Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

雑記

今日は酔っているので雑記にします。酔ったという程でもないのですが、何かふわっとした感じなので、重い本についていけません。

このような時はプログラムを書くといろいろ面白いものができるはずなのですが。

ということで全然関係ないネタなのですが、ていうかどこかに書いたような気がしないでもないのですが、最近、Yahoo!知恵袋の広告がちょっと変わってきたような気がしています。例えば「借金について教えてください」という質問に、アコムの広告が埋め込まれているのを見ました。埋め込み広告はだいたいこちらの都合に左右されていたと思うので、質問の内容に応じた広告というのは新鮮でした。

単なる偶然かもしれませんが。

 

雑記

今日は世間的に給料日だったので雑記にします。

何か書くことがないのですが、そういえばとある認証アプリを設定するときに運転免許証をかざせと指示されて、そういう機能があるのか? と少し驚きました。あと免許証の暗証番号を入力しろとか言われて、そういうのは覚えているものなのでしょうか。初めて使ったような気がするのですが。

顔認証するところで、もう少し上を向けとか、スマホを顔の高さに上げろとか、いろいろ指示されて、ちょっとイラっとしました。

自然な建築

今日の本は、隈研吾さんの「自然な建築」。

最初に読み始めた時に、文章がとても読みやすいことに気付きました。文章の設計の妙というのでしょうか、あるいはバランス感覚なのかもしれません。

隈さんといえば国立競技場が有名です。独特な外観も凄いですが、個人的には、ランダムに彩られた座席のおかげでコロナ禍で無観客で行われた競技が空席感がない光景に変化していたのは印象的でした。

隈さんは木を使った建築という印象が強いような気かしますが、本書には石、壁、竹、のような様々な素材が出てきます。現代建築といえばコンクリートなのですが、コンクリートにテクスチャを張り付けるという工法について、

人間には表面しか見えていないという世界観が、この施工方法の背後に控えていた
(p.45、石の美術館)

これを批判的に捉えているようです。ちょっと哲学的なニュアンスが入っていますね。

本書には、建築中の逸話もいろいろ出てきます。そこでのノウハウが面白いので、いくつか教訓的な話を紹介してみます。

相手の主張への配慮が、建築を実現するという行為には最も大事なのである。
(p.112)
相手からの批判にも、必ず一理がある。
(p.112)
大切なのは、欠陥を認め、欠陥に開き直らないことである。まず欠陥を認めて、最大限の努力をし、あきらめずに研究を続け解決策をさぐることである。
(p.113)
相手が乗り気になって、向こうから提案がでてくるようになったらしめたもの
(p.128)

このような話は実際に現場に携わってこそだと思います。

ところで、和紙で家を建てるという話の中で、コンニャクの話が出てきます。なぜコンニャク?

コンニャクをお湯でといてドロドロにし、ハケで和紙に塗り付ける
(p.182)

これで和紙の耐久性が各段に上がるというのです。どの位上がるかというと。

「このやり方は、風船爆弾に使われていたんだ」
(p.183)

最近は気球ブームのようですが、風船爆弾はコンニャクで強化された和紙で作られていたんですね。コンニャクで接着していたことは、アメリカの技術では分析できなかったのだそうです。


自然な建築
隈 研吾 著
岩波新書
ISBN: 978-4004311607

雑記

今日は蓋を持ち帰ってきたので雑記にします。大學を読んだりしたのですが、これは流石に難しいというか、大変ですね。ちもみにもう一冊読んでいるのがあって、これは明日紹介できそうです。

何の話か見えないと思いますが、アルコールのウェットティッシュを入れる容器の蓋です。自宅と作業場で同じものを使っているのですが、自宅の蓋が壊れたので交換しようと企みました。

蓋を開けたままにするとアルコールが蒸発してしまうので、蓋だけどうやって交換しようか、というのが難題でした。というほどのものでもありませんが。

ちなみに普段は水、金はリモートで、木曜にオフィスで作業というスケジュールになっていますが、今週は木曜が休日なので今日オフィスでいろいろ手続きをした、という流れになっています。

言語・思考・現実

今日の本は「言語・思考・現実」。B.L.ウォーフさんの死後、J.B.キャロルさんが編集して出版したものです。

言語が思考に影響を与えるということを説いています。 アメリカ・インディアンのホーピ語などの特徴的な言語を、英語などのSAE (standard average European) と比較することで検証していきます。

ホーピ語の最大の特徴は、

ホーピ語には「時間」というものに明示的にせよ、暗示的にせよ、言及するものがない
(p.14)

具体的には、こんな感じです。

「十日間」というような表現は使われない。これに相当する表現は、ある日付にいくつ数えれば達するかという操作的なものである。「彼らは十日間滞在した」(they stayed ten days)というのは「彼らは十日目の後に去った」(they left after the tenth day) ということになる。
(p.105)

時間は絶対的な長さを持つのではなく、

相前後する二つの事件の間の関係として捉えられる
(p.105)

つまり、10日目というマイルストーンがあり、それに対する前後、という考え方をするのです。これで時間という概念を除外した世界が成立するというのがオドロキです。

日本語に関する言及も出てきます。

日本政府の政策からわれわれが表面的に受けとる限りの日本人の考え方というのは、とても兄弟愛とは結びつきそうもないものである。
(p.224)

