Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

新・学生時代に何を学ぶべきか (5)

今日は「新・学生時代に何を学ぶべきか」の続きから。

ネットを見ていると、最近の受験生は「大学に行く目的がない」という人が多いようです。ちょっと気になります。目的がないのに大学に行こうとする、というのは昔は考えられないことでした。

私たちの頃は大学に入って何かをやりたいと思う人が大学に行った。
(吉村作治「始めに自分ありき」、p.126)

当たり前すぎてどう反応していいのか分からなくなりそうです。今は何か違うのです。

要するに大学というのは教わる場ではなく、学び取る場であるということなのだ。
(p.127)

これも当たり前の話で、昔の人なら何故今更そんなことを言うのだと不思議に思うかもしれません。今の高校生は、大学は高校の延長で、自ら学び取らなくても講師が勝手に授業をしてくれる場だと思っているようです。学問ではなく勉強のための場であり、もっといえば資格を手に入れるための場、程度の認識なのです。

そこで何かを学びたいという意欲は最初からない、とりあえず与えられたものをただインプットする、大学をそのような場だと考えているわけです。もしかすると大学もそのリクエストに応じているのかもしれませんが。

教授が何もしてくれないと不満を持つ学生は大学という存在がわかっていない。教授は本来教育をするために大学にいるのではなく、自分の研究をしたいからいるということを知ってほしい。
(p.128)

教え方が下手という的外れの批判はよくあります。予備校の講師は教えるのが仕事ですが、大学教授は教えるためにいるわけではありません。

もう一つ最近の受験生で気になるのは、入試科目しか勉強しない件。

彼が大学に入った時に、私は専門だけやっていたのでは人間として狭苦しくなってしまうし、専門にとらわれない柔軟な発想が大事だからと、文科系の講義も受けるよう助言した。
(明石康「三つの知的漫遊」、p.134)

これは明石さんが子供に言ったアドバイスだそうです。そもそも大学というのは高卒が条件なので、高校で教わる全科目をクリアしないとダメなんですが。

自分が将来専攻する分野については、社会に出てからも、本を読んだり研修したり、その道を究めようと、だれでも努力するにちがいない。しかし自分が進む方向や世界以外のことを、一応知っておくことは決して無駄ではない。
(p.134)

一つのことを究めるためには、全く関係のない分野の知識をたくさん集めておく必要があります。一つの分野から発展させようとするとネタが出尽くしているので、新たに思い付くようなアイデアは残っていません。

最後に、ちょっと話題が変わりますが。

言葉は、第一義的には道具であり、手段であるにすぎない。しかし言葉は同時に、その背景にある文化を反映しており、思考形式そのものである。
(p.136)

英語圏の人達と東洋の人達の考え方が根本的に違うことはよく指摘されていますが、その原因が言語にもある、ということも今では定説になっています。自動翻訳がどんなに進化しても、日本語で表現できないコトは外国語で理解する必要があるのです。

(つづく)


新・学生時代に何を学ぶべきか
講談社 編集
ISBN: 978-4062089722