Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

ファミリーデイズ

エッセイ集。瀬尾さんと旦那さんと娘さんの三人家族の話。出産から娘さんが三歳になって幼稚園の終了式までが描かれている。子育てあるあるネタが満載なのだが、子供の描写が作家さんだけになかなか面白い。

瀬尾さん曰く、自身はかなりおおざっぱだという。

教頭先生に「瀬尾さんは、机の引き出しをどれも少しだけ開けているけど、何か意味があるの?」と言われたこともあるくらい、私はおおざっぱではある。
(p.45)

引き出しをちゃんと閉めないから、という話のようだが、大雑把とはちょっと違うような気がしないでもない。私もこういう癖があったような気がする。その方が引き出しを引き出しやすいとか、何か理由があったと思う。

そのような親が子供を育てるとどうなるのか、かなり自由奔放な感じになるようだ。

ちなみに、娘さんが生まれたときは、顔が似ていたらしい。

「瀬尾さんそっくりだね。でも、子どもの顔ってすぐに変わるから」
(p.72)

そっくりだというので慰められているのが謎。

どこの母親が、生まれてきた子どもが自分に似ているからと、落ち込むのだ。
(p.72)

というのが本人の感想。女の子は男親に似るというけど、生後一ヶ月も経つと夫に似てきて「かわいいね」と言われるようになったという。それってどう感想書けばいいのか分からない。

娘さんが一歳になったときに一泊旅行に行って、

「全然人見知りも場所見知りもしなかったな」と私が言うと、
「そりゃ、まいこが何もかまえず楽しんでたからやん」
(p.89)

親が安心していると、子も安心するという。子供は親をとてもよく観察しているのだ。

絵を描くようになると、クレヨンでどこにでも描いてしまうので大変…というのは分かるが、最近は水で落ちるクレヨンがあって、どこに描かれても拭けば落ちるので楽だというのは知らなかった。ところが、ひょんなきっかけで油性ペンをgetしてしまう。娘さんがこれを使いたがるから、スケッチブックに描かせてみて、他に描かないように厳しく監視していたら、

その日以来、なぜか油性ペンを使っている時だけは、あちこちに落書きせずスケッチブックに描いている。
(p.117)

瀬尾さんはこれを、親の「本気度が伝わった」と解釈している。スケッチブック以外のところに描かないように親が必死の形相で見張っているから、他のところに描くのをためらっている、というのだ。それもありそうな話だが、個人的には油性ペンで描くのがモッタイナイので、スケッチブック限定で使っている感覚があるのではないかと思う。下書きではなく清書の感覚だ。何が本当なのかは本人に訊いてみないと分からないが、おそらく訊いても分からないだろう。

最後に、瀬尾さんが働いていた中学校の英語の先生の言葉、

Today is beautiful, But tomorrow will be more beautiful
(p.65)

なかなかいい言葉だ。青天井ではなく収束していくようなイメージはあるけど。


ファミリーデイズ
瀬尾 まいこ 著
集英社
ISBN: 978-4087711257

雑記

今日は電車でちょっと移動があったので、読んでいた本が、鈴木大拙さんの「一禅者の思索」です。

初版が昭和十八年、ということで出てくるハイテク的な話題がどれもレトロな感じなのが面白いです。

今日読んだところで面白かったのは、靴を作る人の話。一人で靴を作れば全体像が分かりますが、工業化して、パーツで製造すると、その部分しか分からない。カカト専門だと靴のことが分からない。そういうのは創意がないのでダメだというのですが、

「お前はカカトになって暮せ」と言われても、自分の心の中にそれに応じて「よろしい」というものがあって、それで働くのならよろしい。自ら進んでカカト三昧の境地に入り浸って働くのなら大いによろしい。
(p.114)

カカトはダメというのも面白いですが、三昧なら構わないといううのが何か深い感じがします。何か騙されているような気がしないでもないですが。

一禅者の思索
鈴木 大拙
講談社学術文庫
978-4061587922

雑記

何か図書館のサイトを見たら滞納図書のマークが付いているので慌てて返しに行きました。その前に慌てて読んだのですが、慌てると何のことか分からないような本なので困ったものです。

