Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

烈火の剣-はぐれ長屋の用心棒(29)

今日は、はぐれ長屋シリーズに戻って「烈火の剣」です。第29話です。

今回のゲストは山本という浪人と倅の松之助。ゲストといっても、半年前から長屋に暮らしています。オープニングで菅井と将棋を打っていますが、将棋も強いし、学があって。長屋の子供に読み書きを教えたりしています。

この山本と松之助が三人の武士に襲われているところを、源九郎と菅井が駆け付けます。危機一髪、二人を助けて、何で襲われたのか訊いてみると、何かモゴモゴ感がある。何か隠しているな、ということで適当に済ませておいたら、大名家の家臣っぽい武士が山本のところにやって来て、

これからもおふたりに山本父子の力になってもらいたい
(p.38)

とかいう例のパターンです。実は父子といっているが、父子ではなく伯父と子。松之助の実父は殺されていて、その敵討ちで江戸に出てきたというのです。

何か情報不足でヤバそうな感じだけど、礼金として百両出されると仕方ないです。今回の敵は柿崎藩の藩士で、富樫流を遣います。

数十年前、富樫八兵衛なる廻国修行の兵法者が柿崎藩の領内に立ち寄り、山間に住む郷土や猟師の子弟などに、剣の手解きをしたという。その後、富樫は領内の双子山と呼ばれる竣峰の中腹にある洞窟に籠って剣の工夫をして精妙を得、…
(p.63)

何か噺家の話みたいですが。源九郎達は相手の一人を捕縛して尋問することにします。そこに踏み込んだら余計な強敵がいた。これが大内。流派を聞いたら、

「富樫流だ! おれの遣う鎧斬り、受けてみよ!」
(p.92)

鎧斬りとは豪快なネーミングですが、受けて見よと豪語するような必殺技をマトモに受けたらロクなことがない。源九郎は二の太刀を避けるときに受けずに避けます。これが幸いした。

「おれの鎧斬り、よくかわしたな」
(p.94)

余計なこと言ってないでどんどん攻撃したらよさそうなものですが。鎧斬り2とか、鎧斬りfinal みたいなのはないのか。この鎧切りとはどういう技なのか、山本に訊いてみると、知っているという。

特別な技ではなく、立ち合いのおりの心の持ちようをあらわしている
(p.1129

つまり気合ですかね?

とかいってるうちに、松之助が誘拐されてしまいます。人質です。まあ流れ的に、監禁場所に潜入して救出するわけですが、この用心棒達、本気出せば江戸一の盗賊になれるんじゃないか。

最後の敵討ちのシーンも汚いです。大内に挑むのは兄の敵ということで山本。しかし源九郎が見た感じでは勝てそうにないので、横から大内にちょっかいをかけます。まず、源九郎は、

足裏で地面を摺り、ズッ、ズッ、と音をさせながら大内の右手から間合いをつめ始めた。すると、大内の気が乱れた。
(p.263)

どっちが先に斬り込んでくるか分かりませんからね。大内がチラ見したときに山本が斬り込みます。ズルい。そして二人は一合しますが、お互い届かない。大内は次は速く仕掛けてくる。これを見た源九郎は今度は大内に近づいて、踏み込んで、袈裟懸けに斬り込む。

斬り込まれたら流石に受けないと斬られてしまいます。そっちを向いて受けるしかないのですが、それを見た山本が大内の背中に斬り込む。源九郎はわざと届かない間合いから刀を振ったのです。

やり方が汚いですよね。(笑)

「お、おのれ!」
大内は怒りに顔をゆがめて叫んだ。
(p.267)

これで大内の負けです。剣の勝負は、平常心を失った方が必ず負けるのです。ていうかこんな結末でいいのか。


烈火の剣-はぐれ長屋の用心棒(29)
双葉文庫
鳥羽 亮 著
ISBN: 978-4575666434

藤原道長の日常生活

御堂関白記」という日記があります。藤原道長の日記とされ、現存する世界最古の直筆日記とされています。中国とかエジプトのような古代国家も日記を書いた人がいそうなものですが、直筆でしかも残っているというのは珍しいのでしょう。しかも、この日記も廃棄しろという指示があったようです。誰かが指示を無視してモッタイナイと思って捨てずに取っておいたのでしょう。

