Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

君たちはどう生きるか

猛烈な今更感があるのだが、コミック化されてベストセラーになった「君たちはどう生きるか」。岩波文庫を読んでみた。この本は、

一九三七年七月に出てから、さいわいに何度か版を重ねました。しかし、太平洋戦争がはじまってからは、この本ですら刊行ができなくなりました。
(p.304、作品について)

といった歴史ある本である。文体も古風で、引用するときに、変換に多少苦労した。

十五歳のコペル君が主人公。話はこのコペル君と叔父さんとの対話という形式で進んでいく。内容は哲学的、道徳的だ。まずは自我と向き合うというところから始まる。

コペル君は妙な気持でした。見ている自分、見られている自分、それに気がついている自分、自分で自分を遠く眺めている自分、いろいろな自分が、コペル君の心の中で重なりあって、コペル君は、ふうっと目まいに似たものを感じました。
(p.19)

サカナクションさんのエンドレスという歌に「耳を塞いでいる僕がいる それなのになぜか声がする」という歌詞が出てくるが、あたかも幽体離脱したように自分自身を見つめるというのは客観視とはまた違った視点からの自己批判といえるだろう。

自分がRPGのキャラクターのように意図的に作られた世界の中で踊らされているのではないかと思うことも、誰だって一度はありそうなものだ。客観視というと福田首相が辞任するときの言葉が有名だが、自分を客観視することはなかなか難しい。大抵の人はそれができないという。

こういう自己中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
(p.26)

本の中では、子供の視点は天動説で大人になると地動説、というアナロジーが出てくる。ところで、あなたは普段、歩いているとき、どのように感じているだろうか。ヘンな質問だが、A地点からB地点に移動するときに、あなたはA地点からB地点まで歩いていると感じているのだろうか。こんな質問をするのは、私はそうではなく、B地点が私に近づいてくるような感覚で歩くことがあるからである。地球というボールの上で玉乗りをしていて、足を動かすと地球が回転すると言えばわかるだろうか。Google Maps で現在地を中心に表示すれば、地図全体が移動してくれる、あの感覚である。これは意図的に歩けば誰でもそう感じることができると思うので、未体験の人はやってみると面白いかもしれない。地球というタマに乗る感覚だ。

話を戻すと、叔父さんの説では、殆どの人は子供の頃の自己中心的な視点から完全に抜け出すことができない、としている。言い換えれば、

自分に都合のよいことだけを見てゆこうとする
(p.26)

ということだ。その結果、真実を見落としてしまう、それが怖いということを伝えようとしているのだ。

コペル君の友達が何人か出てくる。北見君は、一見自己中心的である。

「誰がなんていったって、僕はいやだ。」
(p.30)

不協和音。しかし、北見君がいやだというには理由がちゃんとある。我侭で言っているわけではないのだ。

性格的に正反対な友人として描かれているのが浦川君。浦川君はイジられキャラである。しかし反抗しないで諦めている。それは、単純な諦めではない。

さびしがったり、くやしがったり、怒ったりすればするほど、悪太郎連中の悪いいたずらがはげしくなると知ってからは、なるべく相手にならないように努めている様子でした。
(p.38)

ある意味、行動の最適化だといえる。被害を最小限にするための選択なのだ。当然、いじめがエスカレートするが、浦川君は気にしない。気にしないというのは案外重要なスキルなのかもしれない。

結局、感情は自分で体得するしかない。本を読んだり他人に教えてもらったのでは理解できない、という話が出てくる。

君自身が生きて見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。
(p.53)

油揚げ事件というのが起こる。このときに、人間として立派であるとは何なのか、それを魂で知ることが重要だという。魂といわれると難しくなるが、それは正しいことを正しいと自分の感情で判断できるということ。

そうでないと、僕やお母さんが君に立派な人になってもらいたいと望み、君もそうなりたいと考えながら、君はただ「立派そうに見える人」になるばかりで、ほんとうに「立派な人」にはなれないでしまうだろう。
(p.56)

ではその感情とは何だろう、という重大なテーマに関してはあまりこの本には出てこない。

(つづく)


君たちはどう生きるか
吉野 源三郎 著
岩波文庫
ISBN: 978-4003315811