今日は例の古本市で柳田國男さんの妖怪談義があったので買ったのですが、早速行方不明です。私のオフィスは何か住んでいて、ときどきイタズラするようです。ちなみに、神隠しなのかと思っていますが、見当たらなくなったUSBケーブルが出てきたので、単なる身代わり【謎】なのかもしれません。

夏の階段

今日は、昨日ちょろっと前振りしていた本です。梨屋アリエさんの「夏の階段」、怪談ではありませんよ。ちゃんと階段が出てきます。登場人物は高校生。高校生向けのノベルですね、青春です。5つの作品が入っていますが、それぞれ同じ高校で、登場人物がオーバーラップしています。

最初の作品が「夏の階段」。純粋階段の話です。純粋階段というのは、

純粋に階段だけがある不思議な階段
(p.14)

だそうです。階段を上がったら普通は何かありそうなものですが、その先に何もないのです。ビルの入り口にあった階段が、ビルが壊されて階段だけ残った、みたいな感じですか。

「夏の階段」の主人公は玉木くんです。

ついさっきまで、夏休み第一日目から強制的に参加しなくてはならない学校の夏期講習に、腹を立てていた。
(p.7)

知恵袋でもそういう質問、たくさんあります。しかし「第一日目」というのはもう間違った日本語とは認識されないのですかね。昔は、先輩に「一日目のことを第一日というのだ」と叱られたものですが、最近は馬から落馬もokなんでしょうか。

出てくる人達の生活環境が案外壮絶です。「君たちはどう生きるか」の時代のように、働かないと食えないというパターンの悲惨さはないのですが、玉木くんの家は、

おれのオヤジとお袋は、家ではしょっちゅう血みどろのケンカをしていた。
(p.23)

こんな感じです。まあ夫婦喧嘩は犬も食わないものですが。玉木くんはそういう親をも反面教師にするつもりですが、

おれがなりたかった大人って、どんな大人なんだろうか
(p.36)

肝心のことが分からないのです。これダメというのが分かっても、どうすればイイのか分からない。この話に出てくる遠藤さんが、現実的に、勉強する理由についてアドバイスしてくれます。

ほかに方法が思い浮かばないんだから、今できることをするしかないでしょ。もし幸せになれなくたって、なんにもしなかったよりは、胸張れるじゃん
(pp.42-43)

後になって、やっておいてよかった、ということは結構ありますよね。

2作目は「春の電車」。主人公はチェミ。高校が舞台なので、当然高校生活がリアルに描写されているのですが、

体育着だって、なんかエロなの。中学のほうがまだマシだった。
(p.64)

どんなのだろう。しかし、エロいのは体育着じゃなくて体だと突っ込んだらセクハラになるんですかね。さて、このチェミがオーボエ奏者なのですが、

吹奏楽部のオーボエ吹きのわたしは、オーボエ吹きらしく行動したいけれど、どういうのがオーボエ吹きらしいのか、わからない。
(p.81)

この本とは関係ありませんが、負け犬のオーボエ【謎】という格言があるとか…、これは意味が分かりません。結局チェミは高校ではオーボエ吹いたのか、それともやめたのか。

3作目は「月の望潮」。主人公は福田くん。ちょっとポエマー入っているような感じです。

ぼくは海に恋するシオマネキであり、つまり緑川と同じ状況にいた。
(p.101)

シオマネキは潮を招いているわけではなく、異性にアピールしているのだと思います。ちなみにハサミが大きいのはオスだけです。この緑川さんというのは、

チャーシュー麺につけたセットの半チャーハンのような――あれば嬉しい、なければ寂しい、でもそれだけじゃ物足りないという――なんとも微妙な位置にある女の子
(p.99)

