Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

雑記

今日もちょろちょろと本を読みましたが何か疲労しているようなのでパスします。今読んでいるのは、ティム・オブライエンさんの「失踪」

これは村上春樹さんの本の中に出てきたので、何となく読んでみようかなと思ったわけです。何かよく分からない評価だったような気がしましたが、確かによく分からない作品です。

老いと勝負と信仰と

今日は、ひふみんさんの「老いと勝負と信仰と」という本を読みました。ひふみんさんという表現には何か異様感【謎】がありますが、加藤さんというのも変だし、呼び捨ても失礼かと思うので、今回はひふみんさんで統一してみます。

この本は将棋の本かというとその通りなのですが、キリスト教の本のような気もします。ひふみんさんがクリスチャンというのは有名ですが、結構祈りパワーで勝っているみたいです。神様がバックについてたら相手もやりにくいですよね。

しかし祈りとは何でしょうか。

祈るということの本質は、大いなるものを賛美し、謙遜、謙虚に感謝するということでもあるのだと思います。
(p.40)

本格的なキリスト教的解釈です。日本は神仏系の信者が多いのでキリスト教はあまり知られていないかもしれませんが、クリスチャンは基本的に謙遜し、謙虚な宗教者なんです。クリスチャンの多い国を想像すれば分かるでしょ、アメリカとか、韓国とか、…

何かヤバそうな気配がしたので話題を変えます。妙手とヒラメキについて。いろんな有名人、作家、ノーベル賞受賞者などが直感、ひらめきの話をしていますが、その本質について、ひふみんさんが語っています。

基本、ベースになるものがしっかりしていないといい直感、ひらめきは生まれないということでもあるのでしょうか。また、基本がしっかりしている上に、無心であるがゆえに、ひらめきが生まれ、ほんものをつかめるのでしょう。
(p.58)

ひふみんさんの説では、ひらめきのベースに基本あり、ということのようです。基本がなってないと全てダメというのは、もちろん将棋もそうだし、あらゆるプロのシーンで成立する法則ですが、将棋もそうなんですね。

ちなみに、ひらめいた後で他の手が思い浮かんで、どっちだよ、みたいなことはよくある話ですが、これについては、

後から考えた手よりも、最初に浮かんだ手のほうがほとんど正しい。
(p.55)

経験的にそうらしいです。プログラミングの世界だと、そもそも「ひらめく」というのはそうそうない、既存の車輪の使いまわしの世界ですから、最初も何もないんですよね。

ひふみんさんは、負けたときにソノコトをひきずらないそうです。

ある音楽家の方にお話をきいたところ、名演奏家はミスを引きずらないということだそうです。
(p.96)

誰だか気になりますが。ミスを気にしないというよりも、打たれ強いメンタリティ、みたいな話なのかもしれないです。ただ、この件に関しては、

しかし負けたものには、負けただけの理由がある。改良の余地がある。それをじっくり見直し、どこが悪かったのか、どこでどうすればよかったのかを研究する。それも大事なことだと思います。
(p.102)

負けから多くのことが学べる、そこに注目して向上のための材料として使う。負けた故に向上できる、ありがたいものだ、というロジックで、負けをプラス解釈してしまうようですね。

ちなみに、子供たちには次のように教えているそうです。

敗けることは恥ずかしいものではない、恥ずかしいのは負けたことをほうっておくことである。
(p.104)

ひきずらないというのは、放置するという意味ではなくて、なぜ負けたかを理解して改善する、そこで負けたというイベントは終了となるから、後にモヤモヤを残さずに済む、という仕組みなのでしょう。

そんなひふみんさんも連敗することはあるわけですが、スランプはどうやって乗り越えるかというと、

乗り越えるというより、たまたま今は負けているだけと考えて、いつも通りを続けていたら、連敗は止まったということですね。
(p.107)

負けた原因が「たまたま」みたいなのは、回数が解決してくれる、と楽観するのです。確かにたまたま、というのはありますよ、特に某ゲームのガチャとか。

ひきずらないといっても、負けるのは悔しいようです。

でもそれは誰に負けたからというのではなく、自分に勝てなかったことが悔しいただけであり、それをしっかりと受け止めるのがプロなのです。
(p.193)

その微妙な解釈の違いが重要なんですね。

さて、ひふみんさんは本を読め、それも聖人伝(偉人伝)を読め、といいます。聖人というのはキリスト教限定の偉人という意味です。ノウハウ本と聖人伝の違いは、

すぐに役立つ情報、知識は得られないけど、長く役に立つ、生きる上での智慧が得られるものだと思います。
(p.148)