うーむ、原文を見ないとちょっと何言ってるのか分からないです。これには続きがあって、

しかし、彼らの言語を美的に、そして科学的に味わうという態度で日本人に接すれば、様相は一変する。そうすることはとりも直さず世界共同体というレベルの精神で親近関係を認識するということである。
(pp.224-225)

やっぱりちょっと何言ってるのか分かりません。

日本語の言語的特徴としては、二つの主語という言葉が出てきます。

日本語の美しいパターンの一つとして、文には資格を異にする二つの主語があってよいということがある。
(p.225)

この後に「日本は山が多い。」という例が出てきて、この文に対して「日本は」と「山が」を「多い」に対する二つの主語と解釈しているようです。二つの主語という発想は新鮮な感じもしますが、確かにそう考えることは何となくしっくりしています。英語ではこのように and や or で並べることのできない複数の主語を持つことはできません。

日本語の文法では「日本は」は修飾語、「山が」を主語と考えるのではないかと思います。「が」が主格を表すので主語という考え方です。ただ、日本語の「が」はそう簡単な単語ではありません。

例えば「私は白石が好きだ。」という文は、文脈によって、I like Shiraishi. と Shiraishi likes me. の2通りの解釈が可能です。流石にここまで柔軟な表現は英語では書くことができません。

後者の解釈はちょっと分かりにくいかもしれませんが、

「冷蔵庫のコーラ欲しい奴いる?」

「コーラは私が欲しい。」

のような会話を想像してみてください。これであれば間違いなく I want cola. であって、Cola wants me. と解釈する日本人はいないでしょう。このように、「AはBがCだ」という表現は、Cの実質的主語がAである場合とBである場合があるのです。ではどういう時にどうなんだと言われると超絶ややこしいことになります。

日本語にはさまざまな概念を用いて簡潔な科学的操作をするのに大きな力が与えられることとなろう。
(p.226)

ウォーフさんはこのようにまとめています。英語よりも日本語の方が簡潔な科学的操作に利点があると考えたようです。

ところで、巻末の編者解説に出てくるこの個所は面白いです。

彼が鉛筆で書いた原稿はきれいに揃った常に読みやすい書体で、彼のきちょうめんをよく表していた。
(p.274、編者解説)

文字や文章がそれを意味する内容だけでなく、書いた人の性格まで表現する力を持っているということになります。

Whorf は日本語の構造を ‘lovely’ と呼んでおり、
(p.312、訳者解説)

その真意は日本語では表現できないような気がします。


言語・思考・現実
L・ベンジャミン・ウォーフ
池上 嘉彦 翻訳
講談社学術文庫
ISBN: 978-4061590731

雑記

今日はかなり疲れたので雑記にします。昨日から疲れているのか、ちょっと睡眠時間も長くなっています。

疲労がたまっているせいか、dヘルスケアのくじも外れまくっています。

ちなみに今日は隈研吾さんの本を読みました。建築家として有名ですが、文章もなかなか味があって独特の面白さがあります。

礼記 下

今日は礼記の下巻から面白いと思ったところをいくつか紹介します。

子云、善則稱人、過則稱己、則民不爭。
(p.795、坊記第三十)

善いことは他の人がしたと賞賛し、失敗は自分の責任にすれば、世の中の争いはなくなるよ、というような話です。この後、このパターンの話がいくつか続きます。言いたいことは分かるのですが、本当にそう上手くいくものだろうか何か疑問です。あるいは、現実はそうなっていないと指摘したいのかもしれません。

君子不盡利以遺民。
(p.804、坊記第三十)

君子は利益を全てぶん取ってしまわず、民に取り分を残しておく、という話です。力を持っている人が全力で取りに行ったら何も残らなくなる、といいたいようです。今の世は全部取りに行く人が随分多いような気もしますね。でも取れないのですが。

話は変わって、「表記」から。

君子不以辭盡人。
(p.831、表記第三十二)

君子は人を言葉だけで判断しない、という意味です。行動も評価の対象にするということです。まあ当たり前のことのはずなのですが、国会中継とか見てると、行動はどうでもよくて言葉だけで批判しているような気がすることがあります。

何にせよ、口だけで実行が伴わない人は、あまり社会の役にはたちません。これには続きがあって、

故天下有道、則行有枝葉、天下無道、則辭有枝葉。
(p.831、表記第三十二)
すなわち世に道の行われて治まっている時は、人びとは言葉以上に善行を示すが、道の行われず乱れた世では、人びとは実行よりも言葉に花を咲かせるものである。
(p.831)

竹内さんの解説の「言葉に花を咲かせる」という表現がいいですね。社会がうまく回っていればあえてアレコレ言う必要はありませんから言葉は出てきません。混乱した世の中では、こうすればいいという案はたくさん出てきますが…

また話変わって、「儒行第四十一」には、儒者の生活が出てきます。

易衣而出、并日而食
(p.902、儒行第四十一)

一着しかない服を家族で外出時に使いまわす、食事は2、3日に1回だけ、というのですが、いくら何でもそこまでやりますかね。死にそうな気がします。

今日の一言はこれで。

大人不倡遊言。
(p.839、緇衣第三十三)

できないことは言うものではない、ということです。不言実行という言葉もありますね。


礼記 下 新釈漢文大系 (29)
竹内 照夫 著
明治書院
ISBN-13: 978-4625570292