Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

夜は短し歩けよ乙女 (2)

今日は「夜は短し歩けよ乙女」の続きです。

第二章は「深海魚たち」というサブタイトルが付いているが、どこにも本物のお魚は出てこないような気が。この章は名セリフが多い。

恥を知れ。しかるのち死ね。
(p.79)

これは巻末のイラスト解説でも絶賛されているけど、個人的には、それに続く

しかし私は、もはや内なる礼節の声に耳を傾けはしない。
(p.79)

という境地に趣を感じるのである。まあそれはおいといて、話は古本市。果てしない物語が始まりそうな雰囲気の中で、先輩が、

古本市の神よ、我に知識ではなくまず潤いを与えよ。
(p.80)

そんなヘンな願いを言うからややこしいことになる。この願いは後に出てくる我慢比べで叶う…のかな、潤いすぎて全身から火が出るような目に合うのだが、もちろん黒髪の乙女も登場する。レギュラーというよりイレギュラーと表現したくなってしまう樋口さんもちゃんと出てくる。黒髪の乙女は樋口さんに一目どころか百目位置いていて、樋口さんのことを次のように評価しているのだが。

無用を極めた生き方と筋金入りの韜晦
(p.86)

韜晦じゃなくて誤解としか思えない。樋口さんに言わせれば、本なんてものは

ただ紙の束にインクの染みがついているだけのもの
(p.86)

に過ぎないのだ。今の時代のように電子書籍になってしまったら染みですらない

さて、出てくる古本市の神は子供の姿をしている。その方がなにかと都合がよさげだ。

忙しいって言う人間ほど閑なものだ。
(p.88)

理由も猛烈に書いてあるしそれに対して先輩が全力で批判しているから、もはやソコに関して言うべきことは何一つないが、確かにこの先輩、忙しいのかヒマなのかよく分からないところがある。

この章のキーワードは「なむなむ」である。般若心経なんか覚えなくても「なむなむ」だけで全てが解決するからとても有難い呪文だ。これは黒髪の乙女が、

独自に開発した万能のお祈り
(p.92)

なのである。すごい開発能力だ。テストケースも完璧にパスしたに違いない。

古本市の神は、神だけあって本に詳しい。先輩がムツカシイ本を探しているから邪魔だと追い払おうとすると、何を探しているのか訊ねてくる。

「日本政治思想史研究とか、ツァラトゥストラかく語りきとか、論理哲学再考とか、そういうコワモテのする本かい」
(p.93)

後の2つはよく知っている。ツァラトゥストラというのはキーボードで入力するときに発狂しそうになるので何とかして欲しいが、最後の本は論理哲学サイコーみたいな内容(ですよね)でしかしおすすめはしたくない感じではあるが、はて、最初の本は聞いたことがない。Amazon なら売ってるかなと思ってググってみたらあった。著者は丸山眞男さん。1983年発行だから意外と新しいのが不審なので、さらに調べると1952年に改訂前っぽい本が出ている。文系の学生なら常識的な本なのかもしれない。私は理系だからソフトウェア作法みたいな本しか学生時代には読んでなかったのである。ウソだけど。

とにかく森見さん、書名をランダムに選ぶような良い加減【謎】な小説家ではないから、おそらくご自身のお好みの本を選んでいるのだろう。出てくる本の名前が実に興味深くて、例えば「シャーロック・ホームズ全集」「アドリア海の復讐」「モンテ・クリスト伯」「岩窟王」「戦中派闇市日記」「蔵の中・鬼火」「アンドロギュノスの裔」「谷崎潤一郎全集」「芥川龍之介全集」「新輯内田百閒全集」「作家論」「お伽草子」などなど。後でこれを神様が関連付けて遊んでくれるが、モンテ・クリスト伯というのは当然岩窟王のことで、次の章に出てくる偏屈王への伏線なのか。