聖人伝にはそのような性質があるといいます。そう言われてみると、聖書なんてのは、智慧の塊みたいなもので、とても奥の深い本に違いないですが、そこから将棋に応用できるような智慧を発掘するあたりが一流の凄さなのだと思います。

ひふみんさんは絵画や音楽といった芸術作品に触れることもススメています。その理由なんですが、

将棋は何十手、何百手も「先」を読む世界ですが、すぐれた作品は「その背景」を読む楽しみがたくさんあって、長く余韻が楽しめます。
(p.164)

やはりヨミの楽しさ、というのがあるようですね。棋士っぽいです。


老いと勝負と信仰と
加藤 一二三 著
ISBN: 978-4847060359
ワニブックスPLUS新書

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す

今日は「ヴェニスに死す」を死ぬところまで読みました。つまり最後まで読みました。

解説には次のように書かれています。

『トニオ・クレーゲル』では、主人公は今挙げた幾組かの対立概念のうち、後者に縋ってかろうじて自己の文士としての生活を支えて行くが、『ヴェニスに死す』においては、主人公はこれらの対立概念の前者のために敗北し、死んで行く。
(p.257)

前者と後者というのは、この直前に、

「生」と「精神」、「市民気質」と「芸術気質」、感情と思想(『ヴェニスに死す』中の言葉)、感性と理性、美と倫理、陶酔と良心、享受と認識
(p.257)

と書かれています。「ヴェニスに死す」で確かに主人公のアシェンバハは乾性コレラで死んでしまいます。

この場合、肉体は血管から多量に分泌される水分を排出することさえできない。わずか二、三時間のうちに患者はひからびて、瀝青のように濃くなった血液のために、痙攣としわがれ声の叫びのうちに息が絶えてしまうのである。
(p.232)

何で死んでしまうのか分かりません。いや、もちろんコレラで死ぬわけですが、コレラで死なないといけない理由が謎なんです。タドゥツィオという少年への恋のためというのは分かりますが、後を追いかけて行って結局声をかけられず追い抜いてしまうようなことをしておいてから、

物笑いになることをひどく恐れた。
(p.201)

というチキンハートの持ち主が、狂乱的に一瞬で死んでしまうというのが何か不自然で非合理的な感じがするのです。まあでも人生というのは本来そういうものなのだ、といいたいのかもしれません。タドゥツィオは美少年とのことですが、イメージとしては風と樹の詩のジルベールみたいな感じでしょうか。だったら全力でストーカーのように追いかけようが、どのみち勝ち目はありません。

 

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す
トーマス マン 著
Thomas Mann 原著
高橋 義孝 翻訳
新潮文庫
ISBN: 978-4102022016

雑記

今日はやっと「レヴィナスと愛の現象学」を読破しました。これは大変な本です。解説は釈徹宗さんが書かれていますが、

おそらく多くの読者が、本書を読みながら「フッサールが読みたくなってきた」「現象学を、もう一度学びたい」「ボーヴォワールもイリガライも気になる」といった思いにとらわれたのではないか。
(p.374)

私の場合、読みたくなったのは村上春樹さんなんですけどね。

 

雑記

今日はヴェニスに死す、ゴンドラに乗ったあたりまで読みました。まだ死んでません。一応はじめからゆっくり丁寧に読んでいるつもりなのですが、何で旅に出ないといけないのかさっぱり分からないです。もともと私が殆ど旅に出ないタイプなので、共感する属性が欠落しているのかもしれません。先日もdポイントがたまるアンケートとかやってみたら、海外旅行には何回行くかという項目があって「行かない」を選択せざるを得ませんでした。行きたいところがないわけでもないのですが、アイスランドとか一度は行ってみたいですね。ツバル諸島なんかも沈まないうちに。

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す

村上春樹さんの本の中に出てきたので、トニオ・クレーゲルを読んでみました。読んだことがないような気がしていましたが、実際読んだことがなかったです。

小説の中でトニオ・クレーゲルは凡人と評されてしまいますが、そう言われてみれば、確かに猛烈な凡人です。あまりにも平凡過ぎて珍しいかもしれません。

なるほどと思った一言を。

人が口で言うことは絶対に肝心なものなんかじゃありえない。それだけをとって考えてみればどうだっていいようなものにすぎない。
(p.49)

