Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

夜は短し歩けよ乙女 (1)

しょうがないな、本当に書評書いたのか実は書いてないのか分からなくなった。あれは全部幻想だったのか。ミラージュなのか。

まあでも書こう。この物語の主人公は二人いる。一人目は「私」。名前はまだない。どこで生まれたのか知らないが、作中では「先輩」ということになっている。もう一人も「私」だからややこしい。こちらは作中では「黒髪の乙女」ということになっている。だからこのブログでは「先輩」と「黒髪の乙女」と表現することにする。

物語はいきなり大学のクラブのOBが結婚することになって内輪のお祝いをするということで集まって飲んでいるシーンから始まる。クラブというのはもちろん詭弁論部だ。何がもちろんなのかは謎だが。先輩は飲みながらブチブチ言う。

ただでさえ面白くなきところ、そもそも新郎新婦ともに面識がないのだから、面白がるほうが変態だ。
(p.10)

このあたりの心の狭さは先輩ならではのアドバンテージだ。それでも飲みに行くのはそうしないと話にならないからだろう。この新婦の名前は東堂さんで、後で出てくる藤堂さんの娘という設定だからややこしい。かと思いきや新婦の藤堂さんはその後殆ど出てこないから紛らわしくもないのだ。結婚したら苗字が変わるだろうし、ますますどうでもいい。

ストーリーは先輩の「私」と黒髪の乙女の「私」が交互にしてんを変えて進んでいく。してんが変換できなくなったぞ、何の呪いだ、またIMEの辞書が壊れたのか。Windows Update しただけで壊れるとは何事だ。ユーザー辞書を修復するのだ。視点、よし変換できた。話を戻すと、ちなみに、このように視点を入れ替えながら話を進めるというのは、小説としてはかなり難易度が高いらしい。森見さんの表現力もかなりの変態レベルに違いない。

視点が黒髪の乙女に変わったところで、こんな感じになる。

これは私が初めて夜の木屋町から先斗町界隈を歩いた、一晩かぎりのお話です。
(p.12)

こんな所で先斗町が出てくる。これでやっと「もんどり」の漢字3文字が揃ったのだが、猪鹿蝶じゃあるまいし何の役にも立たない。で、女子大生たる黒髪の乙女が夜にバーで一人で酒を飲んでると男が声をかけてくる。普通これで声をかけないとかえってヘンだけど、これが藤堂さん。変態に間違いないのだが、この物語の中だと普通に見えてくるからオモチロイ。

皆さんは電気ブランという酒は飲んだことがあるだろうか。私は確か神谷バーで飲んだことがあるはずだが、京都でも実は飲んだことがある。といいつつ、この話に出てくるのは電気ブラン電気ブランの製法が秘密なので再現しようとしたが出来ない。その挙句が、

試行錯誤の末、袋小路のどん詰まりで奇蹟のように発明されたのが、偽電気ブランだ。偶然できたものだから、味も香りも電気ブランとはぜんぜん違うんだよ。
(p.19)

再現実験をしているのに何をどう間違えたら味も香りも違うものができるのか理解できないが、できてしまったものは仕方ない的なことなのか。しかしこの酒って実在するのだろうか。と思って調べたらあったというのは昨日書いた通りだ。しかしそれって実のところ偽偽電気ブランではないだろうか?

本編ではこの酒、電気を使って造るのかもしれないという話になっている。

電気でお酒を作るなんて、いったい誰がそんなオモチロイことを思いついたのでしょう。
(pp.19-20)

書き忘れていたかもしれないが、私の文章中にオモチロイという表現が出てくるのは当然森見さんの表現のパクリで間違いない。ここでオモチロイと言っているのは黒髪の乙女だが、他の人も言ってたかな、最近忘却力が高まったのでよく分からない。

東堂さんは案外苦労人で、その経験から哲学的なことでも戦えるパワーを持っているから、幸せとは何かという論議も受けて立つ。しかし黒髪の乙女もいろいろ持っているらしくて、こんなことを言う。

