Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

知的戦闘力を高める 独学の技法 (5)

少し間があきましたが、「知的戦闘力を高める 独学の技法」の続き。

独学するにあたって、教条主義に陥らないこと、というのは常識的な話だから説明するまでもないが、

「あの人、まあ活躍しているようだけど、キルケゴールも知らないんだぜ?」とほざく教条主義者には、「ふーん……そういう君はキルケゴールを読んでいるくせにウダツが上がらないようだね」と返してあげましょう。

(p.137)

まあ面白くないとまでは言わないけど、返し技としてはいまいちだと思う。

情報をインプットするコツは

入れない情報を決める
(p.129)

というのが前にも出てきたけど、読書がうまい人は、読みながら必要のない内容をどんどん忘れるのがウマい。全部覚えようとすると、かえってうまく引き出せなくなるらしい。

いたずらにインプットを増やすよりも、将来の知的生産につながる「スジのいいインプット」の純度をどれくらい高められるかがポイント
(p.129)

役にたたない情報がいくらあっても仕方ない。ただ、実際問題としては、使う前にそれが役立つかどうかを判断することが難しいだろう。

ビックデータの解説として、

誰でもアクセスできる大量のデータから、どうやって自分にとって意味のある洞察を抽出できるか
(p.142)

という説明はウマいと思った。ビックなだけに必要ないデータもビックなのだ。

ところでこの本、独学のためには本を読むというスタンスであるが、人から教わるのもいいという話も出てくる。人から教わって独学なのかというのはさておき、なぜ人から教わるのがいいかというと、

人が持つ高度なフィルタリング能力、文脈理解力
(p.145)

が効果的だという。例えば本を直接読むよりも、その本を読んで理解した人に教わった方が、重要な箇所だけをセレクトして伝えてくれるので能率がいい、ということだ。もちろん、この効果を期待するためには、誰に教わるかが重要になるだろう。文脈理解力がない人に教わると恐ろしいことになりそうだ。

見識ある人物にあって、その人物から薫陶・知見を得るというのはもっとも効率の学習方法
(p.146)

教える側の視点としては、相手に何を言えばうまく伝わるかというところまで考えてカードを出すことができれば、さらに効率が上がる。

効率という意味では、暗記の定着度も重要で、それに関しては、

「どうして、こうなっているんだろう?」「恐らく、こうなっているんじゃないか?」という問いを出発点にして、その問いに対する答えを得るためにインプットを行うと、インプットを楽しめるばかりでなく、効率も定着率も高まる
(p.167)

関心のあることは記憶に結びつくことが知られているが、ダヴィンチの言葉、

食欲がないのに食べると健康を害するのと同じように、欲求を伴わない勉強はむしろ記憶を損なう。
(p.148)

これが紹介されている。流石、比喩がウマい。

(つづく)

 

知的戦闘力を高める 独学の技法
山口 周 著
ダイヤモンド社
ISBN: 978-4478103395

雑記

京都の百万遍交差点の真ん中でこたつを囲んで鍋【謎】をしている人がいた、というニュースがありました。これは森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」に出てくるアレ。

「妙な連中がコタツに入って、構内をうろついてんだよ、あんまり神出鬼没だから、韋駄天コタツと呼んでるのさ」
(p.160)

もちろん、うろうろするだけでなく、

彼らは人をコタツに誘って鍋を振る舞うんだよ

というから、まあ間違いないでしょ。これは逮捕するの大変だぞ。

 

夜は短し歩けよ乙女
森見 登美彦 著
角川文庫
ISBN: 978-4043878024

 

素数の音楽

今日は、3日に紹介した「素数の音楽」を。

この本はとても面白いが、数学が嫌いな人にとってはどこが面白いのか全く分からないだろう。ザックリいえば、数学者列伝である。私の場合、出てくる人が殆ど知っている数学者ばかりだから、この人はそうだったのか的な薀蓄が増えるのがとても面白いが、数学者を知らない人だと、リーマンって会社員のこと?、で終わってしまうかもしれない。

