何か調子がいまいちだけど、そんなことは言ってられない。てなわけで本を読むヒマがないと言いたいところだが、今日読んでたのは、角田光代さんの「さがしもの」
これはそのうち評を書きたい。ざっくりいえば、本が出てくる本。あと、図書館から「戦中派焼け跡日記」も借りてきた。読む暇もないのにそんなに借りて大丈夫か。
さがしもの
新潮文庫
角田 光代 著
ISBN: 978-4101058245
技術者という言葉がある。技術をベースに生業としている人達のことだ。では技術というのは何だろうか。そして、それはどうあるべきか。技術者はどうあるべきか。そこまで深く踏み込んで書かれた一冊である。著者は謙遜したのか、このように書いている。
本書も、筆者の「勝手脳」が書かせた本である。
(p.v)
しかし、本書の内容はロジカルで隙がない。教訓譚とすべき話題がたくさんある。新書だけにサラっと読める感じにまとまっているが、これは特にエンジニアを目指す人達に読んで欲しい一冊だ。
第1章、「鉄の道をゆく」では鉄鋼業を話題に採り上げている。1950年代の製鉄業について、次のような記述が出てくる。
日本の鉄屑の買い占めを警戒したアメリカの製鉄会社が、背後で圧力をかけていた
(p.5)
最近、アメリカのトランプ大統領が鉄鋼に関税をかける政策をとって話題になっているが、やり方は基本的に昔のアメリカと同じだ。ちなみに、当時の日本は鉄屑を輸入できなくなったため、他の方法を工夫する道を選ぶのだが、アメリカは圧力をかけて他国を妨害して自分達は現状を維持する道を選んだ。その結果、1950年代のアメリカの製鉄会社は衰退を始め、1970年以降にはそれが数字として表れる。
この本が鉄鋼に関して注目しているのが、近年の中国の急成長だ。ただし、この件に関して、
中国のこの爆発的な成長は技術革新にもとづくものではない
(p.12)
このようにまとめている。この件をイギリスとアメリカの関係に喩えているのが面白い。昔、イギリスは製鉄業の技術を発明し、アメリカはそれを元に大量生産を行った。そして世界一の鉄鋼国となったのである。では中国は?
中国の製鉄業は日本の技術供与によって立ち上がったものである。
(p.13)
当時のイギリスが今の日本、アメリカが今の中国に対応するというのだ。確かに現在、日本の鉄鋼業は中国に圧倒的にやられている。何でも情報公開すればいいというものではないことを、日本はもう少し本気で反省した方がいいのかもしれない。しかし中国がこのまま伸びていくかというと、それも怪しい。
第2章「たたらの里をゆく」は、同じ鉄でも日本の伝統技術の話。刀鍛冶が使うような製鉄法が出てくる。この章の内容はエンジニア的には示唆に富んでいて面白い。
技術の失敗と技術の継承は切っても切れない深い関係がある。
(p.22)
余談だが、MS IME は「きっても」の第一候補を「気っても」とした。こんな日本語は本当にあるのか? 担当のエンジニアはもう少しリサーチをすべきだと思う。
話を戻すと、技術を継承するにはトライ&エラーによる経験が不可欠だという。それはプログラマーとしても理解できる。どんなプログラムがいいかというのは、口で言ってもなかなか伝わらないものだ。経験が必要なのである。コーディングは体に叩き込むものなのだ。
たたらの技術は一度途絶えて、それを復活させたのは1977年頃だという。
一度失われた技術を取り戻すのは、並大抵のことではない
(p.26)
デキる人から技を盗むことができないからか。口伝、秘伝のようなノウハウは、途絶えた時点で消える。一からやり直しなのだ。そのような技は消滅する前に国レベルで電子データ化して永久保存するようなプロジェクトが欲しいところだ。とはいっても、過去の技術ならヒントは多少あるし、成功事例があるのだから少なくとも不可能ではないことだけは分かる。
たたらの作業は三日三晩、木炭と砂鉄を30分ごとに交互に入れ続けて行われる。全工程の所要時間は72時間、責任者である村下にとっては不眠不休の過酷な仕事である。
(p.31)
高度プロフェッショナル制度という法案が消えかかっているようだが、プロの現場というのはだいたいこういうものなのだ。こんな過酷な労働現場は、今の流れで行けば、労働基準法違反で、そのうちこのような仕事は実行不可能になるのかもしれない。日本の技術は野党が消そうとしているように見える。もしかしたら誰が裏にいるのだろうか。いるとしたら、日本人でないことだけは確かだと思うが。
先に紹介した伝承に関して、伝えるというのはどういうことなのか、少し論理的な考察が出てくる。
筆者が木原さんに教わったことは、「技術は伝えようとしても伝わらない」ということである。
(p.41)
木原さんというのは、村下の木原明さん。村下(むらげ)はたたらの集団の長(おさ)である。伝わるというプロセスはどういうことか。AさんからBさんに何かを伝えるシーンを想像してみよう。Aさんの頭の中がBさんの頭の中にコピーできたら成功だ。
この人が最初にするべきことかは、自分の頭の中にある「伝えたいこと」を構造と要素に分析・分解することである。
(p.41)
構造という言葉が出てくるところがエンジニア的で興味深い。要素に分けただけでは不完全で、その要素をどう組み合わせるのかということも重要なのだ。
さて、要素と構造に分解できたら、次に何をするのか。四方山話を始めるというのだ。昨日は酷い風が吹いて、今朝は酷い雨だったけど、オフィスに出る頃は止んでいて傘もいらなかったけど、今はどんよりしていますね。そういう話をするのである。へー。何で?