「でも幸せになるというのは、それはそれでムツカシイものです」
(p.21)

黒髪の乙女はこの時点で、幸せとは何か、何が幸せなのか分かっていないし、この本が終わってもまだ分かっていないような気がする。それはそれで幸せなものなのだ。これに対して東堂さんは

娘が幸せを探すためなら、俺はどんな手助けだって惜しまないね
(p.21)

こんな余計なことを言うとマスコミが寄ってたかって改竄だ忖度だとネタを捏造することになるから大変だ。東堂さんはこの後、乙女のおっぱいを揉んでいるところを糾弾されて退場することになるが、入れ替わって登場する不審者が、羽貫さんと樋口さん。樋口さんは浴衣を着た男性で、京都でなければ絶対似合わないだろう。こんなことを言う。

「夜の街で出会った胡散臭い人間には、決して油断してはいけないよ。言うまでもなく、我々のような人間にもスキを見せてはいけない」
(p.25)

当然だ。だから私はネットに何を書くときには「ネットに書かれたことは信用するな」と力説しているのだ。竹原ピストルさんも「俺を含め誰の言うことも聞くなよ」と歌っているではないか。クレタ人は皆ウソつきなのだ。

羽貫さんは女性。共通点はイケる口だということだ。しかしお金がないので他人の宴会に乱入してタダ酒を飲もうと企む。それはいとも簡単に成功する。いつもやっているらしいが。

羽貫さんはまるで百年の知己のように人々の中へ溶け込み、大騒ぎをしています。彼女は逃げ惑う人々を片端から捕まえて、男女を問わず顔を舐めようとしているのですが、
(p.32)

なぜ顔を舐めるのか、目的がよく分からない。味を分析すれば人格が判断できるのかもしれない。化粧している顔を舐めるのはあまり体にはよい感じもしないが、顔に塗るような素材であれば舐めてもたいした毒にはならないのだろう。舐めた途端に死ぬような毒なら顔に塗って平気でいられるわけがない。

そして羽貫さんが顔ナメに堪能しているときに、樋口さんは誰だか知らない人と結婚感に関する議論を始める。

惚れた男と結婚した場合にはだんだん情熱が冷めてゆく哀しみを味わわなければならないが、惚れてない男と結婚すれば冷めようがない。もともと情熱がないからだ。
(p.35)

てな感じで力説したのは実は高坂先輩、つまり最初に出てきたカップルの新婦の元カレだっけ、関係がややこしすぎて分からなくなってきたが、とりあえずただ酒を飲めた3人はコッソリ抜け出して存在しなかったことになる。

宴が果てる前の混乱に乗じて抜け出すことによって、彼女のタダ酒を飲む技術は完成するのです。
(p.38)

リアルにやっていそうで怖い。ていうか、森見さんの感じだとヤラレた方なのかな。

黒髪の乙女がタダ飲み大作戦を遂行中、先輩がズボンと下着を強盗されて困っているところを東堂さんが助けてくれる。

先斗町木屋町通の間に住まう知り合いの古本屋から、古着を借りて来た
(p.40)

京都の古本屋には古着も置いてあるらしい。

その後、李白さんが登場する。この李白さんというのが京都を裏で支配している闇世界のドンのようだ。李白さんと黒髪の乙女が飲み比べ対決をするときの、李白さんの言葉。

「美味しく酒を飲めばよろしい。一杯一杯又一杯」
(p.65)

二人はアレコレ賭けて飲み勝負をしているのだが、もはやどうでもいい境地になっている。一杯一杯というのは本物の李白による山中與幽人對酌という詩に出てくる「一杯一杯復一杯」のことであろう。このときに、タイトルの

「夜は短し、歩けよ乙女」
(p.65)

というセリフが出てくるのだ。もちろんこれはゴンドラの唄に出てくる「いのち短し 恋せよ乙女」という歌詞をパロったものだ。飲み比べ対決は夏子みたいに底なしに飲みまくる黒髪の乙女が勝ってしまう。テレビで大食い対決の番組はあるけど、飲みまくり対決ってのはない。死者が出そうだから当たり前なんだけど、現実世界では飲み比べというのはあるのだろうか。森見さんの作品にはこの酒の対決がよく出てくるのだ。私はあまりこの種の経験はないので分からない。