この保谷は、この日記に書かれた記述を元に、当時の生活がどうであったかを紹介する本です。

道長は翌寛弘四年、金峯山詣を決行する。これが功を奏したのか、この年の十二月頃、彰子はついに懐妊した。
(p.14)

高野山と金峯山は道長が詣でたのが先例となって、この後の権力者も続々と詣でるようになっています。彰子は道長の長女で、一条天皇に入内させているので、子は天皇となるわけです。権力を握る鍵になるわけですね。

当時の政治がどういうものだったかというと、先例主義というのが有名です。

当時は儀式を先例通りに執りおこなうことが最大の政治の眼目とされていたし、政務の内でもっとも重要とされた陣定(近衛陣座でおこなわれた公卿会議)は審議機関ではなく、議決権や決定権を持たなかった。
(p.47)

改革ではなく伝統を守ることが優先されたわけです。ただ、その伝統というのがよく分からないことが多くて、先例がどうなのか分からなくてアタフタ、のようなことがよくあったようです。誰かが前回のやり方をメモっていたら、それが前例として採用されていたとか。

当時の政治は意外と激務だったらしく、しかも、

栄養の偏り、大酒、運動不足、睡眠不足など不健康な生活を送っていた平安貴族は、病気に罹ることも多かった。
(p.245)

道長は糖尿病になった気配があるそうです。

道長の弁によると、「三月から頻りに水を飲む。特に最近は昼夜、多く飲む。口が乾いて力が無い。但し食事は通例から減らない」ということであった(『小右記』)。
(p.249)

貴族は美食だったのですかね。ダイエットという概念はなかったでしょう。ライザップもないし。病気になったら薬はあったのですが、例えば紅雪という万能薬があったようです。

紅雪は、芒硝(含水硫酸マグネシウム)に羚羊角屑・黄芩・升麻・芍薬・檳榔・枳殻・甘草などの草木や朱砂・麝香を加えたもの。一切の丹石による発熱、脚気、風毒、顔や目のむくみ、熱風、消化不良、嘔吐、胸腹部の脹満などに効能を持つとされ(『医心方』)、万能薬として使用された薬であった。
(p.254)

さぞかし高かったことでしょう。漢字を入力するのが大変でした(笑)。


藤原道長の日常生活
倉本 一宏 著
講談社現代新書
ISBN: 978-4062881968

娘連れの武士-はぐれ長屋の用心棒(31)

今日は長屋シリーズに戻って、「娘連れの武士」、これは31話です。いつものように菅井が居合の芸をしていると、

ひとりの女児が三方に走り寄り、いきなり竹片をつかむと、
エイッ!
と声を上げ、菅井に投げつけた。
(p.14)

これが菅井に当たってしまうのです。.笑。どっとわらいですね。修行が足りないぞ。しかもこの女児、「お父上」とか言い出す。誰?

女児の名前は、おふく。これが家も分からないというので要するに迷子です。菅井と一緒に行くといって泣き出すので、この場面は菅井の負けです。長屋に連れて行きます。おふくは叔父上と一緒に来たというが、親の名前も叔父上の名前も全部謎。しかし長屋の連中はこういうのはプロなので、すぐに叔父上を見つけて連れてきます。

それがし、寺井戸半助ともうす。ふくの伯父でござる。
(p.32)

老人が現われた!