とにかくこの章はまず神様と先輩の漫才が面白い。神様の攻撃。

そうやって、一人で妄想に耽っているのは頭にも体にも良くないぜ
(p.112)

神様の言うことだけあって含蓄深い。神様のいうとおりにしていればいいものを、いちいちツッコむからほぼ幸運が訪れない先輩。ていうか頭の中を読めるというのが流石は神様なのだし、それに全然気付かないのは流石は先輩だ。その先輩が子供の姿をした神様にしてやられて濡れ衣をきせられる。

子どもは清らかであるという妄想と、美しい子どもはもっと清らかであるという妄想
(p.113)

は万人の共有する感覚だろう。「かわいい」は何をしても許される免罪符だ。もっともこれに続く

薄汚い青春の最中に立ちすくむ大学生が、じつは世界で一番清らかである
(p.113)

というのは到底同意できない。一番と表現した瞬間に大抵の主張はウソが確定する。だって、上には上が、下には下がいるものなのだ。

さて、話を戻そうとしたがどこに戻ったらいいのか分からなくなった。そこで我慢大会のシーンに切り替えよう。先輩はうまくだまされてクソ暑い夏にムシムシする部屋の中で炬燵に入って闇鍋ならぬ火鍋を食うというデスマッチに参加する。勝ち残った者が世にも珍しい価値のある本を何でも一冊賞品として貰えるのだが、試合が始まったら既に参加者は全員正気を失っていて灼熱地獄にトリップしている。闇鍋は病鍋と化して幻覚工場になっている。この大会を開催しているのが第一章で飲み比べをした李白さん。そこまでするのなら杜甫さんも出てきて欲しいような気がしてきた。先輩は黒髪の乙女が探している絵本が賞品の中にあることに気付いたところで既に正気を多重に失っている。

ついに栄光のクリスマスイブがやってくる。私のロマッチック・エンジンはもはや誰にも止めることができない。
(p.133)

Romanticが止まらないというのはC-C-Bが1985年にリリースしたヒット曲だ。ちなみに「毎度おさわがせします」というドラマの主題歌だ。ライバルは次々と倒れてなんと先輩が優勝してしまうのだが、賞品を受け取る前に古本市の神に全部横取りされてしまったから必死の我慢も無駄骨だった。そして高価な本を奪われた李白さんといえば、

「古本市の神がやったことならば、仕方があるまい。私は十分に愉しんだ」
(p.141)

飄々としている。そう、人生は愉しめるかどうかで価値が決まる、この小説は、この重要な真理を啓蒙するために書かれたのである、と言えたらカッコイイのだが、もちろんそんな趣旨は微塵もないだろう、単にオチャラケた雰囲気の中で先輩は黒髪の乙女と同時に一冊の本に手を伸ばす、という最初の妄想通りのシーンに遭遇する。もちろんこんな偶然があるわけがないから、これも神様の筋書きなのだろう。

さらに計算外であったのは、同じ一冊の本に手を伸ばすというシチュエーションが、生半可な覚悟では耐えきれぬほどに恥ずかしいものだったことである。
(p.146)

ならば、しかるのち死ねばいいのに、先輩はシャイだから逃げ出してうろたえて「新輯内田百閒全集」を爆買いしようとする。しかしお金が足りなかった。どこまでも恥ずかしい。そこに黒髪の乙女がやってきてお金を貸してくれるというのが、さらに恥ずかしい。躊躇していると乙女が諭す。

本との出合いは一期一会、その場で買わねばなりません。
(p.147)

まさにその通りだ。ということで私は学生時代にメシのためにキャンディ・キャンディ全巻を手放したのが今でも痛恨の失敗だったと後悔し続けているのだ。何でそんなものを持っていたのかというのはおいといて、君の罠、違った、君の縄、これも違うけど、みたくタイムワープできたら「それを売っちゃダメだ」と伝えてやりたい。なむなむ。

(つづく)


夜は短し歩けよ乙女
森見 登美彦 著
角川文庫
ISBN: 978-4043878024