もちろんリーマンというのは大数学者のリーマンのことであり、この本のストーリーの根幹を成しているリーマン予想を問いかけた張本人である。そして、この本はリーマン予想と戦って破れた人達と今なお戦っている戦士達の武勇伝なのである。この人、いかにも数学者らしい、なかなかいい性格で、

リーマンにとっては、何事も完ぺきでなければならず、満点が取れないなどという不名誉には耐えられなかったのだ。
(p.93)

というような極端な人だったのだ。そして天才的なエピソードはいくらでもあって、例えばリーマンがルジャンドル整数論という本を借りて読んだときのエピソード。

リーマンは、四つ折り版で八五九ページというこの分厚い著作をむさぼるように読み、六日後にシュマルフスに本を返したときには、なんと次のように言い切った。「これはすばらしい本です。ぼくは、この本を暗記しました」
(p.97)

こんな感じで、大御所が次々と紹介されていく。大学で解析学を学べば必ず出てくるコーシーについては、

幼い頃からひ弱だったコーシーは、体を使うより頭を使うことを好んだ。
(p.101)

運動が苦手というのが数学への近道なのかもしれない。この人達はなぜそこまでして数学に拘るのか。

数学をしていて心が躍るのは、結果を現実に応用できるからではなく、数学そのものが美しいからだ。
(p.120)

確かにある種の数を見ていると何か魔法がかけられているような気がすることは多々ある。

もう一つの数学者の特徴は、頭の中が多次元空間になっていることである。普通の人は3次元の空間しか認識できない。アインシュタイン的にいえば、3次元プラス時間軸の4次元の時空間だ。それがイメージできる限界である。ところが、数学者はそれ以上の次元を頭の中に具体的に構造化することができる。

数学者たちは、数学の言葉を使って心の目を訓練しているので、このような構造を「見る」ことができる。
(p.130)

ラマヌジャンの話は壮絶。分割数の公式は複雑すぎてここには書けない。

ところで、多くの数学者や科学者が、これは自分が発見したと主張したがるものだが、ヒルベルトの第10問題を解いた人の争いが面白い。発見したのはマティヤセヴィッチとロビンソンという二人で、お互いに考え合って協力して進めて行った最後の一押しをしたのがマティヤセヴィッチなのだが、この二人は、

互いに困難な部分を成し遂げたのは相手だと言い張ったのである。
(p.299)

何をしたいのかよく分からない。

もちろん四色問題の話も出てくる。

ガスリーは一八五二年に、ロンドン大学ユニバーシティカレッジで数学を専攻していた弟に、地図の塗り分けが常に四色で十分だと証明した人間はいるか、とたずねた。
(p.317)

この問題は、ご存知かもしれないが、アッペルとハーケンによりコンピュータを使って1976年に証明された。現代に近づくにつれてコンピュータの話題がどんどん増えていく。この本の後半ではチューリングRSAの三人、Rivest–Shamir–Adleman が出てくる。それでもリーマン予想は予想のまま突っ走る。素数はビジネスになったのだ。でも肝心の予想がまだ解けていない。

 

素数の音楽
マーカス・デュ・ソートイ 著
冨永 星 翻訳
新潮社
ISBN: 978-4105900496

新釈走れメロス 他四篇

昨日のクイズで「もんどり」を漢字で書けという問題が出て書けなくてショックでしたね。というのは昔は書けたからである。書けたという話をどこかで書いたなと思って検索してもちっとも出てこない。調べまくったら2016年3月5日に他のブログに書いた書評がソレだった。「いつか読んだ本」を始める前のことである。ということで、書評はこっちにまとめるプロジェクト進行中なので、転載させていただきます。一所懸命、森見さんの文体を真似して書いているのだけど、かなりスベってますね(笑)。

以前、太宰治の小説、走れメロス暴評を書いたことがあった。あんなくだらん話はないぞ。しょうもない。これだけ書いておけば太宰も本望、書いたのはそんな趣旨だった気がする。違うかもです。