源九郎の見立てによれば、剣の腕もなかなかのジジイです。しかし、寺井戸にも、ふくの親の名前は言えないのだという。これでは何も進んでいない。しかも、寺井戸と、ふく。しばらく長屋に住まわせてくれという。何か分からんがそうなったところで死体が発見されます。

源九郎と寺井戸が死体を見に行くと、死体は寺井戸の知人でした。名前は平松、横沢藩の藩士だということで、町方は手を引くことなります。当時は、町人の事件は町方が担当し、武士のいざこざは藩が始末をつけることになっていたようです。

さて、ふくの命も狙われているということで、長屋の用心棒達に、寺井戸が正式に護衛を依頼します。三十両。金が動けば用心棒も動きます。命を狙っているのは誰かを探ることになりますが、これはまあ簡単なことで、勝手に相手がおふくを探しに来るから、その後をつけてやればいい。のではありますが、相手が5人で襲ってきた! (笑)

5人といっても武士は3人なので、源九郎と菅井、そして実は割と強い寺井戸が相手をします。しかし寺井戸の相手は馬淵新兵衛。今回のラスボス、一刀流の達人で強敵です。これに対して源九郎の相手は割と雑魚。菅井の相手は居合で斬られて左腕がほぼ切断されてしまって逃げる。馬淵も仕方ないのでここは逃げるしかありません。寺井戸は肩を斬られたが浅手です。

それにしても、華町どのも、菅井どのも見事な腕だな
(p.97)

そういう小説ですからね。寺井戸も超強いんですけどね。

とかいってる間にふくの母親も命を狙われていて危ないから何とかしてくれ、という話になってしまう。一緒に護衛した方がいいということで、長屋に母親のおせんがやってきます。こうなると相手も総攻撃してくるのでは。策がないと危ない。いつものパターンで、タスクを1つずつ片付けていく作戦に出ます。軍資金が百両追加されたので工作も気合が入ってくる。

まず与野吉という下っ端を拉致して吐かせるのですが、こいつがベラベラと結構喋る(笑)。敵メンバーが分かってくるとやりやすい。次は佐野という武士が散歩しているところを拉致すると、これもベラベラと喋る。もう少し骨のある奴はいないのか。

最後は馬淵と寺井戸が再度対決します。ところが、ここに源九郎が近付いた。近付いただけなんですが、最強戦士がやってくるのはやはり気になる。そのスキに寺井戸が遠慮なく攻めたものだから、流石の馬淵もドジを踏んで、最後は右手を斬り落とされてしまい万事休す。情報が欲しいので、源九郎達は馬淵を捕えて血を止めて話を聞きます。寺井戸が話しかけます。

「おぬしが、身につけた一刀流が泣くぞ」
「…これでは、一刀流も遣えん」
(p.245)

片手がないと一刀流どころか一腕流だし。馬淵は知っていることを話した後、切腹するから介錯してくれと寺井戸に頼み、寺井戸はこれを承知します。切腹シーンを見ていたパシリの猪七は、お前も切腹するかと言われたりすると、もうビビって何でも話してしまうわけです。


娘連れの武士-はぐれ長屋の用心棒(31)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575666786

天使になりたかった少女

ジュニア小説です。主人公は15歳の少女、マーシーマーシーは拒食症です。なぜ食べないかというと、天使だから食べなくても大丈夫だと思っているのです。治療センターに入りますが、中にいる人達がまた凄いのです。マーシーは自分が病気だとは思っていないので、他の人達が辛そうだと言うのですが、

「自分で解決できないのなら、それは本人の責任よ」
(p.88)

こう言ったのはスージーQと呼ばれている少女。結構キツい一言ですが、スージーQは話の途中で倒れてしまいます。かなり痩せている感じですね。こんなことも言います。

トワイライトゾーン』にこんな話があったでしょ。ブスっていわれている女の子に美容整形の手術をして、ほかのみんなと同じにしようとするの。でも、けっきょく、実はほかのみんながすごいブスで、その女の子がきれいだってことがわかる。あたしたちは、その女の子なのよ」
(p.92)

自分を中心に物事を考えるというのは誰にでもあることですが、どちらが正しいか本当に分からないことも世の中にはありますからね。最近のミスコンは体重制限があったのでしたっけ。痩せすぎているとアウトとか。

回想的に出てくるドティおばあちゃんのこの言葉も深いです。

人間って、飢えているときや、生きるために戦っているとき、とんでもないことをしでかす
(p.115)