という感じで第一章が終わるのだが、この小説の不思議なのは、これが妄想ではなくリアルにありそうな気がしてくるところにある。こんなリアルが本当にあるのかというのは、京都に行ってみればそれとなく分かるかもしれない。京都は伊丹家に負けず劣らず不可思議な街なのだ。

(つづく)

 

夜は短し歩けよ乙女
森見 登美彦 著
角川文庫
ISBN: 978-4043878024

雑記

今日は「夜は短し…」を少し書こうと思ったのだが、オフィスに本を置いてきてしまった(笑)。いろいろ集中力が欠けている。

感想を書いている途中で、偽電気ブランがちと気になった。電気ブラン神谷バーで飲んだことがあると思うのだが、偽電気ブランはまだ飲んだことがない。実在するのかな、と思ってググってみると、もちろん作中の架空の酒なのだが実際に作って置いている店があるらしい。そこに行けば本当に飲めるわけだ。

 

君たちはどう生きるか (3)

今日はまた「君たちはどう生きるか」に戻ってみる。4章には「貧しき友」というタイトルが付いている。

最近、子供の貧困が話題になっているが、当時の貧しさというのは次元が違うから今の貧困と比較すると解釈を誤るだろう。当時の貧しい人が今の貧困家庭を見たら、なんて贅沢な暮らしをしているのだと羨ましがるに違いない。なにしろ食べるものがあるのだから。

友というのは浦川君のことである。浦川君が学校を二、三日休んだので、コペル君は風邪でも引いたのではないかと心配する。そこで浦川君の家まで様子を見に行くと、浦川君は竹箸を持って立っていた。

「手が足りませんもんで、これにも学校を休んでもらっておりますんですよ。
(p.105)

つまり、浦川君は働くために学校を休んだのだ。なぜ学校を休んで働くのか、今の若い人達には理解できないだろうから蛇足しておくが、働いてお金を稼がないと一家が食べていけないからである。この時、浦川君のお父さんは親戚にお金を借りに行って留守にしていたのだ。

竹箸を持っているのは油揚を作るためである。浦川君の技を見てコペル君が驚く。なぜ上手くなったのか訊ねると、

一つやりそこなうと、三銭損しちゃうだろう。だから、自然一生懸命やるようになるんさ…
(p.107)

最近の知恵袋とか見ていると、人間の価値は年収で決まると思っている人が9割のようだが、

もちろん、貧しいながらちゃんと自分の誇りをもって生きている立派な人もいるけれど、世間には、金のある人の前に出ると、すっかり頭があがらなくなって、まるで自分が人並みでない人間であるかのように、やたらにペコペコする者も、決して少なくはない。
(p.129)

なかなか世間は厳しそうである。確かにお金のためなら何でもやるタイプの人もいるが。貧しいが誇りを持っているというのは正岡子規が書いている曙覧の話を思い出す。子規は「曙覧の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なり」と書いているが※、貧乏を極めたらその境地は恐るべき高みに至るのか。

浦川君の家は豆腐屋で、学校を休んで働かないといけないほど貧乏だが、それでもまだいい方だという。

浦川君のうちでは、貧しいといっても、息子を中学校にあげている。しかし、若い衆たちは、小学校だけで学校をやめなければならなかった。
(p.132)

若い衆というのは、浦川君の店で働いている人達のことである。義務教育というのは子供が学校に行く義務ではなく、保護者が子供を学校に行かせる義務だ、というのは常識だと思うが、その背景には当時のように、子供に働かせないと生活できない時代があったのだ。

ただ、いまの君にしっかりとわかっていてもらいたいと思うことは、このような世の中で、君のようになんの妨げもなく勉強ができ、自分の才能を思うままに延ばしてゆけるということが、どんなにありがたいことか、ということだ。
(p.136)

