主人公で神様の公輝はコミュニケーション能力に問題がありますが、セリフがいろいろ卓越しています。上巻にも出てきますが、公輝は自分の書いた小説を読んだ人達が集団自殺したという話を聞いて、記者達に次のようにコメントをします。
自分の書いたものがそこまで一人の人間に影響を与えたことを、ある意味では光栄に思う。それは小説が現実に勝った瞬間なのだと言い換えることもできるかもしれないし、だとしたら作家冥利に尽きる。
(p.374)
ズレているのか正直なのか。しかし、こういう思想がないと小説は書けないのかもしれません。
怒りのモチベーションって、それだけでは案外、長く保たないものなんですよ。
(p.278)
公輝は集団自殺事件の後、小説を書かなくなってしまうのですが、その時に感じていた怒りとか諦めのようなものが何だったのか。かなり謎です。怒りはすぐに消えてしまったのかもしれません。「怒」がモチベーションになっているといえば、「火の鳥」の鳳凰編を思い出します。
公輝は他人の作ったものは食べられないのですが、食に関して。
環の話に出てくる登場人物は、たとえどんなにつらい時でもきちんとご飯を食べますね。
(p.84)
このような伏線が後でじわじわと効いてきます。
登場人物は、いろんな人がそれぞれ猛烈に個性的で、スロウハイツのようなコミュニティが実在し得るのだろうか、という疑問も感じますが、実際の世の中はかえってそういうものかもしれません。まあ小説なのでどうでもいいのですが。ただ、この小説を読んでみて、一つだけ興覚めしたのは、加々美莉々亜です。個性的というか、わざとらしさは秀逸ですが、要するに途中で分かってしまったのです。
ミステリー的な小説の途中で犯人が分かるのは、読者としては普通は面白いことかもしれませんが、いくら何でも凡庸すぎるだろ、というのが率直な感想です。クラスメートが云々の所まで予想通りでした。
そこで終わっていたらこの作品は見捨てていたかもしれないのですが、この小説のいい所は最終章の「二十代の千代田公輝は死にたかった」です。ここは猛烈に素晴らしいです。何度も読み返しました。何ならここだけでもいい(笑)位いいです。
さて、文庫本下巻の解説は西尾維新さんが書いているのですが、作品はそれを読んだ人の人生を決定する重要なモノなのだと力説した後に、
そこまで人間社会に不可欠な要素であるところの『作品』の作り手である作者――作家は果たしてどうかと言えば、これは前述の通り、とても残念なパーソナリティであることが多いのが実情だ。誤解を恐れずに言えば、作家とは社会不適合者の別名である。
(p.481)
「かくしごと」とか観てると確かにそんな感じもしてきますが…
西尾さんはこの小説の登場人物も含めて「作家」を「どうしようもなく人間だから」と評しているのですが、私の感覚だとこの小説に出てくるような人達は怪異にしか見えません。あるいは神様。