走れメロスをそんなバカな解釈する奴はいないと思っていたら、はるかに常識を凌駕する解釈をする凄い人がいた。その人の実際の作品がこの本である。

「新釈走れメロス 他四篇」(他四篇というところポイント)という書名に釣られた人がいたとしたら、あなたはお魚だ。その実体は釈でも何でもなくて、メロスに出てくる表現を多少借りた小話に過ぎない。実はこの文庫本の作品の中では「桜の花の満開の下」が圧倒的に好きで、これは実は森見さんの実体験をアリのままもしくはキリギリスのパパになったつもりで書こうとして失敗した私小説ではないかと妄想もしてみたのだが、想像するだけで疲れてしまうので、まず次に気に入った、というか頭に来た山月記について評したい。

もちろん山月記といっても原作とは殆ど関係なく、ありていに言えばふつーのパロディなのだが、なぜこの山月記が気に入ったかというと、私は「もんどり」を漢字で書けるからである。

深夜になって、彼は急に下宿のドアを蹴破ると、「もんどり! もんどり!」とわけの分からぬことを叫びながら闇の中へ駆け出した。
(p.10)

いきなり横道に逸れておくとこの表現は同書収録作、「走れメロス」の

芽野は「大学自治! 大学自治!」とわけの分からぬことを叫びながら百万遍交差点を駆け抜け…
(走れメロス、p.133)

これと酷似した表現で、森見氏のお気に入りの表現なのか、意図的にフラッシュバックやバックドラフトさせることで奇天烈な心理的効果を狙ったのかもしれず、真相は藪の中だが、とにかく山月記に関しては、もんどり記といってもいい位のもんどりオンパレードであるという事実に注目しなければならないのである。そこに太宰氏の元作品に見られる荘厳でキリスト教テイストの教条主義的な雰囲気は微塵も無く、ただ只管「もんどり」の話を刷り込むことに終始しているのがオモチロイ

特に、モン鳥説が凄い。

んなの私は聞いたこともない。森見氏の小説は京都の実在する風景描写も秀逸ながら、妄想系に走ったらベクトルが常人と違い過ぎて誰も付いていけず、付いていけるのは俺だけ的な錯覚を感じることも多々あるのだが、それにしてもモン鳥はないだろ。

もんどりというのは由来を辿ると鳥獣戯画の時代に遡って、蛙と兎が相撲を取っているマンガは教科書にも紹介されるほど有名だが、その中に投げ飛ばされてさかさまになっている蛙がいるのを覚えているだろうか。この蛙をもんどり蛙という。その時代の「もんどり」の細かい意味はよく覚えていないが、今でも使われる「もんどりうつ」という表現は、このマンガから来ているのだ。

ウソだけど。

私の妄想は置いといて、もんどりという言葉は好きだ。漢字で書けるという話は最初に書いた通りだが、漢字で書いても読める人は少ないだろう。この小説には「もんどり」を漢字で書いた箇所はない。ルビを振ったらモン鳥という創作が意味不明になってゲシュタルト崩壊するので、漢字で書けなかったのだろう。何事にも合理的理由はあるものなのだ。

「もんどり」を漢字にすると3文字になる。

その3文字の最初の2文字は、この小説の中に出てくる。ということは、2文字まで気付いたところで、ははぁ、森見さん、この小説の中にもんどりを漢字にしたときの3文字をバラバラにして隠すことでサブリミナル効果を狙ったのか、そう仮説を立ててみた。ならばあと1文字だ、それはどこに出てくるのか。何度も精読したが見つからない。探し方が悪いのか。京都人なら先斗町というお手軽な地名も知っているはずなのに、それすら出てこない。くっ、騙された。そうやって精読させるのが狙いか。芸が細かいじゃないか。

というのが先ほど「頭に来た」と書いた理由だ。早い話が単なる八つ当たりというか私の妄想起源の逆ギレなんですな、すみません。

それはそうとして、最後まで読むと何気に悲しいお話だ。そこは山月記さながらである。あの小説は国語の授業で読解させられた人も多いんじゃないかと思う。私もそうだが。そういう人は悲しいどころじゃなくて、読解に血眼になって考えてうんうん唸っていたに違いない。もっと落ち着いてリラックスして読めばいいのに。アレは難解な小説ではなくて、とても単純で、そこはかとなきかなしさをしる、みたいな名作なんだ。原作は。蛇足しておくと血眼を「けつがん」と読んでしまった人がもしいたら「ちまなこ」と読んでくれることを切に望む。

