Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

小説家の休暇

今日は、何回か雑記として紹介していた三島由紀夫さんの「小説家の休暇」をまとめておきたいです。ていうか、何回か小出しにしたので既においしい所が残っていないのですが。

三島さんといえば切腹死を選んだということで有名です。もちろんこの本を書いている時点はまだ生きていますが、この本では自殺の効用としてテセウスの話を紹介しています。自殺した人の書き残した遺書は信用するしかない、というのです。

その死を賭けた讒言は、ただ遺書として残されているだけであるから、テーセウス王は、他人を詮議するいとまもなく、この遺書を鵜呑みにして、まっこうからその讒言を信じることが、すこしも不自然ではない。
(p.90)

死者に対して尋問はできません。とはいっても、だから信用するしかないというのは何か違和感が残ります。確かに生命を捨てたところで書く内容は、生存本能に基づいている論理を全て無効にしますから、そこは信用できるかもしれません。地球ではなく太陽が回っているのだ、これに同意しないと殺す、と言われたら命を守るためには「はい、太陽が回っています」と返事するしかない。後で「それでも地球が…」と言っても遅い。そこで、命を守るという前提を捨てることで「どうぞ殺しなさい、地球は回っています」と言う自由が発生するわけです。

しかし、それは単に主張できる範囲が広がっただけで、嘘をつけなくなったわけではない。信憑性が高くなったわけではありません。結局、三島さんは自殺してしまうのですが、少なくともその意志を継いでクーデターを起こそうという人はいなかったように見えます。演説を直接聞いていた自衛隊員の皆さんには声が届かなかった、ていうかよく聞こえなかったという説もありますが。

ところで、三島由紀夫さんの作品としては、潮騒が有名でしょうか。私だと山口百恵さんが演じた映画を思い浮かべてしまいますが、もっと前の作品を思い出す人もいそうです。この「潮騒」にモデルがいたというのは知りませんでした。

しかし私は現実に、そのモデルの島で、こうしたものすべてに無関心な、しかし溌溂たる若い美しい男女 / を見たのである。
(pp 123-124)

全く無から妄想するというのはなかなか難しいもので、その意味ではどんなストーリーにもモデルになった人物がいるのかもしれませんが、このように具体的な人達がいたというのは面白いことです。

以前、この本を少しだけネタにした時に、「〇〇を得意にしたいのなら〇〇をしろ」ということを書きましたが、三島さんは努力の人です。体を鍛えていたというのは有名な話ですが、

「もしお前が、人間は何でもわけなく覚えられるもんだと思っていやがるしたら、お前は大馬鹿野郎だぞ」
(p.159)

覚えるのは簡単なんですけどね、すぐ忘れてしまう。忘れないようにするのは大変なことなんです。そこまで含めて「覚える」ということなのでしょう。三島さんのやり方は若干スパルタな感じもします。

兵士にとって、訓練が実戦であり、実戦が同時に訓練であるように、実戦の経験なしに訓練だけで、よい兵士が作られるわけはなく、小説を書かないで素描だけで小説家になれるわけもない。
(p.204)

やはり戦争前後を生きた人の言うことは迫力があります。ただ、ソレをやれば上達するということではなくて、このような話も出てきます。

日本には、人生にだけしか関心をもたない小説が多すぎる。又、芸術にだけしか関心をもたない小説が多すぎる。
(p.14)

人生と芸術の両方に関心を持てばいいのだろうか、と安直に悩んでしまいますが。

あと、最後の方に出てくるファシズムの話が興味深い。ファシズムなんて過去の歴史のような感覚がするかもしれませんが、

パーム・ダットによると、ファシズムとは、窮地に追い詰められた資本主義の最後の自己救済だというのである。
(p.210)

その自己救済に失敗したらどうすればいいのか、ちょっと悩んでしまいますよね。こんな表現もあります。

第二の世界観的な政治が、二十世紀にいたって、技術的な政治では解決しえない問題の解決に乗り出した。コミュニズムとファッシズムである。前者の信奉する科学と、後者の信奉する神話とは、およそ相容れない対照を示しているが、科学というとき、われわれは先験的な認知能力を想起し、神話というとき、われわれは潜在意識的な記憶に思いいたる。
(p.211)

そこまで来たのなら、魔法も出して欲しいです。禁書目録的な。コミュニズムとファッシズムが交差するとき物語は始まる。


小説家の休暇
三島 由紀夫 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101050300