ということで、一回ではとても終わらないが、とりあえず始めてみる。昨日紹介したように、これは心理学的な分析の本。とりかへばやを語るわけではなく、とりかへばやという物語を通じて、男と女とは何かということを心理学的に考察した本である。
まずはストーリーの中で男女が入れ替わることにどのような意味があるかを掘り下げていくことになる。そのためには、男女の役割、即ち、男と女という性別に対してどのような意味が与えられているかというところから吟味しなければならない。最初に問題になるのは、
『男らしい』とか『女らしい』とかの固定した概念
(p.15)
である。男女平等という呪文の下で、例えば男の子は黒いランドセル、女の子は赤いランドセル、のようなステレオタイプが批判の対象になるようなことがあった。今もあるのかもしれない。あるいは、男は力強く、女は優しい、そのような先入観に対して批判する人もいた。これが不平等な考え方と決め付けるのは簡単だが、その前に重要なのは、なぜそのような考え方を持っているかということなのだ。
しかし、ここでよく認識しておかねばならぬことは、一見馬鹿げて見える固定的な分類も(たとえば、アボリジニのドゥワとイリチャのような)、人間が生きてゆくために必要なことだということである。
(p.15)
単純にその理由を想像するのみならず、必要性というところまで思慮する必要があるというのである。「とりかへばや」においても、若君は
絵かき、雛遊び、貝おほひなどしたまふを
(「とりかへばや物語」p.6)
そして姫君は、
若き男わらはべなどと、鞠、小弓などをのみもてあそびたまふ、
(「とりかへばや物語」p.7)
といった感じで、男の子の遊び、女の子の遊びが逆転しているのである。逆転するためには、そもそも男の子が何をする、女の子が何をするという前提が必要になる。そこにどんな意味があるのかというのが関心事ということになるのである。
そもそも、物語という形態によって伝えることが心理学的にどのような意味があるかというと、
「物語る」という形式が、人間の無意識のはたらきを表現するのに非常に適している
(p.19)
というのが面白い。固有名詞でなく曖昧な表現にすることのメリットは、落語でもそのような説明があったと思う。
そして、特に過去の物語に注目することで、
昔話は時代をこえて、人間の無意識のはたらきを伝えてきたものとして貴重な資料と言わねばならない。
(p.19)
古来からの人間のふるまいを理解しようとするのであろう。それで「とりかえばや」なのだ。日本では「とりかえばや」は古典としてマニアックな人気があるはずなのだが、河合さんのアメリカの友人は、このように評したそうである。
ポスト・モダーンの物語だ、
(p.29)
世界中に男女入れ替わりの物語はいくつもあるのだが、総じていまいち高い評価を得られず、むしろ世俗的だとか、場合によっては品が無いといった評価になってしまっている。世俗的というのは逆に考えてみれば大衆の人気が得られるということでもある。
この本は、最初の60ページ程度を使って、とりかへばやのあらすじが紹介されているから、ストーリーを知らない人でも読んで理解できるようになっている。
(つづく)
とりかへばや、男と女
新潮選書
河合 隼雄 著
ISBN: 978-4106036163
とりかへばや物語―校注
鈴木 弘道 著
笠間書院
ISBN: 978-4305001061