今の高校生は大学に行って遊びたいという。学びたいとは言わない。君たちは何かおかしい。

(つづく)

君たちはどう生きるか
吉野 源三郎 著
岩波文庫
ISBN: 978-4003315811

正岡子規 曙覧の歌 (青空文庫)

雑記

今日はちょっと猛烈に疲れたのでパスいたします。「夜は短し…」の第一章を読んだのですが、書くパワーが出ません。ちなみに第一章は先斗町で飲みまくるという話なのですが(笑)。明日は書けるかもです。

知的戦闘力を高める 独学の技法 (6)

今日は10日の「知的戦闘力を高める 独学の技法」の続き。「君たちは」と同時進行でだんだん分からなくなってきたが、実は並行しているのがあと2冊あるので実情はもっとややこしいのである。

今回は、メモを取れというところから。メモはアイデア永続化するためのもの。単に書くだけではダメで、こんな小見出しが付いている。

自分らしい「問い」を持つ
(p.152)

どのようなメモがいいのかは、著者が例を出してくれている。

イギリスはどうして良質なファンタジーを次々に生み出すのだろうか?
(p.152)

このように書いたメモから一体どのように思考が展開していくのか、そこまでちゃんと教えてくれる。

インプット ロンドンオリンピックの開会式のメアリー・ポピンズ
抽象化① 英国は良質なファンタジーを継続的に生み出す国
抽象化② ファンタジーによってリアリティーとのバランスが成立している
抽象化③ 何か極端なものがある場合、背後には真逆の極端なものがある
構造化① たとえば中国における孔子的思想と、その真逆の韓非子的思想の両立
(p.154)

これがどのようなビジネスのヒントになるのかは謎だけど、逆に何にでも役立つような気もしてくる。このような発想の流れがあるというのがポイントなのだろう。ここで重要なのは間違いなく、メモを取ることよりも、このような流れの考え方ができるかどうかだろう。

私だってメモは取りまくるので、いろんなメモがある。例えばこんなのがあった。

お正月に(風邪を)移そう、フジカラー?

今年の1月6日に書いたらしいのだが、ここからどのように発想を抽象化すればビジネスに活かせるのか微塵も想像できない。

こんなのもある。次のは疑問だけメモったもので、

「新幹線のキレツ  あと3cmはどの位持つのか  そもそも、このヒビはいつから?  なぜ異臭が?」

昨年12月に新幹線が台車に亀裂が入ったまま走ってしまったというニュースがあったときのメモ、だと思うが、このメモを見て明らかに分かるのは、亀裂という漢字がちゃんと書けないということだけだ。

いずれにしても、注目したいのはやはり抽象化である。オブジェクト指向には慣れているので抽象クラスを作るのは得意だが、何にせよ抽象化すればよく見えてくるものかというと、そうでもないから怖い。とはいえ、抽象化しておかないと、一つのアイデアを多々なケースに適用することはできない。

そういえば、この本のキーワードは知的戦闘力だった。

そもそも「知的戦闘力が上がる」というのは、どういうことなのでしょうか? 一言でいえば「意思決定の質が上がる」ということです。
(p.167)

ざっくりいえば正しい方向の判断力のことだろう。正誤では評価できない問題もあるから「正しい」には語弊があるかもしれないが。FAQの「なぜ勉強するの?」という問いに対する回答として「正しく判断できる人間になるため」というのは説得力があると思う。そのためにも、

学んだ知識を抽象化し、その知識を文脈から切り離しても成立する「公理系」に仕立てる必要がある
(p.168)

ということになる。判断するためには、それを適用するパターンが必要なのである。

しかし、今の学校教育は、知識をそのままインプットすることに終始し、抽象化したり、そこから別の世界の判断に使うような方向の訓練は、あまりしていないのではないか。だから「学校で勉強したことは社会に出たら役に立たない」というような意見が出てくるのだ。

知識を抽象化するための、少し抽象的なメソッドも紹介されている。次の質問について答えるのがいい。

①得られた知識は何か?
②その知識の何が面白いのか?
③その知識を他の分野に当てはめるとしたら、どのような示唆や洞察があるか?
(p.174)