おばあちゃんは戦争中にナチス強制収容所に入れれらていたという経歴があるのです。

マントラを唱えるレニー叔母さんというのも面白い。

「オム・タラ・トゥ・タレ・ウゥレ・ソハー。〝この世の叫びに耳をかたむける存在〟といわれる、タラ菩薩にささげるお経なの」
(p130)

多羅菩薩ですが、 Wikipedia には「観音菩薩が「自分がいくら修行しても、衆生は苦しみから逃れられない」と悲しんで流した二粒の涙から生まれた」と書いてあります。白ターラ様と緑ターラ様がいらっしゃるそうです。私は最近なぜか地蔵菩薩様にお祈りしているのですが。

マーシーは第4章で記憶喪失になってしまいます。気が付いたら知らないところにいて、ここはどこ、私は誰…という状態なのですが、そこで出合ったカールにこんなことを言われます。

「たぶん、きみはめまいのかわりに記憶喪失になったんだよ――ほら、こんな世の中だもの――だからきみも悪化したほうがいい。もっと忘れっぽくなれ。覚えていようとしちゃだめだ」
(p.162)

世の中には忘れたいことが山盛りなんですよね。カールも結構面白いキャラですが、こんなこともしています。

「俺はレッド・ツェッペリンに関するプロジェクトに取り組んでいるんだ。人生における疑問はすべて、レッド・ツェッペリンの歌のなかに答えがあるって信念のもとにね。」
(p.179)

ツェッペリンには女性メンバーがいなかったので、かなり制限されるような気がしますけどね。


天使になりたかった少女
キム アンティオー 著
Kim Antieau 原著
田栗 美奈子 翻訳
主婦の友社
ISBN: 978-4072516249

iレイチェル: The After Wife

この本はタイトルがよくない。こんなタイトルだと、タイトルを見た瞬間にシナリオが想像できてしまう。私はこのタイトルを見た時点で、この小説がレイチェルという人をコピーしたAIを作る話だということを一瞬で想像できたし、実際そういう話だった。

もっとも、iレイチェルというのは出てくるアンドロイドの名前だ。説明するまでもないが。なので、仕方ないといえば仕方ない。

そのロボットは自分のことをそう言ったの。アイ・レイチェルって。〈アイポッド〉とか〈アイフォン〉みたいだよね。
(p.184)

そういう意図でiという文字を先頭に付けたのかもしれないが、「i, Robot」という小説を読んでいるプログラマーはそんなに回りくどい解釈をしなくても、アレかという感じで認識してしまうだろう。アイ・レイチェルのソフトウェアを実装したのはオリジナルのレイチェルという女性で、話が始まったら30ページも進まないうちに死んでしまうのである。

ハードウェアを作ったのはルークというエンジニアで、一言でいえばコミュ障だ。エンジニアにはありがちな話だ。エンジニアがコミュ障というのはステレオタイプだという人もいるかもしれないが、私の経験ではソレは現実だ。機械やコンピュータと会話することを日常生活にしすぎて、人間とのコミュニケーション方法を忘れてしまうのだ。このルークの性格は、

自分よりも知的レベルの劣るやつの相手をするのは、時間の無駄以外のなにものでもなかった
(p.148)

という感じなので容易に想像できるだろう。ルークはアイ・レイチェルの共同開発者だから、全篇にわたって出てくるキーマンである。このルークと共有感覚が持てるかどうかというのが小説にハマれるかどうかのポイントだと思う。

ではレイチェルはどんな「人間」だったかというと、

レイチェルは一を聞いて十を知るタイプだ。何か問題が起きると、あっという間にその問題の細かい部分まで把握し、瞬くうちにありとあらゆる角度から可能性を検討し、充分な裏づけに基づいた決断をたちどころに下してしまう。
(p.157)

一言でいえば天才だ。そして、全てはロジカルに思考する。判断の根拠はフィーリングではなくロジックである。

レイチェルはアイ・レイチェルをケア業界に使おうとしていた。メンタルケアにも対応できる介護ロボットである。なぜそのようなモノを作ろうとしたのかは、レイチェルがアイ・レイチェルにセーブした音声データの中で説明されている。