(^^;)

さてもう一編紹介しよう。題名にも使われているのだから代表作に違いない、走れワロス。じゃなかった、メロス。主人公はメロス役が芽野史郎(めのしろう)、セリヌンティウス役が芹名雄一(せりなゆういち)という。何でシロウなのか知らんが作品中に北斗の拳が出てくるからケンシロウから取ったとか、そんなとこだろ。そして原作の二人も相当バカだかこの二人も猛烈にバカだ。芹名氏のセリフ、

「しかし、あんたの期待するようなつまらない友情を演じるのは願い下げだ」
(p.138)

これだけなら極めてカッコイイのだが、

「そのためにブリーフ一枚で踊ることになっても?」
「そうとも」
(p.138)

バカだ。

ていうか芹名は最初から踊りたいに違いないのだ。勝手に踊るとバカ丸出しだから理由が欲しいのだ。王様役の図書館警察の長官は最後は一緒になって桃色ブリーフスというユニットを結成して踊ることになるのだが、はて、原作の王様の名前何だっけ(実はないのです)、まあいいや、バカは伝染する。どうせならモモクロみたくモモブリという略語も作って欲しかった。だって刺身にしたら美味そうではないか。ミカン食わせて育てる養殖ブリみたいで。関係ないけど。

個人的には「夜は短し歩けよ乙女」とか「きつねのはなし」もオススメなんだけど、あえてまず、こちらを書評させていただいた。いつにもまして珍評になってしまったような気がするのだが、結局どこかハメられた感がしないでもない。

後で読み直してみると山月記のところにキリスト教云々とか書いてあるがキリスト教が出てくるのは太宰の話で山月記中島敦だからずれてるじゃないかと細かいところに気付いたかもしれないがそんなことはどうでもいいのだ。私はもっとなんだか大きなもののために書

 

新釈 走れメロス 他四篇
森見登美彦
角川文庫
ISBN 978-4-04-103369-2

雑記

今日も忙しくて本どころではという日でしたが、ちょっと隙間時間を使って、2日に紹介した「受験脳の作り方」をチェックしていました。

後半で、人間の記憶とコンピュータの記憶を比較しているところがあります。人間じゃなくてイヌかな。イヌとコンピュータの違いについて、

コンピュータは一回の記憶で完全に学習できます。
(p.151)

というのですが、それは一見正しいようだが実は不十分です。コンピュータは確かに、一度保存したデータは殆ど確実に正しく読み出せます。しかし、その速度が問題になることがあります。

Windows を使っている人は「インデックス」という言葉をどこかで見たような気がするのではないでしょうか。インデックスというのは、高速検索するための情報です。人間の記憶でいえば、思い出すためのヒントのようなものです。

保存したデータには「インデックス」を付けることで素早く引き出すことができるわけです。データベースを使うプログラムを設計するときには、これが性能を左右するので、重要になります。単に保存するだけでなく、どこに保存したという情報を付加することで、使えるようになるのです。

「脳が認める勉強法」でも紹介しましたが、レミニセンスという現象があります。一度覚えた内容が、その日よりも数日後の方がよく覚えているというものです。個人的には、これは、脳内にインデックスができるのに3~4日かかるためではないかと予想しています。

雑記

今日も本どころではなかったのだが、以前紹介した、河合隼雄さんの「とりかへばや、男と女」をちょっとだけ読み返した。

ドラマ「海月姫」でも女装が話題になっていたが、日本の歴史で女装といえば、

たとえば、ヤマトタケルは確かに強いことは強いのだが、ヒーローよりもむしろトリックスターに近いところがある。興味深いのは熊襲との戦いで、ヤマトタケルが女装することである。
(p.102)

ヤマトタケルが元祖だとすれば、日本の女装史も結構年季が入っているわけだ。日本の神話でトリックスターといえばスサノオノミコトらしいが、女装に注目したところが面白い。言われてみれば実に不自然な話のような気がしてくる。

 

とりかへばや、男と女
河合隼雄
新潮選書
ISBN: 978-4-10-603616-3