面白いのか、という問い掛けに注目したい。面白くない知識は面白くない。そのような出発点から知識を役立てるのは難しいような気がする。

第四章は「創造性を高める知的生産システム」。抽象化されたタイトルが流石だが、これではどのように使えるノウハウなのかよく分からない。そこでまた事例が出てくる。企業のトップがコンプライアンス違反をしたという案件に対して、

過去の長い歴史を振り返ったとき、人類が「権力者の暴走をいかにして防止するか」という論点についてどのような取り組みをしてきたかを振り返り、そこから示唆を得る
(p.183)

このようなアプローチを取ることにしたという。物凄く遠いところにヒントを得ようとしているような気もするが、過去の事例として歴史を参考にするのは常套手段だ。

次に出てくるキーワードが「常識の相対化」だ。クレイトン・クリステンセンの言葉を引いて、イノベーターの共通する特徴を、

誰もが当たり前だと思っていることについて「Why?」を投げかけることができる
(p.187)

と紹介している。ジョブズもそうだよねという話も出てくる。そのココロはというと、

「見送っていい常識」と「疑うべき常識」」を見極める選球眼を持つ
(p.188)

このように解いている。そのためには厚いストックが必要だというのだが、個人的にはちょっとここに違和感がある。というのは、Why という裏には必ずロジックがあると思うからだ。「何故」を知ることは、論理的な結合を理解したい、合理的説明を知りたいというところから来ているのではないか。理というのは最も重要な要素である。どんな抽象パターンであれ、理に適ってなければ当てはめたところで正しい Answer は出てこないだろう。常識は一般的には合理的と考えられているが、非常識な常識だってたくさんあるのだ。

(つづく)


知的戦闘力を高める 独学の技法
山口 周 著
ダイヤモンド社
ISBN: 978-4478103395

君たちはどう生きるか (2)

昨日の続きで、君たちはどう生きるか。3章(?)は「ニュートンの林檎と粉ミルク」という奇妙なタイトルが付いている。この部分、解説では「資本論入門」と指摘している。子供でも分かる資本論である。

そこはさておき、ニュートンの話。ニュートンが林檎が落ちるのを見て引力を発見したとか、それは創作だとか、いろんな話もあるようだが、ニュートンの面白いところに目をつけている。

ニュートンが偉かったのは、ただ、重力と引力が同じものじゃないかと、考えついたというだけじゃあない。その思いつきからはじまって、非常な苦心と努力とによって、実際にそれを確かめたというところにあるんだ。
(p.81)

林檎が落ちるところなんて、見た人が大勢いそうなものだが、そこから引力という発想に結びつけるという所が尋常ではない。というのが世間一般の解釈だと思うのだが、この本ではソコじゃなくて、その思いつきを検証する行為が凄いのだと主張している。確かにそうだ。憶測だけで「忖度」だとか「指示したに違いない」とか主張している人たちにはこの本を読んでもらいたいものだ。

当たり前というのが一番難しい、ということにも触れている。経験を積むことで、いろんなことにうまく対応できるようになるが、それは先入観で判断する場面が増えるということでもある。考えずに何でもできるのはいいことかもしれないが、真実を重視するつもりなら、一度はよく考えてみるべきなのだ。

だからねえ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。
(pp.81-82)

受験生が勉強するときに、まず基礎を固めて、それから応用問題を解こうとする。方向としてはそんなに間違っていないように見えるかもしれないが、実は、基礎というのは一番難しいのである。応用なら公式や原理を組み合わせたら何か出てくる。じゃあその原理はなぜ成り立つのかといわれると困るのである。

(つづく)

 君たちはどう生きるか
吉野 源三郎 著
岩波文庫
ISBN: 978-4003315811

君たちはどう生きるか

猛烈な今更感があるのだが、コミック化されてベストセラーになった「君たちはどう生きるか」。岩波文庫を読んでみた。この本は、

一九三七年七月に出てから、さいわいに何度か版を重ねました。しかし、太平洋戦争がはじまってからは、この本ですら刊行ができなくなりました。
(p.304、作品について)