だって、生身の人間って当てにならないじゃない? 不親切な人もいるし、誠実さに欠ける人もいるもの。でも、この理想のロボットなら裏切られることがない
(p.119)

もちろんレイチェルがそう判断したのはロジカルな根拠があってのことだろうが、ロボットが裏切らないと確信しているというのは大したものである。「I, Robot」に出てくる例を紹介するまでもなく、知性を実装した機械は人間にとって想定外の行動を起こす。想定外といっても、今までの人類の歴史を紐解けば全て想定できそうな行動に限られているのだが、それでも人間は想定しないのだ。私などだと考え方が薄っぺらいから、裏切ることを知っている人間が学習させたAIは裏切る能力を持つだろう、と想定してしまう。まずそこが出発点なのだ。とにかくレイチェル・プロスパー博士は、

あなたの感情表現に反応して、あなたが必要としているものを提供できる、そんなロボットを造りたい
(p.120)

と思ったわけである。

さて、このメッセージをアイ・レイチェルから聞いたのは、レイチェルの夫、エイダンである。エイダンは研究室に行って、妻と全く同じ造形のアンドロイドに対面してそれを聞いたのだ。エイダンはフットホールドというところで労働者支援の仕事をしている。

ストーリーは老人問題も背景にしながら進む。エイダンの母親のシネイドは認知症を発症しているのだ。エイデンが母親の家に子供と二人て行ったら食事が4人分用意されている。

「母さん、今日はぼくたちのほかにも誰か来ることなっているの?」

レイチェルが死んだことを忘れているのである。覚えられないのだ。エイダンはその予兆に気付いていたが見て見ぬふりをしていた。現実を認識するというのは怖いことだ。シネイドは認知症の進行からボヤ騒ぎを起こして入院してしまい、一人暮らしをさせるのは危険なので、退院するときにエイダンの家に連れて帰ることになる。そこでアイ・レイチェルと出会ったときの第一声がこれだ。

「こんにちは。あなたは看護師さん?」
(p.380)

その後、何の変哲もない普通の会話が続くのだが…

「気づいてないよ」とクロエが囁き声で言った。
「気づいてないって、何に? アイ・レイチェルがロボットだということに? それともレイチェルにそっくりだってことに?」
「どっちにも!」
(p.381)

シネイドは真夜中に起きてきて「このホテルはいや」のようなことを言ったりするのだが、アイ・レイチェルはどのようなことにも最適な行動を取ろうとする。

「これもアルゴリズムですから」
(p.400)

そんな言い方をして話が通じる人間は滅多にいないような気はするが。シネイドがアイ・レイチェルとすごくうまくやっている、というのが面白い。理由もハッキリしていて、

この看護師はいつも落ち着いている。わたしに腹を立てたりもしない。わたしがことばを忘れても、食べ物を残しても、夜中に家の中を歩きまわっても。
(p.435)

しかしシネイドは、アイ・レイチェルが歌を聞いて悲しそうな顔をしていることを不思議だと思う。二人はアイ・レイチェルが不完全な状態であるがゆえに偶然うまく行っているようにも見える。このシーンに出てくる歌は、トーマス・ムーアの The Last Rose of Summer で「夏の名残のバラ」という邦題が付いている。日本では「庭の千草」として知られている。

Charlotte Church さんの歌をリンクしておく。

Charlotte Church - Tis The Last Rose Of Summer (Live From Jerusalem)

最後に、アイ・レイチェルアがした秀逸な質問を一つ宿題にして、今回はおしまい。

「自分が何かをしたいと思っていることは、どうすればわかるのでしょうか?」
(p.281)


iレイチェル: The After Wife
Cass Hunter 原著
キャス ハンター 著
芹澤 恵 翻訳
小学館文庫
ISBN: 978-4094064766

秘剣霞颪ーはぐれ長屋の用心棒(19)

