今日も「贅沢貧乏」を紹介していきます。贅沢貧乏といえば、私は昔からティッシュはクリネックスと決めています。他のティッシュに比べるとちょっと高めの価格設定なのですが、これが密かな贅沢なのです。ところが最近のコロナ騒ぎで店頭から消えてしまった。困ったものですね。
今日は収録作「マリアはマリア」から紹介します。何そのトートロジーといわれそうですが、マリアという名前にはいろんな深い意味があるので考えすぎてしまいます。いきなりですが。
鷗石の「猫」。
(p.119)
鷗石って誰、ってアレですよね。猫は吾輩。
「猫」は全部愉快極まるが、マリアが特によろこぶのは終りの方の、なかなかヴァイオリンを買うところまで話が進行しなくて、いつまでも干柿が障子に映っていて、時々それをたべる。
(p.119)
ヴァイオリンの話なんて覚えてないですけど、ココのようですね。
「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端に吊るした奴をみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果しがない」
「話す私も飽き飽きします」
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就するよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱し切れなくなったと見える。
(吾輩は猫である、夏目漱石著、青空文庫)
「マリアとマリア」ではこの後に「冷凍人間のような恋人たち」という表現が出てくるのですが、冷凍人間って何かというと、
彼らは喫茶店で相手をじっと見つめたまま、又は煙草を指で摘んだまま、足を洒落た格好に組み合わせたまま、こちこちに固まる。
(p.119)
なるほどね。当時も冷凍食品ってあったのかな、そんな感じで。
本のタイトル作品「贅沢貧乏」でも、色とガラスにやたら拘る描写が満載なのですが、硝子に対する拘りは次のような説明が出てきます。
マリアは硝子に対して、一種の自己愛を感ずる。一種の精神的レスビアニズムのようなものを、感ずる。マリアの内部の硝子体と、本ものの硝子との間で、何かが呼び合うのである。秘密な眼ざしを交して、密かに悪魔の笑いを笑い合う。
(p.133)
マリアってどちらかというと天使側なのですが、この後に何故悪魔なのか分からないと書かれています。本人に言われても困ります。
途中、恋愛三昧という小説の話が出てきます。この小説はシュニッツレルの作品で、マリアのロマン小説の目標の一つなのだそうですが、岩波文庫から森鴎外さん翻訳のものが出ていますから、それを読んだのでしょうか。どんな小説かというと。
「恋愛三昧」というのは、恋愛三昧に日を送る二人の竜騎兵の一人に、美しい少女と凄い奥さんが絡む話である。
(p.138-139)
要約が絶妙ですね。私の要約力だと「走れメロス」を「メロスが走る話」と要約するのが限界なのです。
もう一作行こうかと思ったけど長くなりそうなのでここで一旦切ります。
(つづく)
贅沢貧乏
森 茉莉 著
講談社文芸文庫
ISBN: 978-4061961845