といった歴史ある本である。文体も古風で、引用するときに、変換に多少苦労した。

十五歳のコペル君が主人公。話はこのコペル君と叔父さんとの対話という形式で進んでいく。内容は哲学的、道徳的だ。まずは自我と向き合うというところから始まる。

コペル君は妙な気持でした。見ている自分、見られている自分、それに気がついている自分、自分で自分を遠く眺めている自分、いろいろな自分が、コペル君の心の中で重なりあって、コペル君は、ふうっと目まいに似たものを感じました。
(p.19)

サカナクションさんのエンドレスという歌に「耳を塞いでいる僕がいる それなのになぜか声がする」という歌詞が出てくるが、あたかも幽体離脱したように自分自身を見つめるというのは客観視とはまた違った視点からの自己批判といえるだろう。

自分がRPGのキャラクターのように意図的に作られた世界の中で踊らされているのではないかと思うことも、誰だって一度はありそうなものだ。客観視というと福田首相が辞任するときの言葉が有名だが、自分を客観視することはなかなか難しい。大抵の人はそれができないという。

こういう自己中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
(p.26)

本の中では、子供の視点は天動説で大人になると地動説、というアナロジーが出てくる。ところで、あなたは普段、歩いているとき、どのように感じているだろうか。ヘンな質問だが、A地点からB地点に移動するときに、あなたはA地点からB地点まで歩いていると感じているのだろうか。こんな質問をするのは、私はそうではなく、B地点が私に近づいてくるような感覚で歩くことがあるからである。地球というボールの上で玉乗りをしていて、足を動かすと地球が回転すると言えばわかるだろうか。Google Maps で現在地を中心に表示すれば、地図全体が移動してくれる、あの感覚である。これは意図的に歩けば誰でもそう感じることができると思うので、未体験の人はやってみると面白いかもしれない。地球というタマに乗る感覚だ。

話を戻すと、叔父さんの説では、殆どの人は子供の頃の自己中心的な視点から完全に抜け出すことができない、としている。言い換えれば、

自分に都合のよいことだけを見てゆこうとする
(p.26)

ということだ。その結果、真実を見落としてしまう、それが怖いということを伝えようとしているのだ。

コペル君の友達が何人か出てくる。北見君は、一見自己中心的である。

「誰がなんていったって、僕はいやだ。」
(p.30)

不協和音。しかし、北見君がいやだというには理由がちゃんとある。我侭で言っているわけではないのだ。

性格的に正反対な友人として描かれているのが浦川君。浦川君はイジられキャラである。しかし反抗しないで諦めている。それは、単純な諦めではない。

さびしがったり、くやしがったり、怒ったりすればするほど、悪太郎連中の悪いいたずらがはげしくなると知ってからは、なるべく相手にならないように努めている様子でした。
(p.38)

ある意味、行動の最適化だといえる。被害を最小限にするための選択なのだ。当然、いじめがエスカレートするが、浦川君は気にしない。気にしないというのは案外重要なスキルなのかもしれない。

結局、感情は自分で体得するしかない。本を読んだり他人に教えてもらったのでは理解できない、という話が出てくる。

君自身が生きて見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。
(p.53)

油揚げ事件というのが起こる。このときに、人間として立派であるとは何なのか、それを魂で知ることが重要だという。魂といわれると難しくなるが、それは正しいことを正しいと自分の感情で判断できるということ。

そうでないと、僕やお母さんが君に立派な人になってもらいたいと望み、君もそうなりたいと考えながら、君はただ「立派そうに見える人」になるばかりで、ほんとうに「立派な人」にはなれないでしまうだろう。
(p.56)

ではその感情とは何だろう、という重大なテーマに関してはあまりこの本には出てこない。

(つづく)


君たちはどう生きるか
吉野 源三郎 著
岩波文庫
ISBN: 978-4003315811