今日は「はぐれ長屋の用心棒」シリーズに戻って「秘剣霞颪」。例によって(笑)、源九郎と菅井が歩いていると、たまたま駕篭が襲われているところに遭遇します。もちろん駕篭に助太刀して賊を撃破。この場は別れますが、後日、長屋に初老の武士がやってくる。名前は倉林、お目付の柏崎藤右衛門の用人とのことですが、この柏崎が先日襲われた駕篭に乗っていたわけです。

実は、柏崎さまは何者かに命を狙われているのだ」
(p.37)

柏崎を護衛して欲しいというのが今回の依頼です。これに源九郎は、

「まさか、御目付さまの命を狙うような者はいまい」
(p.37)

と疑問を投げますが、

「げんに、そこもとたちは、柏崎さまが襲われたのを見ておられよう」
(p.38)

それもそうだし。源九郎は百両でこのミッションを受けます。さてどうしたものかと情報を集めていると、敵に父を斬られたので敵討ちをしたいという若者がやってきます。名前は牧村慶之介。敵というのが、駕篭を襲った奴等なわけですね。慶之介が言うに、

「父は、その男が霞颪(かすみおろし)なる技を遣ったと口にしていました」
(p.56)

でました必殺技! この時点では眉間を割るような技だということしか分かっていません。しかしすぐに、実際に遭遇することになります。

源九郎には武士の刀身が、まったく見えなかった。見えるのは柄頭だけだった。切っ先を後ろにむけ、刀身を水平に寝せているからである。
(p.110)

カムイの得意技に「変移抜刀霞切り」がありますが、これはどちらから刀が出てくるか分からないという技です。刀が見えない系の必殺技に「霞」という名前が付くようです。この時は何とか浅手で済みますが、

「爺さん、なかなかの腕だな。……おれの霞颪をかわすとはな」
(p.112)

ジジイの武士って滅茶苦茶強そうなイメージがあるんですけどね。子連れ狼の柳生烈堂とか。

それはおいといて、長屋の仲間、茂次と三太郎の尾行シーンを見ながら江戸を少し散策してみましょう。

前を行く五人は、行徳河岸から日本橋川沿いの通りへ出た。そこは小網町である。
(p.187)

行徳河岸は東京メトロ行徳駅の近くのようですね。そこから小網町って、結構歩いてません? ここに越野屋という、今回の黒幕の店があることになっています。

前を行くふたりは、入堀にかかる思案橋のたもとで別れた。
(p.188)

思案橋日本橋の近くでしょう。

武士は堀沿いの道をいっとき歩き、親父橋のたもとで右手にまがった。そこは狭い路地で、通り沿いには小体な店や表長屋などが軒をつらねていた。
(p.189)

本吉原のあたりでしょうか。

しばらく歩くと、武士は浜町堀にかかる高砂橋を渡った。
(p.189)

このあたりは人形町交差点より少し北東方面に進んだところだと思います。江戸地図とか欲しいですね。

さて、霞颪を遣う浪人が立川宗十郎であることを突き止めた源九郎は、桑山道場で話を聞いてみようと思い立ちます。道場をノーアポで電撃取材。

「若いころ、蜊河岸に通った華町源九郎でござる」
(p.218)

これで道場主に分かるというのだから結構な有名人ってことですね。道場主とは面識はないのですが。立川はこの道場の出で、破門されていることが分かります。

「華町どの、立川を討つつもりなのか」
桑山が源九郎に目をむけて訊いた。
「そのつもりでいる」
「立川は、悪人だが並の遣い手ではないぞ。やつは、剣鬼だ」
 桑山の双眸が強いひかりを帯びていた。苦悶の表情が消え、剣客らしい面貌にかわっている。桑山も、剣一筋に生きてきた男なのだ。
「承知している。霞颪と称する剣を遣うこともな」
(p.223)

プロはプロを知るといいます。


秘剣霞颪ーはぐれ長屋の用心棒(19)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575664560

ランキングのカラクリ

そういえば、今月はなぜ毎日一冊ずつ紹介しているのでしょうね? 先月は毎日紹介するという目標を立てたのですが、今月は別に「雑記」でも構わないのですが。3週間続けたら習慣になってしまうというアレでしょうか。

