Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

坊っちゃん

夏目漱石の「坊っちゃん」には、中学校の生徒と師範学校の生徒による大乱闘シーンがある。つまり喧嘩だ。昔は番長というコミックのカテゴリがあって、学校同士が喧嘩で上下を決めるという不文律があったらしいが、現実にそんな世界があったかどうかは定かではない。今では生徒が先生を殴る蹴るの暴行をした挙句に動画をネットに晒して自爆するのが流行りらしい。しかもそこの学校が何を考えているのか知らないが、他の学校の謝罪文をパクって公式サイトに掲示したのではないかという指摘があり、ネットのあちこちで非難が大量発生して収拾しようもない。

坊っちゃんが会議での話を聞いて感心する場面がある。狸というのは中学校の校長先生だ。某党の代表が緑のたぬきと呼ばれているそうだが、それはどうでもいい。

おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのというものは、えらい事をいうもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとかいう位なら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。
(p.66)

確かに生徒が悪いことをしたというので責任を取って辞任する校長は見たことがない。昨今は暴力反対平和主義とかが幅を利かせていて、ちょっと手を上げたらモンスターペアレントが大騒ぎする、マスコミが便乗する、教師は謝罪会見をしないと訴えられるし、しても訴えられる、そのようなパターンが構築されている。謝罪は自己保身が目的であって、要するに形に過ぎない。

人を殴るのは実によくないことだ。しかし何であれ良いところもあり悪いところもある。殴ることにも利点がある。特に重要なのはまず殴られたら痛いという当たり前のことを体で理解できることだ。もちろん痛みは殴られる側にまわらないと分からないが、殴る人は大抵殴られることもあるものだ。中学生、高校生がトラブルに巻き込まれて殺される、というような事件が後を絶たない。昔も多少はあったのかもしれないが、今程ではなかったように思う。どう殴ればどれだけ痛いとか、どんな怪我をするとか、分かっていて殴るのなら滅多なことでは死なない。加減が分かっていないと痛い目にあわせるつもりで殴って殺してしまう。もう一つの重要なことはメンタルだ。虐待はいけない。不条理な暴力は精神を破壊するそうだ。しかし悪いことをしたから殴られるという因果には道理がある。その痛みに耐えることでメンタルはそれなりに鍛えられることがある。

この小説は坊っちゃんの述懐というスタイルで書かれている。小説が読んでもらえる最低限の条件の一つは面白いということだ。話を面白くするには面白い人物が必要である。坊っちゃんの発想は極論で頑固親父的で、そこが面白さになっている。こんなことを言う。

いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
(p.56)

確かに大学には経済学部や商学部はあるが詐欺学部犯罪学部はない。人間を信用するなという超基本原理を学校で教えないのは、そんなことを教えたら生徒は先生の言うことを信用しなくなるから仕方ないが、せめてどうすれば人を騙せるかを教えたら、その対策もできるのではないか。しかし坊っちゃんには騙すという発想がない。そこに自分のルールを勝手に決めてぶれる要素が微塵もない。だから赤シャツのような騙しの上手い人物とは相性がとてつもなく悪い。

おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐いて罰を逃げる位なら、始めからいたずらなんかやるものか。
(p.40)

しかしよく考えてみるまでもなく、そもそもいたずらをする時点で悪いのである。既に間違っている。罰を逃げるのがいいとか悪いの次元ではない。普通の感覚ならそこを反省すべきものだが、いたずらを潔白と開き直っている。こんな人間が実在したら喧嘩になるに決まっている。何か長くなったので今日はここで止めておく。ナイスと思った文を最後に引用しておく。

誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰しだ。
(p.64)

確かに、結論が最初から決まっているのなら会議をする必要はないよね。


坊っちゃん
夏目漱石 著
岩波文庫
ISBN: 978-4003101032