というのが福田談。この福田くんが花火大会で玉木を殴ります。しかも反撃されて負けてしまう。それで新学期に登校し辛いのに耐えて教室に入ったら、

みんなの頭の中は早くも次の試験でいっぱいで、だれもぼくのことなんて気にしていなかった。
(p.112)

その程度の人気なのかとガッカリするわけですが、「君たちはどう生きるか」にもそんな感じのシーンありましたよね。自分というのは自分が思っているほど他人からは関心を持たれていないものです。

4作目は「雲の規格」、そんなものないでしょうというという意味でいい視点です。雲をつかむような話ですね。実は規格があるのかもしれませんが。この話の主人公は河野くん。緑川さんも結構いい味出していますが、とりあえず河野くんのお言葉。

オレたちの時代は恵まれている。奥窪のように、家庭が裕福で働かなくても生きていける人間だっている。実際問題、あくせく働かなくても、人間はそれなりに生きられるんじゃないかと思う。
(p.170)

この後、何でそれにもかかわらず大人が過労死になるまで働くかという考察に入りますがどうでもいいです。先にも書きましたが、今の時代、働かないと食えないから学校に行けないような人は殆どいないでしょう。しかしもっと奥深い問題を抱えている人が多いような気がするのですが。

オレは臆病者なのだ。一人ぼっちだと気づきたくないのだ。
(p.190)

こういうのが根深い。ただ、私はどちらかというと一人ぼっちがいいタイプの人間なので、それが臆病につながるプロセスがいまいち分かりません。

わたしが中学二年のとき、クラスメイトの一人から、小学生の作文みたいな〝ですます調〟でしゃべるのが不愉快だと暗に指摘されたことがあり、以来、話し方を変えました。
(p.199)

考えてみれば(みなくても)、表現を変えた位で本人の頭の中は変わらないわけです。しかし、言い方を変えるだけで、他の人はその人が変わったと錯覚します。だから表現というのは恐ろしいのです。それに反応してしまうクラスという集団がさらに恐ろしいことです。

5作目、「雨の屋上」の主人公は遠藤さん。この話には福田君の妹の優眞ちゃんが出てくるのですが、趣味は盗聴。

優眞ちゃんが「アニキってエロキモ~イ」と笑いながら、家中に隠しマイクを仕込んで盗聴を続けている
(p.217)

これは趣味というよりは悪趣味ですね。盗聴される側、気付かないものなのでしょうか。

遠藤さんは、感性がかなりずれています。不登校になったりします。遠藤さんは「すげぇ」と言われるのですが、

人に素直にすげぇと言える人のほうが、百万倍すげぇ人なのです。
(p.235)

素直に受け止めることができません。しかも、いじめられているのにも気づきません。後になって、

そのとき初めて、自分がいじめられていたのだと知って、驚きました。
(p.241)

かなり鈍いのですが、それでいて、いじめを知らずに不登校になってしまうのだから只者ではありません。不登校になったしまっていじめた同級生が慌ててカミングアウト、という流れがあるようです。しかし、この謝罪がまた怖い。

しかしなによりも、わたしはクラスメイトの謝罪の作文に書かれた真実に、衝撃を受けました。被害者である以前にオマエが加害者であり偽善者なのだ、とほのめかしながら謝罪している人たちが、恐ろしくなりました。
(p.243)

具体的な謝罪文が続くのですが、全然謝罪になっていない。そこまで酷い書きようをする謝罪は現実にはないと思うのですが、これでも本人は謝っているつもりではないかと思います。そういう時代になったのですかね。

最後に、重松さんの一言。重松さんは遠藤さんを救ったお年寄り(?)です。

変えることではなく、気をつけることです。
(p.256)

何のことかよく分からないかもしれませんが、座右の銘にしてください。


夏の階段
梨屋 アリエ 著
ポプラ社 teens’ best selections
ISBN: 978-4591102756

ポプラ文庫ピュアフル
ISBN: 978-4591114346

雑記

今日は一冊読み切ったのですが、時間がないのでパスします。

ところで、その本の中に、オーボエ吹きらしく行動したいというセリフが出てくるのですが、オーボエ吹きらしい行動ってどういうのでしょうね? 作中人物もイメージできず困っているようでした。