自分の頭の仲にある「伝えたいこと」を相手はどう受け取りそうか、どれくらい理解できそうか、相手を打診して観察している
(p.43)
彼を知り己を知るということに繋がるのだろう。まず己を知ったので、次は彼を知る。それが四方山話である必然性はおいといて、発想としては順当なところだろう。伝えるためには相手の理解する能力に合わせないといけない。能力を超えて情報を与えたら、バッファがオーバーフローしてしまって受け取れない。違うプロトコルだと受け取ってもらえない。そのようなマッチングの工程が必要になるのである。
伝達プロセスの最終工程は、相手の受け取った情報と与えた情報の比較だ。
「伝える」という動作は、相手の「作る」という動作を必要としているわけである。もっと言えば、その上に「わかる」という状態が生まれて初めて「伝わる」のである。
(p.44)
考えてみると、世の中のコミュニケーションの殆どは実は「伝わっていない」ような気がしてきた。分った気になるというのが実は圧倒的に多いのではないか。おそらく多くのコミュニケーションはそれで問題ないのだが、仕様伝達のような厳密な合致を要求する場合は、それでは困る。
第3章は2011年の岩手県宮古市の津波被害について。田老にあったX字型の防波堤に注目している。田老というのは地名。
X字の上側の場所は次第に住宅が増えていったそうだが、鉄筋コンクリート造のホテルを1軒残しただけで、すべて跡形もなく消えてしまった。
(p.53)
上というのは本に図があって、位置関係として上という意味なのだが、防波堤の現状は Google マップで確認してもよく分からなかった。X字というのは、防波堤が上から見るとX字の型になっているのである。ここで言いたいのは、「X字の上側の場所」はそもそも危険地帯なのだが、
いつのまにか欲得・便利さを選んで危ないところに家を建て、自分が生きているうちには津波は来ないと都合よく考えて生活しているうちに津波が来た
(p.53, p.55)
ということ。人災というのはいつもそういうものだ。便利さを優先してリスクを背負ってしまう。今の東京だってだいたいそうじゃないだろうか。
余談だが、江戸っ子というのはそれは割り切っているのかもしれない。とある下町っぽいところの飲食店で店員の会話を聞いたことがあるのだが「ここは地震とか火事になったらアウトだよね、でも仕方ないよね」とか言うのである。地震に備えるのではなく、その時はその時で、今を楽しくやろうというのである。いくら何でも江戸っ子すぎる感じもするが、それはそれで達観のような気もした。
防波堤の話に戻ると、先の震災で、田老の巨大防波堤が破壊されて大きな被害が出ているのだが、これに関して、防波堤が破壊されたのは計算通りという解釈が興味深い。
防波堤は侵入してくる水の量をできる限り少なくし、住民が避難する時間をかせぐための構造物なのである。
(p.55)
つまり、逃げる時間を稼ぐのが目的で、逃げることができれば壊れても問題ないというのだ。防波堤の目的は津波に耐えることだと考える人が多いのかもしれないが、本当の目的は住民の命を守ることだ。その本質を考えると、この発想は正しい。
田老の防波堤は、旧防波堤と新防波堤の2つがあって、X字型に組み合わさっていた。旧防波堤は津波を「いなす」ように設計されていて、この構造を本書では信玄堤と比較している。
信玄堤は「水をいなす」という思想で作られた堤防である。田老の古い防波堤もそれと同じように「津波をいなす」という考え方で作られているように見えた。
(p.62)
真正面から受け止めるのではなく、横に力を分散させるのだ。ベクトルを分解するのである。しかも、
水がいったん防波堤の内側に押してきた後、奔流となって引いていくのを抑える構造になっていた
(p.55)
技術の神髄とはそういうものだろう。それを無視して、ただ津波を止めるように設計した新防波堤が破壊され大勢が死んだというのは、技術者の奢りが神の怒りを買ったのかもしれない。
防波堤でもう一つ面白いと思ったのは、電気を信用しないという話。停電で使えるようにしておくのはフェイルセーフとしては超基本の常識の話だ。タワーマンションや地下鉄、停電になっても大丈夫なのかな、と心配する人はいないかもしれないが、技術者は必ず心配して対策している、と信じたい。
