Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

ぼくたちは勉強ができない

今日はアニメで「ぼくたちは勉強ができない」。2019年の春アニメです。

ちなみに、第二期の「ぼくたちは勉強ができない!」は2019年の秋アニメになっています。原作のマンガは週刊少年ジャンプ連載。

成幸は貧乏だけど勉強のできる特待生。推薦進学の条件として、緒方、古橋、武元の3人の女子に勉強を教えて志望校に合格させるというミッションが与えられます。パターとしては先日紹介した「五等分の花嫁」と同じですが、緒方は理系の天才だが心理学を学びたいため文系を志望。古橋は文系の天才だが天文学を学びたいので理系を志望、というミスマッチを克服するというシナリオ設定になっています。武元は水泳の天才だけど勉強はダメダメです。

ジャンルとしては、ちょいH系。個人的に気に入っているのは、世界史の桐須先生。元フィギュアスケート選手でプロポーションもいいのですが、汚部屋がなかなかスゴいです。これを片付けてしまう唯我もなかなか凄いです。

Devil May Cry

今日のアニメ【謎】は、「Devil May Cry」。Amazon のリンクを貼ろうと思ったのだけど、輸入盤が出てくるのでとりあえず今回は製品へリンクしません。検索リンクなんて使ったことがないのでアレですが、とりあえず。

Amazon で Devil May Cry を検索

CAPCOM の同名のゲームのアニメ化。ゲームはやったことがありませんが、PS4版とかあるようです。PS4持ってないんですよね。

主人公のダンテは悪魔と人間から生まれたハーフデビル。ストロベリーサンデーが好物で、今日のは甘すぎると指摘するシーンがあるので結構こだわりもあるようです。アニメのストーリーは基本的にイケメンのダンテが悪魔をやっつけるという単純なものです。ゲームとどの程度の関連性があるのか全然分かっていません(笑)。

Devil May Cry というのはダンテの開いている悪魔殺しの依頼を受ける事務所の名前。ここに一緒に住んでいるのがパティ・ローエル。何歳かよく分かりませんが、小学生高学年あたりに見えます。魔除けのペンダントがストーリーの最後で特別な意味を持っているのです。

アニメで印象に残るのはシドですね。いわゆる下級悪魔。最後にやられる前にダンテに「お前のこと、嫌いじゃなかったぜ」と言われて消される(笑)のですが、まあ普通に嫌われ役なんですよね。

 

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド

今日はアニメで「ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド」このアニメは本放送を飛び飛びに見ていましたが、最近久々に観直しました。

監督は新房昭之さん。新房昭之さんは 2004年に月詠 -MOON PHASE-、2009年に化物語をリリースしていますが、吸血鬼が好きなんでしょうか。もっとも月詠は吸血鬼というより猫耳のイメージですが。

ストーリーはヴァンパイアが日本にヴァンパイアだけの居住地、ヴァンパイアバンドを作る話。ヴァンパイアの女王、ミナは見た目は女子中学生のようですが、結構長く生きています。化物語の忍ちゃんみたいな。ミナに仕える狼男がアキラ。普段は高校生ですが変身できます。

居住地を日本政府に認めさせる戦略として、まず経済的な基盤を作り、それがないと日本経済が回らないようにした上で、認めないのなら企業を引き上げると脅しをかける、というのはあり得ないような話ですが微妙にリアルです。具体的な企業とか出てこなかったと思いますが、自動車とか電機・通信ですかね。

キャラの中では割と酷い扱いを受ける委員長、東雲ななみがいい味を出していると思います。ザ・眼鏡っ娘って感じです。

ネタ的には、アキラの記憶から消えたのは何か、というのがいまいちな感じがしました。

Re:CREATORS

今日はアニメで、「Re:CREATORS」。2017年4~9月の作品です。

アニメ、ゲーム、コミック、ラノベの登場人物が現実世界に具現化してバトルするという、本当にあったら非常識すぎるストーリーです。これ自体がアニメだからアニメの中にアニメのキャラが出て来ても不自然ではありませんが、新宿とかでアニメキャラが歩いていたら不自然ですよね(笑)。

この作品のポイントは、キャラの作者が神の立場であること。作品中では創造主と呼ばれています。作者はストーリーを追加することでキャラに必殺技を追加したりできてしまうのです。キャラから見れば確かに神ですね。ただ、何でもアリというわけではなく、読者、視聴者の支持が得られないといけません。皆が同じ妄想を見る時、それが現実になるといいますが、存在の共有度が現実化のキーになっているというのは哲学的で説得力があります。

