Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

言語・思考・現実

今日の本は「言語・思考・現実」。B.L.ウォーフさんの死後、J.B.キャロルさんが編集して出版したものです。

言語が思考に影響を与えるということを説いています。 アメリカ・インディアンのホーピ語などの特徴的な言語を、英語などのSAE (standard average European) と比較することで検証していきます。

ホーピ語の最大の特徴は、

ホーピ語には「時間」というものに明示的にせよ、暗示的にせよ、言及するものがない
(p.14)

具体的には、こんな感じです。

「十日間」というような表現は使われない。これに相当する表現は、ある日付にいくつ数えれば達するかという操作的なものである。「彼らは十日間滞在した」(they stayed ten days)というのは「彼らは十日目の後に去った」(they left after the tenth day) ということになる。
(p.105)

時間は絶対的な長さを持つのではなく、

相前後する二つの事件の間の関係として捉えられる
(p.105)

つまり、10日目というマイルストーンがあり、それに対する前後、という考え方をするのです。これで時間という概念を除外した世界が成立するというのがオドロキです。

日本語に関する言及も出てきます。

日本政府の政策からわれわれが表面的に受けとる限りの日本人の考え方というのは、とても兄弟愛とは結びつきそうもないものである。
(p.224)

うーむ、原文を見ないとちょっと何言ってるのか分からないです。これには続きがあって、

しかし、彼らの言語を美的に、そして科学的に味わうという態度で日本人に接すれば、様相は一変する。そうすることはとりも直さず世界共同体というレベルの精神で親近関係を認識するということである。
(pp.224-225)

やっぱりちょっと何言ってるのか分かりません。

日本語の言語的特徴としては、二つの主語という言葉が出てきます。

日本語の美しいパターンの一つとして、文には資格を異にする二つの主語があってよいということがある。
(p.225)

この後に「日本は山が多い。」という例が出てきて、この文に対して「日本は」と「山が」を「多い」に対する二つの主語と解釈しているようです。二つの主語という発想は新鮮な感じもしますが、確かにそう考えることは何となくしっくりしています。英語ではこのように and や or で並べることのできない複数の主語を持つことはできません。

日本語の文法では「日本は」は修飾語、「山が」を主語と考えるのではないかと思います。「が」が主格を表すので主語という考え方です。ただ、日本語の「が」はそう簡単な単語ではありません。

例えば「私は白石が好きだ。」という文は、文脈によって、I like Shiraishi. と Shiraishi likes me. の2通りの解釈が可能です。流石にここまで柔軟な表現は英語では書くことができません。

後者の解釈はちょっと分かりにくいかもしれませんが、

「冷蔵庫のコーラ欲しい奴いる?」

「コーラは私が欲しい。」

のような会話を想像してみてください。これであれば間違いなく I want cola. であって、Cola wants me. と解釈する日本人はいないでしょう。このように、「AはBがCだ」という表現は、Cの実質的主語がAである場合とBである場合があるのです。ではどういう時にどうなんだと言われると超絶ややこしいことになります。

日本語にはさまざまな概念を用いて簡潔な科学的操作をするのに大きな力が与えられることとなろう。
(p.226)

ウォーフさんはこのようにまとめています。英語よりも日本語の方が簡潔な科学的操作に利点があると考えたようです。

ところで、巻末の編者解説に出てくるこの個所は面白いです。

彼が鉛筆で書いた原稿はきれいに揃った常に読みやすい書体で、彼のきちょうめんをよく表していた。
(p.274、編者解説)

文字や文章がそれを意味する内容だけでなく、書いた人の性格まで表現する力を持っているということになります。

Whorf は日本語の構造を ‘lovely’ と呼んでおり、
(p.312、訳者解説)

その真意は日本語では表現できないような気がします。


言語・思考・現実
L・ベンジャミン・ウォーフ
池上 嘉彦 翻訳
講談社学術文庫
ISBN: 978-4061590731