防波堤の防潮扉が手で開閉できるように設計されていたという。しかも電気ではなくガソリン駆動というのがスゴい。
地元の消防団の人は「電気が来ないと閉められないような扉ではいけないのです」と話しかけてくれた。
(p.58)
地震や津波という非常事態に電気が使えると考える方がおかしい。震災前に東京電力の原発に携わっていた人達は、この言葉を100万回音読して欲しい。原発内のクリティカルな装置は、停電してもコントロールできるようにすべきだし、そうする必要がある。重要なのは事故を想定することなのだ。
作りすぎるのもよくないという。
ハードウェアとしては高い防波堤を作らずに、高潮、高波、台風から守れるくらいに止めておくこと
(p.64)
過剰防衛は必要ないというより、過剰なつもりなのにさらに撃破されるのが怖いのである。
1章飛ばして第5章「技術の系譜をたどる」から。
新しい機械を作るとき、技術者はまず「動かす」ことに知恵をしぼる。「止める」は二の次になりがちである。そこに落とし穴がある。
(p.105)
もちろんITエンジニアも、まず動かすことを優先して考える。動かさないと止めることもできない。ソフトウェアの場合、かなりクリティカルな用途でないと、危険という自覚はないことも多い。例えば宣伝・広告用のサーバーの動作がおかしいので多数の死者が出る、なんてことは普通想定しない。
技術者はしばしば、本質安全を制御安全と取り違える。事故はそこで起こるのである。
(p.107)
本質安全というのは、例えば自動車事故を考えると分りやすいだろう。
車を正しく運転していれば事故は起こらないはずだ。正しく制御できれば安全、というのが制御安全。しかし、車で人を轢いたら死ぬ。車は本質的に危険なのである。じゃあ、発想を変えて、車をゆるふわな素材で作ればどうだろう。速度も出ないようにする。人を轢いても死なないようなハードウェアにできたら、これは本質安全。
もちろん、人を轢いても死なないように車を設計することは不可能に近いかもしれないが、本質安全を目指せるケースもたくさんある。本書では六本木ヒルズで起こった回転ドアの事故を紹介している。
この事故では、「回転ドアは軽くしなければ危ない」というヨーロッパでは当たり前の知識が、技術を日本に導入する過程ですっかり忘れ去られていた。
(p.108)
その結果の死亡事故だというのだ。軽いドアであれば事故になっても人が死なずに済んだ可能性がある。
プログラミングの世界でも、長年コードを書いていると、ここはこのように書いておくと後で事故にならない、というようなノウハウがたくさんある。特に改修時にバグが入ってしまうパターンは、熟練者は体で覚えている(笑)ので、本能的に避けることができる。初心者はそれが分らない。そして致命的なバグになり、予想外の処理が発生して破綻する。また、プログラムを作るときに性能は間違いなく重要なファクターなのだが、最近はハード性能が猛烈に高くなったから、そこを軽視するプログラマーが以前にも増して増えてきた、増し増しのような気がする。テスト中は動いているけど本番では動かない。もちろん納品前に性能評価をすれば済む話ではあるが。
回転ドアの話は、もう一つ重要な視点がある。回転ドアのメーカーは、例の事故の後、ドアに挟み込まないような工夫をした製品を試作したのだが、
どこにも買い手が見つからずにお蔵入りになってしまった
(p.116)
一度「回転ドアは危険」という先入観ができてしまうと、もはやどんなに安全な回転ドアを作っても売れないという。日本人の判断力というのは、所詮その程度のものなのだ。もちろん、何がいいとか悪いというのは、とても判断が難しいものかもしれないが、もう一度書きたいので書いておくけど、日本人の判断力というのは、所詮その程度のものなのだ。
最終章の「道なき道をゆく」も面白い話がたくさんある。道なき道自体が未知との遭遇だからオモチロイのは当たり前なのだが、例えばオートバイ大国のベトナムに対するホンダのオートバイ戦略。
ホンダのオートバイはスーパーカブ。1台15万円がベトナムでは高価すぎて買えない。そこに中国製のパチモンが入ってきた。安い。だから売れる。すぐに壊れるのだが、それでも売れる。ホンダはますます売れなくなる。あなたならどうする?
