Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

雑記

今日は「菊と刀」を読んでいたのですが、そろそろ力尽きそうな気がしてきました。今まで読んだ範囲で一番違和感があったのが「義理」です。義理の解釈がどうもズレているような気がするわけです。

というのはおいといて、余談ですが、7月30日に「ナマクラ刀」の元ネタが見つかったら報告すると書きました。発見したので報告します。

そもそもはその前日、29日に「ナマクラ刀のごとく猛烈にキレ味がよくて面白い」と書いたのが発端です。さらに話を逸らすと「キレ」と書いているのはよく切れるという意味どブチキレているという意味をかけています。

そこでナマクラ刀というのは切れないのでは、という指摘なのですが、

『地金ばかりの
ナマクラ包丁だった……
ナマクラは
すぐに切れなく
なるくせに

砥石にかけた
ばかりにぁア
おそろしいほどに切れる
オレの手もとが狂ったのは
そのせいだった……』

(料理人②、小島剛夕、原作 昴すまる、中公文庫、p.232)

刀ではないですね、包丁でした。作品中では柾目鍛えということになっています。このセリフは千枚取りの嘉助という包丁人が包丁で人を殺してしまった後で語るシーンに出てきます。

この印象が強くて、ナマクラ刀はよく切れるという謎のイメージが私の頭に定着してしまったのでしょう。

ちなみに、料理人(つくりにん)で一番印象に残っているシーンは、嘉助の鯉の生作りです。包丁人味平に出てくる「骨泳がし」みたいな話です。

ゴーストライター

菊と刀を読まないといけないんですけどね、今日は銀行に行って雨に降られたりで疲れてしまったので別の本を読んでいました。

んなの読む余力があるのかと思われそうですが、このシリーズはつい惰性で読んでしまうのです。今回の舞台は演劇です。つまり、怪しい人達は役者ということで、とても演技が上手です。

演劇は危険な稼業です。セイフティ・ネットはありません。翌月の家賃を払える保証はないのです。正気じゃとてもそんな人生を求めることはできませんよ。
(p.120)

まるでプログラマーの世界ですね。正気じゃダメなところが。てなわけでヘンな人がたくさん出てくるので面白いです。いつものパターンかもしれませんが。

マロリーはハッカーでロジカルな思考にかけては天才、というか機械的な判断ができる人間です。

彼女は数字と相性がよく、他の人間には無作為の番号の羅列にしか見えないものからパターンを見出す。
(p.222)

そういう人間が実在することは否定しませんが、皆さんの身近に誰かいますか? キャロル・オコンネルさんの近くには誰かモデルになった人とかいそうな気もするんですよね。

 

ゴーストライター
キャロル・オコンネル 著
務台 夏子 翻訳
創元推理文庫
ISBN: 978-4488195199

雑記

今日はかなり疲れたのでパスします。今日読んだ本は「菊と刀」ですが、これは読むと結構疲れますね。面白いことは面白いのですが、違和感があるところを考え始めるといろいろ疲れます。もちろん、この本が書かれたのは戦前なので、日本の文化が激変したというのもありますが、例えば、

父親は一家の男の家長として、食事のときはまっさきに膳を出されるし、風呂にも一番先にはいり、家族の丁寧なおじぎを軽い会釈で受ける。
(p.70)

こういう光景は昭和の途中で絶滅しているような気もするのですが、現存するのでしょうか。アニメではたまに出てきますね。

 

菊と刀
ルース・ベネディクト
長谷川 松治 翻訳
講談社学術文庫
ISBN: 978-4061597082

雑記

今日は本は読んでいませんが、ちょっと生命保険の資料を読みました。アレはちょっとではなくて本格的に、ですね。ちゃんと読まないと大変なことになるような気がします。

気になっているのは、入院のときにいくら出るのかです。今までずっと生命保険に入っていましたが、入院したこともなかったのです。そろそろ何となくいやな予感がしてきたので(笑)。

 

雑記

今日は移動で大変でしたが、葉隠入門はとりあえず三島さんの書いたところは読みました。この本、後半は笠原伸夫さんが現代語訳した葉隠の名言抄になっています。三島さんの入門書は 96ページまでなのです。

ということで、今日はとりあえず葉隠入門から、一言紹介して終わりにします。

文武両道ほど、言いやすく行ないがたい道はない
(p.14)

 

葉隠入門

今日は葉隠入門を少し読みました。今更ですが、もしかしたら葉隠そのものを説明しないと話が通じないのかと心配になってきました。葉隠は戦争に行った人達が戦地に持って行って読んだという伝説が有名ですが、今は平和なので流行らないのかな、という気がするわけです。

戦争中の「葉隠」は、いわば光の中に置かれた発光体であったが、それがほんとうに光を放つのは闇の中だったのである。
(p.9)

これはこの本のプロローグの部分に書かれているのですが、三島さんは戦後の日本は闇の中だと言っているわけです。これは面白い。

三島さんいわく、葉隠には三つの哲学が述べられているといいます。

一つは行動哲学であり、一つは恋愛哲学であり、一つは生きた哲学である。
(p.35)

他は分かると思うのですが、恋愛哲学というのが葉隠を読んだ人としてはどうなのだろう、という疑問を感じるところです。

しかし日本では極端にいうと国を愛するということはないのである。女を愛するということはないのである。日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながっている。
(p.37)

恋闕の情という難しい言葉も出てきます。忍ぶ恋のようなイメージでしょうか。三島さんの作品だと潮騒というのが思い浮かびますが、その裏には葉隠の恋愛哲学があるのですね。

さて、葉隠といえば有名な

武士道といふは、死ぬことと見付けたり。
(p.41)

ですが、これに対して三島さんは次のように解説しています。

死を心に当てて万一のときは死ぬほうに片づくばかりだと考えれば、人間は行動を誤ることはない。もし人間が行動を誤るとすれば、死ぬべきときに死なないことだと常朝は考えた。
(p.41)

常朝というのは葉隠の著者です。この「死」に対する考え方が、隆慶一郎さんの作品によく出てきます。「死ぬことと見つけたり」という、そのものズバリの題名の小説もあります。最悪死ぬところまで想定して行動すればまず間違いはない、というのは言われてみたらそうかなとは思いますが、そんなに簡単な話なのかという疑惑もないわけではないですね。個人的には「既に死んでいる」というのが当たっているような気もします。本当に今生きているのか、みたいな。

切腹という日本独特の文化については、

切腹という積極的な自殺は、西洋の自殺のように敗北ではなく、名誉を守るための自由意志の極限的なあらわれ
(p.42)

と述べています。最後は切腹死した三島さんの理解では、それは敗北ではなく名誉を守るという意味ある死だったのです。

(つづく)

葉隠入門
三島 由紀夫 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101050331