主人公は水篠颯太(みずしのそうた)。個人的には作者でもないのにセレジアが颯太の前に出現することに違和感があったのですが、先に進むとナルホドというネタが出てくるわけです。

個人的に気に入っているキャラは築城院真鍳(ちくじょういんまがね)。目つきの悪い女です。自分のついた嘘を相手が否定した後に「嘘の嘘、それはくるりと裏返る」と言うと、嘘が本当になってしまう、というヤヤコシい技を持っています。このアニメ、2つの陣営でバトルするという世界なのですが、どちらにも属しようとしない性格も面白いです。楽しければいい、というのも何か達観していて見ていて楽しめるわけです。相手に否定させないと技が使えないのでいろいろ工夫して誘導するのですが、たまに失敗すると悔しがるのも面白い。

 

西の魔女が死んだ

今日は有名な作品で「西の魔女が死んだ」。Amazon の本のジャンル、売れ筋ランキングで 375位。学校の課題図書になったりいた記憶がありますが、分かりやすく書かれているのに難しい要素が満載の奥の深い作品です。いろんな「いいこと」が出てくるので、見逃さないように注意深く読む必要があります。

人に見せたくないものがたくさんあるという話があって、

人は大人になろうとするとき、そういうものがどんどん増えていくんです。
(p.32)

確かに、とか思いましたか。しかし私はそういうのがあまりないような気がします。むしろ子供時代の方が見られたくないものがたくさんあって、ある時期からどうでもいい感じになってしまったようです。見せない方がいいものはあるのですが、見せたくないかというと、別に構わない、という感覚なのです。

また、これはおばあちゃんのおじいさんの話、明治の始まりの頃のエピソードに出てくる話題ですが。

日本人の礼儀正しさや優しさ、毅然としたところ、正直さに大変感銘を受けて英国に帰りました。
(p.34)

よく言われている日本人のイメージなのかもしれませんが、本当なのでしょうか。落とした財布が戻って来るのが日本というイメージはあるかもしれません。それは礼儀正しいとか、正直とか、そういう印象なのでしょうか。馬鹿が付いたりしていないでしょうか。

幸福論についてもちゃんとツボを押さえています。

何が幸せかっていうことは、その人によって違いますから。
(p.58)

金持ちになれたら幸せとか、一流大学に合格したら勝ち組とか、ネットをみているとそんなのばかりに思えてきます。特に最近の若い人たちが「マウント」とか「見下す」のは当たり前だという感覚で話をしているのが気になります。昔はそんなことはなかったと思うのです。見下すためにいい大学に行く、なんて全く記憶にないです。時代が変わったのでしょうか。

生死感についても難しい話がサラっと出てきます。

「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」
「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」
(p.118)

死ぬ練習というのは面白い発想です。年を取ると自然にありそうな気もします。しかし多くの人は練習する前にぶっつけ本番で死んでしまうのでしょう。


西の魔女が死んだ
梨木 香歩 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101253329

顔氏家訓

今日は先日ちょっと名前を出した「顔氏家訓」。ちなみにまだ読み終わっていない。

この本は、

『顔氏家訓』は六世紀末、わが国でいえば聖徳太子の命をうけた小野妹子が遣隋使となって中国に渡った時代、顔之推によって著わされた家訓書である。
(p.3)

というもの。家訓なので不特定多数に公表してあれこれというような意図がない。リアルで実践的な内容は「葉隠」のような印象を受ける。

「第二 教子編」は、子供をいかに育てるかについての家訓である。

五、六歳になったら、体罰を加えることを考えるべきである。父母に威厳があって慈愛があれば、子供は畏れつつしんで、親にたいして孝心を持つようになる。わしが世間の親たちを見たところでは、躾をせず甘やかすばかり。
(p.18)
比及數歲,可省笞罰.父母威嚴而有慈,則子女畏慎而生孝矣.吾見世間,無教而有愛,每不能

もっと幼いときから躾は始まるのだが、、五、六歳になったらいけないことをしたら体罰を加えろという家訓だ。この歳では、何がいいのか、何が悪いのか、理屈では分からない。言っても分からない。だから体で覚えさせておかないと、

ものごころがつくようになっても、それを当然だと思うようになる。
(pp.18-19)
至有識知,謂法當爾

いいことをしなくても、悪いことをしても、それが当然だと考える人間になってしまうというのだ。これは強烈に分かるような気がする。

例えば、今の時代にこれだけ陰湿ないじめが増えているのは何故か。昔の先生は悪い生徒はぶっ叩いたものだ。それが虐待ではなく指導なら、人間は正しく育つ。無理やりカレーを食わせるような大人にはならない。

「第八 勉学編」では、ざっくり言って「勉強しなさい」という家訓なのだが、こんな話が紹介されている。

礼記』には、「独り学んで友がなければ、孤りよがりになって、知識がせまくなる」(学記編)とある。人はたがいに切磋琢磨して向上をはかることが必要だというのである。
(p.81)
禮云:「獨學而無友,則孤陋而寡聞.」蓋須切磋相起明也.

