Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

感性をきたえる素読のすすめ

今日は安達忠夫さんの「感性をきたえる素読のすすめ」。

素読というのは、こういうことである。

内容の理解は抜きにして、古文、特に漢文の文字づらだけを声に出して読むこと。
(新明解国語辞典)
(p.50)

私が高校生の時、漢文を丸暗記するときに、素読のように音読みで暗記していた。

春望(シュンボウ)
国破(コクハ) 山河在(サンガザイ)
城春(ジョウシュン) 草木深(ソウモクシン)
感時(カンジ) 花濺涙(カセンルイ)
恨別(コンベツ) 鳥驚心(チョウキョウシン)
(p.97)

「のように」じゃなくて素読ソノモノだ。このヨミのところを丸暗記したのである。当時やっていたのがこの本に出ている読みと同じなので今更だけど驚いた。そういうことをして何がいいのかというと、まあ覚えやすいわけだ。何度も読むと覚える。もちろん「国破れて山河在り」も覚えていて、それを脳内でリンクしているから、記憶を定着する意味はあるのだろう。

この本は、逸話がたくさん出てくる。例えば安達さんがヘブライ語を学ぶことになり、苦戦しているときに、一緒に習い始めた人がサクっとマスターしているのでコツを聞いてみたという話。

「こつって、こつも何もありゃしない。ただ何度も何度もくりかえして覚えるだけだよ」
「何度も声を出して読むのかい」
「うん、それに、書き写してみることもある」
(p.34)

あまりにも超基本技だ。それは安達さんもやっていたので差が出るのは妙だと思うわけだが、よく聞いてみるうちに、その人はラテン語ギリシア語を勉強したことがあるということを知る。古文の知識が現代語の学習に影響しているのだ。

ネットで最近ある、というより、私が高校生だった頃に既にあった疑問だと思うが、古文や漢文を学んで一体何の役に立つのか。個人的には実際に古文や漢文はとても役に立ったので、この質問は愚問なのだが、この本にはもっと別の答が出てくる。

外国語を学ぶためには、まず日本語をしっかり理解していなければならない。もちろん外国語を脳内でも外国語のまま理解して学んでいれば日本語は必要ないが、既に日本語を理解している日本人としては、外国語を日本語と対応させていくのが近道だろう。その時に、

ここでいう日本語のなかには、漢文もふくまれているのである。漢文は、抽象概念や外国語と日本語をつなぐ、いわば接着剤の役割を果たしている。
(p.83)

漢文が理解できることで、外国語を学ぶときに有利になるというのだ。これは何となく分かる。

今日でも、ドイツやフランスでは、古典語教育の大幅な減退によって、文体が骨格を失い、かつてのような深みをなくしたという意見がしばしば聞かれる。
(p.150)

確かに昔の小説は何か奥深いものを持っているような気がする。昔といっても昭和の途中、戦後のある程度のところまではちょっと今のラノベとは違った属性を持っているような気がするのだ。

日本人が漢文をやらなくなってから、日本文学そのものが痩せてきた
(p.151)

もっとも、単に痩せるのではなく、変な装飾品を付けているというか、何かおかしな所を削ったとか、そういう気がしなくもない。それはそれで面白いのかもしれない。


感性をきたえる素読のすすめ―くりかえし声を出して古典を読むことの楽しさと価値
安達 忠夫 著
カナリア書房
ISBN: 978-4778200022