 

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す
トーマス マン 著
Thomas Mann 原著
高橋 義孝 翻訳
新潮文庫
ISBN: 978-4102022016

星影の娘と真紅の帝国(下)

今日はレイニ・テイラーさんの「星影の娘と真紅の帝国」の下巻です。上巻は先日紹介しましたが、ざっくりすぎて意味不明になっていますね(笑)。

背景を説明すると、セラフ(天使)とキメラ(悪魔)が戦争をしている世界があって、キメラの娘、カルーが、セラフのアキヴァと恋をするというストーリーです。前作「煙と骨の魔法少女」で破局となった後にどうしても絆が切れない状況に陥っています。上巻で殲滅寸前のキメラがゲリラ作戦で反撃に出たところがジリというカルーの同族の兵士が捕まってしまう、拷問を受けるがうまく逃げてくる、というところで終わっています。

さて、下巻ですが、ジャイエルという危ないキャラが活躍【謎】します。

ジャイエルは醜い。とはいえ、その歯は折れていても、心はまったく折れていない。
(p.17)

心と歯は関係ないようですね。

カルーの友人だった人間、ミックとズザナも何故かキメラのアジトに来てしまって、しかもなぜか客人としてうまくやっています。普通なら人間なんて食われてしまう状況なのですが、カルーの友人ということで生き延びているわけですが、そのミックはこんなことを言います。

大事なのは、ずる賢くなるってことなんだよ。
(p.30)

ずるいだけでは潰されますからね。この人、最初からズルい性格でしたね。バイオリンが得意技です。バイオリンを弾くと化物達がなごむという設定は面白い。

カルーは蘇生師なので、瀕死のジリも治します。回復したジリが何故逃げられたのか説明するときに、カルーに手渡したのはハチドリ蛾。これはアキヴァがジリを助けてくれた証拠であり、カルーがそれに反応したらマドリガルの生まれ変わりであることの証明になるからです。「煙と骨」のストーリーを知らないと分からない話ですが。

戦争の方は泥仕合になって、相手の子供を殺し合うという壮絶な状況。カルーはアキヴァに対して、キメラの子供を殺したと非難します。アキヴァは、

自分の剣で子どもを殺しはしなかった。だが、殺そうとする者たちに門戸を開いたのだ。
(p.79)

だから殺したに等しい、と考えるのですが、こういうことは現実世界でもよくある話です。ただ、本人は気付いていないことが多い。だから救われません。

キメラの司令官はシアゴです。かつてマドリガルを殺した本人ですが、キメラの蘇生
師だったブリムストーンが死んでしまい、カルーに頼るしかないので、とりあえず手を組むしかない状況は実にスリリング。このシアゴが割と機嫌のいいときにカルーにワインをすすめますが、拒絶されます。

乾杯の一杯を断るのは不吉だと信じる者もいるぞ
(p.142)

不吉というのは聞いた記憶もないですが、日本では失礼だとされていますよね。アルコールが駄目な人は断っていい、というのが今時のルールのようですが。

さて、この巻では、シリサーという状態が出てきます。魔術師が無敵になるような状態のようです。

これはなんなんだ? この明るさ、高揚、軽さ。どこまでいっても穏やかなその状態のおかげで、周りの世界の動きが遅くなり、明確になり、なんでもみえてくる。
(p.215)

ご都合主義というか、必殺技で盛り上がっていくパターンなのか。ただし、アキヴァはまだ自由にシリサーになることができないし、いつ状態が終わるかもわかりません。コントロールできないのです。

さて、アキヴァとハゼイエル、リラズという仲良しの兵士は反逆を企て、邪知暴虐な王を殺そうと決断します。メロスではないのであっさり成功しますが、それがジャイエルの思う壺、一応狙い通りに殺せたのに、さらに事態が悪化してしまいます。その後、後半のクライマックスはナントそう来たかという意外な展開だらけで凄いのですが、一応伏せておきましょう。

そして結果的に、セラフの代表のアキヴァと、キメラの代表のシアゴ、そしてカルーが洞窟で集結し、一時的に手を組んでジャイエルと戦おう、というところで本作は終わります。この後、3部作の最後へと続いていくわけです。

 

星影の娘と真紅の帝国(下)
レイニ テイラー 著
桑原 洋子 翻訳
ハヤカワ文庫FT
ISBN: 978-4150205669