ギタリストらしいとか、ベーシストらしいというのは何となくイメージできるのですが。バイオリニストだと屋根の上で演奏しているとか。

薄桜記

今日は五味康祐さんの薄桜記。剣豪小説。主役は丹下典膳と中田安兵衛(その後、婿養子になって堀部安兵衛)のダブルキャスト。時代は忠臣蔵赤穂浪士が討ち入ったところまで描かれている。途中に出てくる紀文(紀伊国屋文左衛門)や小林和尚(柳生連也斎)がゲスト。典膳の美女の妻、千春は離別されて元妻になってからストーカー役というところか。

そもそも離別の理由は千春の浮気なのだが、それが原因で典膳は片腕切られるし最後は余計なことをされて命まで落としてしまうから女というのは恐ろしい、という話でいいのかな概略は。無敵の剣士も女には勝てなかった的な。

丹下典膳は片腕切られた後も無敵の最強剣士である。最後の方のシーンで、勘平が典膳に出くわす。

丹下典膳であることは勘平にも一目で分った。こちらも何気ない態度を見せようとしたが、射すくめられて足が前へ出ない。
(p.647)

出合った相手はガクブルで勝負にならない。バトルシーンもだいたい一瞬で相手が切られて死ぬ。

鈴田重八が突きを入れ、毛利は脇から抜き打ちを懸けた。典膳の袖が腕のない肩口で裂けた。鈴田、毛利の両人は水もたまらず「あっ」と叫んで仰反った。倒れてから両人はぷうーっと背すじより血を奔いた。
(p.662)

相手は片手なのに、突いたり抜き打ちを懸けた方が死んでいて、その時どんな斬られ方をしたのか微塵も分からない。ベクトル変換でも使っているとしか思えない。

安兵衛もかなりの剣士だか典膳にはまるで及ばない。この二人が並んで歩くシーンがある。

二人の足取りは寸分違わず打揃っている。意識してそうするのではない。この呼吸の一致は、先に乱した方が負けなのである。
(p.228)

何と戦っているのか分からない位ハイレベルな戦いなのだ。

ゲストと書いたけど、紀文は商いの天才で、中盤に結構登場する。何をしているのか周囲の人達が理解できないという設定が面白い。朱印船という話が出てくるから、何か企んでいるような気配はあるのだが、このストーリーの中ではそちらのシナリオは未完紀文だけに。ということで、よく分からない。

或る行為が、かなりの時間を経て、はじめてその行為の意図を他人に納得させる人間がいる。紀文がそうで、何を考え、何を目的にしているのか当座はさっぱり分からない、年月を経てから、さてはそうだったかと合点のゆくような、そういう紀文は男だと静庵は言うのである。
(p.292)

静庵は深川のご隠居。人を見る眼はあるというが、何か自己矛盾しているような気がしないでもないが、紀文をえらい持ち上げてくる。

この物語、後半は赤穂浪士の討ち入りの細かい話になっていく。史実としての記録を紹介しつつの冷静な分析はなるほどと思わせる。

これによれば、上野介は立派に抗戦したことになる。
(p.477)

28箇所の傷があったという。恨みありとはいえ、仮にも武士が無抵抗の相手をそんなに斬りつけないだろう、という根拠。上野介が臆病だというのなら、

そんな臆病者(しかも年寄りだ)を二十八カ所目にようやく仕止める義士たちの腕前は余っ程にぶかったわけになろう。
(p.479)

と、批判は痛烈だ。総評的に、

本当に一番偉かったのは切腹の仕様も知らぬ面々を忠臣に仕立てて、賛美を惜しまず育みつづけてきた日本人一般の気質そのものだったと言える。
(p.481)

としている点は鋭い。伝説が伝説として残るためには結局、ウケるかどうかということ、それも結構重要なことなのである。


薄桜記
五味 康祐 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101151052