惰性的に今日も紹介します。今日は長屋シリーズではなく「ランキングのカラクリ」。統計的なトリックについて解説している本です。いろんなランキングが紹介されていますが、中でも、

本書で挙げた例だとたえば、「大学ランキング」なるものは悪質なものが目立つ。
(p.9)

というのは実感としてありますね。そもそも大学の「総合的評価」というのが訳が分からないです。総合的にこっちの大学が上って何、みたいな。

大学ランキングの評価に使う指標の中に「図書館充実度」というのがありますが、

ただし「図書館充実度」の注にあるように、単なる冊数を競っても意味は少ない。
(p.169)

どんな本があるのか分からないから、とのことですが、同感ですね。ただ、それ以外の要素として、快適さなどが重要という主張のようですが、個人的には Wi-Fi やコンセントが使えるとか、書庫にある本の引き出しやすさ、みたいなのも評価して欲しいです。最近だと書籍が電子化されているかというのも重要だと思います。電子化されていないと同時に読める人数がどうしても制限されてしまうからです。なかなか返さない人っていますよね。私のことか。

就職に関する評価では、

(2-1)は「就職者数÷(卒業者数 - 大学院進学者数)×100」という数値を使うそうであるが、一般には「卒業生の中の就職希望者のうち何%が就職したのか」という数字の方がポピュラーである。
(p.172)

(2-1) というのは気にしないでください。就職希望者という概念は正確に把握し辛いような気がします。就職したいけど、希望のところは無理そうだからしない、というのは希望者なのかそうでないのか、というような問題が発生するからです。また、実就職率というのは、一般に、就職率(就職者数 ÷ 卒業者数)で比較すると大学院に進学する学生が多い大学の就職率が低くなってしまう傾向があるため使われるようになったと思われます。東大だと就職率0%の学科が結構ありますよね。全員大学院に進むとそのような数字になります。

就職率に関しては、こんな話も出てくるのですが、

「2017年における、私立大学の就職率は97%でした」、この記事を見たとき、筆者は「えっ」と思った。一応中堅の大学の中で、ウチの大学は就職率の良い大学として知られていたが、それでも96%程度だったからである。
(p.75)

個人的には、97%も96%も変わらんような気もしますが。

ちなみに、こんな話も。

使っている税金の額で言えば、国立大は学生1人あたり約220万円、私立大は約15万円
(p.174)

平均の数字が出てきたときは注意が必要、ということはこの本の最初に注意喚起されているので問題ないでしょう。もちろん学生1人に対して220万円が使われるわけではありません。

面白いと思ったエピソードは、偏差値操作【違】の話。

模擬試験の日、筆者は同クラスの皆に父が経営する大学(大阪商業大学)を第2志望か第3志望に書くよう呼びかけてみた。おもしろがったクラスの半数ほどが実際に書いてくれたのであるが、この他愛ないイタズラによって恐ろしいことが起こった。なんと大坂商業大学の偏差値(難易度)が10ポイント以上上昇したのだ(恐るべしN高校生!)。
(pp.46-47)

そういえば、デジタルハリウッド大学は、国立一本で東大勝負のような人が私立は受けないのですが、空欄にするのもアレなので名前が印象的なこの大学をとりあえず書いてしまって、結果的に偏差値が上がることがあるそうですが…

ちなみに、私の高校は、ラジオのリクエスト番組に組織票を送って、校歌をランキング1位にしたことがあります。

ところで、GIGOという言葉はご存知でしたか?

アメリカに〝GIGO〟という略語があり、これは〝Garbage In, Garbage Out(ゴミが中に入ると、ゴミが出てくる)〟の略であるが、ゴミのような元データを入力すれば、出てくる結果は(どんなに情報機器が進歩しても)ゴミでしかあり得ないことを表す。
(p.67)

この解説はトンカツ弁当の話のところに出てくるのですが、とんかつ弁当はいいですよね【なにが】。

 

ランキングのカラク
谷岡 一郎 著
自由国民社
ISBN: 978-4426125356