最近、急激に流行しているリモート授業、動画配信のような授業スタイルは便利かもしれないが、この「切磋琢磨」という要素がない。ネットでは、リモート授業の方が効率的だという生徒もいるが、そこを見落としている。独学が怖いのは、書いてあることを自分の解釈しかできない点だ。本に書いてあることは、いろんな解釈ができる。それはディスカッションして、切磋琢磨しないと気付かない。一つの解釈だけでは level up しない。

このような家訓がいろんな切り口、状況に対してのノウハウとして綴られている。逸話もいろいろあって面白い。教訓系の本としては日本ではマイナーかもしれないが、一読していろいろ役に立ちそうな感じがある。個人的に「ふむ」と思ったのは、

文章は生まれつき才能に恵まれないかぎり、けっして強いて筆をとるべきではない。
(p.93)
必乏天才,勿強操筆.

ここで言う文章というのは、今の日本語とはまるで違うものではあるが、今のような誰でも書いて全世界に公開できる時代からみれば、なかなか奥の深いものがあると思う。


顔氏家訓
林田 愼之助 翻訳
顔之推 著
講談社学術文庫
ISBN: 978-4062924771

大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起 (5)

今日は「大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起」の第5章「グローバル人材」。少し前からよくいわれている大学のグローバル化とは?

大学にとってグローバル化とは何かと考えると、一つには学生のグローバル化、つまり海外から受け入れる留学生数の増大であり、同時に日本から送り出す日本人学生の推移があります。
(p.175)

個人的には、インターネットで全世界が接続されている現状で、そこまでリアルな海外交流を推進する必然性があるのか、という点にちょっと疑問を感じている。もちろん、ネットは fake の宝庫だし、実体験が重要なことは否定できないのだが、グローバル化をなぜ目指しているのか、わざわざグローバル化する必要はあるのか。その原点に返って対応を改めて考えてもいいのではないかと思うのだ。逆に言えば、ネットを活用したグローバル化というアプローチが足りないのではないか。

で、実際のグローバル化の事業は、あまりうまく行っていないらしい。

「これをやる」というのろしは上がるけれども、大学にとっては、わずかばかりの資源しか与えられていないのに負担ばかりが増えて、やる気がある一部の人でさえ、疲労感が出てきてしまい、結果的に中途半端に終わってしまうという悪循環になっています。
(p.183)

そして、国のスーパーグローバル化事業には、外国人教員等の比率を一定以上にするという目標があるらしいが、この「外国人教員等」の「等」って何、というのが面白い。

在外研究などで一年、海外に出た経験のある日本人教員がすべて含まれてしまう。
(p.190)

つまり外国人教員等には日本人が含まれているのだ。大風呂敷を広げた割に、中身がショボい。これに関して吉見さんが、

だいたい行政文書で「等」という文字があると、そこには何かあるなと瞬間的に反応します。
(p.190)

現場の人はなかなか鋭いのだ。

それに、単に講師が増えただけではダメだという。

日本の大学が本当にグローバルにやっていける大学になるために必要なのは、准教授以上の常勤の外国人承継職員が増えることです。少なくとも、非常勤教員のレベルだけで外国人教員が増えることではありません。
(p.197)

中には講師を増やしてグローバル化が進んだとしている大学もあるようだが、それでは足りないのだ。

グローバル化に対応できている大学としては、際教養大学、国際基督教大学(ICU)、立命館アジア太平洋大学(APU)、早稲田大学国際教養学部が例示されていて、

いわゆる偏差値的なトップ層は東大や京大に行くんでしょうが、大学に入ってからの伸びしろは、今挙げていただいた大学に行った子のほうがむしろあると思います。
(p.206)

とのことだ。

(つづく?)


大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起
集英社新書
苅谷 剛彦 著
吉見 俊哉 著
ISBN: 978-4087211061