Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

雑記

今日も少し読みました。今日読んでいたのはレヴィナスの方ですが、こちらはいろいろ書きたいことがあって、困っています。

私がボーヴォワールの「第二の性」を初めて読んだのは高3の頃だと思うのですが、その後、大島弓子さんのマンガにボーヴォワールの小ネタが出てきたりして、読み直しているはずなのですが、内容はそれほど印象に残っていません。ただ、あの本、長いですからね。それは印象に残っています。

雑記

今日はプラトンの「プロタゴラス」を読み終わりましたが、あれは疲れますね、理屈っぽくて。やはりデリダとかレヴィナスは癒されます。デリダで癒されるのは変態かもしれませんけど。

この本のソクラテスはYes/Noで攻めてくるので、いざ議論するときは「そうともいえるし、そうでないともいえる」で全部押し通せば勝てなくても負けもないような気がします。

うずまき猫のみつけかた

今日は唐突ですが、「うずまき猫のみつけかた」です。うずまき猫って何ですかね。泣き声も想像できませんが。読んでみたら、マラソンと映画の話のようでした。村上春樹さんはフルマラソンを走れるのですね。日頃のトレーニングも欠かさないようです。この本の舞台はアメリカなのですが、

ニューヨークのセントラル・パークを走る女性は昼間でもレイプに気をつけていなくてはならないし(これはかなりしょっちゅう起こっている)、少し都会を離れると今度はクーガーやらグリズリーやらにも気をつけなくちゃいけないし、
(p.42)

しょっちゅうというのはアメリカっぽいですが、マジですかね。

教訓的な話もたくさん出てきますが、一味違います。

労苦や苦痛というのは、それが他人の身にふりかかっている限り、人には正確に理解できないものだし、とくに一般的な種類の労苦、苦痛でない場合には、その傾向はいっそう顕著なものになる。
(p.58)

これは村上さんが中華料理アレルギーであるという労苦の話なのですが、普通なら前半で終わってしまいそうなものを、後半の補足でさらに強化するあたりが流石です。よほど中華料理が駄目らしい。

さて、村上さんはこの時アメリカに住んでいるわけですが、アメリカで小説を書くとアメリカンな作品ができるのかというと、そうでもないようです。

人間というのは、とくに僕くらいの年齢になると、生き方にせよ書き方にせよ、よくも悪くも、場所によってがらっと大幅に変われるものではないからだ。
(p.104)

歳によるのでしょうか。若いときなら違うのかもしれませんね。私の場合、スタバでプログラムを書くとちょっとノリノリになりますが。

タイトルが猫だけに、猫ネタや、猫の写真が結構出てきますが、猫の喜ぶビデオというのが面白いです。

半信半疑で猫の権威である日本の知人のところに送って実験してもらったところ、「猫はものすごくものすごく喜んだ」という驚くべき結果が得られた
(p.166)

でも人間が観てもちっとも面白くないそうです。そりゃ猫と人間は違いますから、当たり前といえば当たり前なんですが。

この本はだいたい時系列になっているようですが、村上さんは2回、ボストンマラソンを走り切っています。ただ、2回目はかなりキツかったようです。

調子の悪いときは悪いなりに、自分のペースを冷静に的確につかんで、その範囲でなんとかベストを尽くしてやっていくというのも、大事な能力のひとつであろうと思う。
(p.196)

確かにその通りです。プログラマーは寝ながらコードが書ければ一人前です【嘘】。

 

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた
村上 春樹 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101001463

雑記

相変わらず「レヴィナスと愛の現象学」を読んでいます。今日はボーヴォワールが出てくるあたりまで読みました。

その少し前のところでデリダ

ある本が女性によって書かれることが原理的に不可能であるというのは、形而上学エクリチュールの歴史において前代未聞のことではあるまいか。
(p.215)

と評しているところは面白いですね。デリダが何とも困っているような顔でうなっているような感じがします。

私が文章を書くとき、こっそり多重の意味を隠すことがよくあるのですが、レヴィナスはもしかすると似たようなことをしているのでしょうか。

星影の娘と真紅の帝国(上)

今日は、この本を。

22日に紹介した「煙と骨の魔法少女」の続編になります。前作では、キメラのカルーが天使のアキヴァに、仲間は殺したと教えられたところで終わっていましたが、

二日前、カルーはアキヴァをモロッコに残して去っていった。アキヴァは別れ際にカルーから恐ろしい視線を注がれて、こんなことなら殺してくれたほうがいいと思った。
(p.21)

しかし、カルーの向かったところが危険だと思ったアキヴァは、カルーの行きそうなところを探し始めますが、行く所はことごとく虐殺された後のような状況で、生きている気配がありません。ただ、このストーリーは死んでも魂があれば生き返らせることができるというシナリオなので、本当に死んだのか疑惑がどうしても残ります。

蘇生師だったブリムストーンは死んだことになっています。今、蘇生する術を使えるキメラはカルーしかいないのです。そして、ほぼ絶滅したキメラ達の中で唯一生き残っていたのが最悪で、カルーの前身だったマドリガルを殺した白い狼、シアゴでした。しょうがないのでシアゴとカルーは共同してキメラを率いてゲリラ的に戦うことになります。

人間の世界と同じで、戦いはいつまでたっても終わりません。

おもしろいことに、大きな憎しみの中に小さな憎しみがわきでると、それがしだいに大きくなって、ついには大きな憎しみを乗っ取ってしまう。
(p.121)

いいところは何もないのです。しかし、キメラは蘇生して戦わないといけないし、天使はキメラを根絶しようと頑張ります。何でそんな戦いをしているのか皆忘れてしまっている、というのは Scarborough Fair でしたっけ。

アキヴァの仲間の天使、リラズはこんな問いかけをします。

「生きる価値があるのかってことよ、どんなことが起きても」
(p.230)

アキヴァはこれに「ある」と答えるのですが、事態はそう簡単には好転しないのです。

(つづく)

 

星影の娘と真紅の帝国(上)
レイニ テイラー 著
桑原 洋子 翻訳
ハヤカワ文庫FT
ISBN: 978-4150205652