呉服屋にタカリにきた牢人を退治します。水をかけられたと難癖をつけて五十両払えば許してやると恐喝してくる。そこで源九郎達の出番となるわけですが、コテンパンにやっつけておいて、礼金として五十両受け取る。もし裏で話が付いていたらいい商売だ(笑)。

ま、同じ五十両といっても、たかりの方はそれでは済まないわけですがね。一度金を払ったらどんどんつけあがる。

この長屋仲間に島田藤四郎という若侍がいます。そこに振袖を着た若い娘が駆け込んできた。というのが本作品のストーリーになります。名前は萩江。これを誘拐しようと企む奴らがいるので、警護して阻止して欲しい、という依頼を受けるわけです。基本的に格闘系の時代小説なので面白いです。サラッと読めます。


おしかけた姫君-はぐれ長屋の用心棒(21)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575664935

小説家の休暇

今日は、何回か雑記として紹介していた三島由紀夫さんの「小説家の休暇」をまとめておきたいです。ていうか、何回か小出しにしたので既においしい所が残っていないのですが。

三島さんといえば切腹死を選んだということで有名です。もちろんこの本を書いている時点はまだ生きていますが、この本では自殺の効用としてテセウスの話を紹介しています。自殺した人の書き残した遺書は信用するしかない、というのです。

その死を賭けた讒言は、ただ遺書として残されているだけであるから、テーセウス王は、他人を詮議するいとまもなく、この遺書を鵜呑みにして、まっこうからその讒言を信じることが、すこしも不自然ではない。
(p.90)

死者に対して尋問はできません。とはいっても、だから信用するしかないというのは何か違和感が残ります。確かに生命を捨てたところで書く内容は、生存本能に基づいている論理を全て無効にしますから、そこは信用できるかもしれません。地球ではなく太陽が回っているのだ、これに同意しないと殺す、と言われたら命を守るためには「はい、太陽が回っています」と返事するしかない。後で「それでも地球が…」と言っても遅い。そこで、命を守るという前提を捨てることで「どうぞ殺しなさい、地球は回っています」と言う自由が発生するわけです。

しかし、それは単に主張できる範囲が広がっただけで、嘘をつけなくなったわけではない。信憑性が高くなったわけではありません。結局、三島さんは自殺してしまうのですが、少なくともその意志を継いでクーデターを起こそうという人はいなかったように見えます。演説を直接聞いていた自衛隊員の皆さんには声が届かなかった、ていうかよく聞こえなかったという説もありますが。

ところで、三島由紀夫さんの作品としては、潮騒が有名でしょうか。私だと山口百恵さんが演じた映画を思い浮かべてしまいますが、もっと前の作品を思い出す人もいそうです。この「潮騒」にモデルがいたというのは知りませんでした。

しかし私は現実に、そのモデルの島で、こうしたものすべてに無関心な、しかし溌溂たる若い美しい男女 / を見たのである。
(pp 123-124)

全く無から妄想するというのはなかなか難しいもので、その意味ではどんなストーリーにもモデルになった人物がいるのかもしれませんが、このように具体的な人達がいたというのは面白いことです。

以前、この本を少しだけネタにした時に、「〇〇を得意にしたいのなら〇〇をしろ」ということを書きましたが、三島さんは努力の人です。体を鍛えていたというのは有名な話ですが、

「もしお前が、人間は何でもわけなく覚えられるもんだと思っていやがるしたら、お前は大馬鹿野郎だぞ」
(p.159)

覚えるのは簡単なんですけどね、すぐ忘れてしまう。忘れないようにするのは大変なことなんです。そこまで含めて「覚える」ということなのでしょう。三島さんのやり方は若干スパルタな感じもします。

兵士にとって、訓練が実戦であり、実戦が同時に訓練であるように、実戦の経験なしに訓練だけで、よい兵士が作られるわけはなく、小説を書かないで素描だけで小説家になれるわけもない。
(p.204)

やはり戦争前後を生きた人の言うことは迫力があります。ただ、ソレをやれば上達するということではなくて、このような話も出てきます。

日本には、人生にだけしか関心をもたない小説が多すぎる。又、芸術にだけしか関心をもたない小説が多すぎる。
(p.14)

人生と芸術の両方に関心を持てばいいのだろうか、と安直に悩んでしまいますが。

あと、最後の方に出てくるファシズムの話が興味深い。ファシズムなんて過去の歴史のような感覚がするかもしれませんが、

パーム・ダットによると、ファシズムとは、窮地に追い詰められた資本主義の最後の自己救済だというのである。
(p.210)

その自己救済に失敗したらどうすればいいのか、ちょっと悩んでしまいますよね。こんな表現もあります。

第二の世界観的な政治が、二十世紀にいたって、技術的な政治では解決しえない問題の解決に乗り出した。コミュニズムとファッシズムである。前者の信奉する科学と、後者の信奉する神話とは、およそ相容れない対照を示しているが、科学というとき、われわれは先験的な認知能力を想起し、神話というとき、われわれは潜在意識的な記憶に思いいたる。
(p.211)

そこまで来たのなら、魔法も出して欲しいです。禁書目録的な。コミュニズムとファッシズムが交差するとき物語は始まる。


小説家の休暇
三島 由紀夫 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101050300

凍える森

今日紹介するのは「凍える森」。何か「港のヨーコ・ヨコハマヨコスカ」みたいな感じなんですよね。なにがと言われそうだけど。

いろんな人への聞き込み調査、みたいな感じで話が進んでいくミステリーです。
この本は、ヒンターカイフェック(Hinterkaifeck)事件という、実際にドイツであった一家惨殺事件が元になっています。普通、本というのは本編があって、その後にあとがきや解説というのがあるものですが、この本は、【はじめに】の所で訳者がその事件を紹介しています。

一九二二年三月三十一日の夜から四月一日の未明にかけて、村はずれの大きな農場に住む六人が何者かに頭を強打されて死亡。
(p.3)

未解決事件として有名だそうですが、もう百年近くになるので解決しようもないのでしょう。

物語が始まるとすぐに出てくるのが祈りの言葉です。キリスト教徒が祈るときの言葉。

主よ、われらをあわれみたまえ!
(p.12)

日本人がいうところの「南無阿弥陀仏」みたいなもの、と言ってしまうのは短絡的かもしれませんが、そのイメージで読めば雰囲気としては伝わるのではないかと思います。村人の閉鎖的な雰囲気は、日本の推理小説でよく出てくる村人と似ています。どこの国でも同じなのかもしれません。この作品で注目すべきは、犯人捜しではなくて、村人たちの人間としての行動です。

踏みつけられてきた人は、自分がその立場になると同じことをするんです。
(p.130)

人間には学習能力というものがありますから、どうしても真似をしてしまうのです。その歯止めになるはずなのが宗教とか道徳・倫理という規範のはずなのですが、踏みつけられれてきた人は、神が救ってくれなかったということを経験的に知っていますから。

もしかすると人は愛している者だけを殺すことができるんじゃないんだろうか。
(p.192)

これは恐ろしいことだと思いますね。

 

凍える森
アンドレア・M・シェンケル 著
平野 卿子 翻訳
集英社文庫
ISBN: 978-4087605426