目の付け所が面白い。中国のオートバイは壊れるけど、ホンダコンパチなので、壊れた部品をホンダにしても動く。ホンダの部品の方が壊れないから売れている。そこでホンダは考えた。要するに部品を売れば儲かるのではないか。
これがビンゴだった。その後、ホンダは安いモデルのオートバイを投入して、今ではシェアを取り戻しているらしい。結局最後に勝つのは品質なのだ。
ただし、安くて品質が高ければいいという単純な話でもないらしい。結局、
その製品が「良い物」であると決めるのは顧客であって、その製品を作ったり売ったりする人間ではない。
(p.131)
良いかどうかには、質だけでなく価格も影響するというのだが、ここで筆者が蛇足しているのが面白い。
《蛇足》顧客にとって値段が高いなら、値段を下げれば買うようになるのかというと、必ずしもそうではない。
(p.134)
タダでもいらない場合があるから、という説明がされているが、私見としてはもう一つ、高いというステータスが案外重要だという点も指摘しておきたい。全く同じモノが1000円と1万円で売られていたら、1000円のモノは何かワケがあるのではないかとか、1万円の方が安心だという、根拠のない信頼を寄せたりしないだろうか。
技術者の考える「良い物」とユーザーの考える「良い物」は違う。料理人の舌と食べる人の舌は違う。というのは包丁人味平だっけ。肉の宝分けの勝負。よく覚えているなぁ、全然違うかもしれないが。
自分たちが考える「良い物」に囚われてしまっている
(p.136)
という点は、いつもよく頭に入れておく必要があるだろう。
ところで、この本、先に紹介したように「《蛇足》」という注記が出てくる。私は文章の中に「蛇足すると」という表現をよく使う。もちろん、こんな表現は日本語としては普通有り得ない。蛇足というのは、書かない方がいい、それどころか書いたら全てぶち壊しというのが本来の意味だから「だったら書くなよ」と突っ込まれても不思議ではないのだ。「補足すると」が正しい表現だろう。そこをあえて「蛇足すると」と表現するのはレトリックだ。畑村さんも同じような意図で使っているのだろうか。本意は分らないが、私が書くのも何だが、面白い表現ではある。
この後に出てくる話は、どちらかというオモチロ話ではなくマネージメント的な内容なので省略する。工程管理を直列駆動ではなくパイプライン制御にして時間短縮する話とか、なかなか面白いし、巻末に「付録」として概要が紹介されている思考展開法は AI で実装すればいい結果が出せるのではないかと思ったりした。
技術の街道をゆく
畑村 洋太郎 著
岩波新書
ISBN: 978-4004317029
少し間があいてしまったが、「独学の技法」の続きである。前回は、創造性に関しての話だった。
ジョブズは、創造というものが「新しい何かを生み出すこと」ではなく、「新しい組み合わせを作ること」でしかないと指摘しています。
(p.191)
一から何かを創造するなんておこがましい、それは神の領域だ。人間の創造なんてのは、今あるものを新しく組み合わせる程度に過ぎない、ということなのである。多分。それならAIでも出来るような気もするし、何か希望【謎】が持てそうだ。
組み合わせることが基本だというのなら、創造のコツは論理的に導くことができる。とにかく組み合わせてみるのだ。数打てば当たる理論である。試行錯誤が多くなればなるほど、それだけ偶然成功する可能性も高くなる。
サイモントンによれば、科学者の論文には量と質の相関関係が存在するようです。
(p.193)
たくさん論文を書いている人ほど、優れた論文を書いている(書いたことがある)傾向が見られるというのだ。論文は少ないけど優れているとか、たくさん書いているけど凡庸とか、そういうケースは少ないのだろう。
組み合わせの数は、ストックが多いと爆発的に増える。知識が100あれば、任意の2つを使った組み合わせは4950通り。
アイデアを生み出す力は前述した通り、ストックの厚みによって簡単に100倍、1000倍という開きがついてしまいます。
(p.194)
もちろん、何でも組み合わせることができるか、というとそうでもなさそうだが。ネタは多い方がいい、これは異論ないだろう。そのストックを仕入れる先としては、この本ではズバリ「本」を推奨している。書籍。今時はインターネット、というのが出てきてもおかしくないが、なぜ本なのか。
まず、本を読んでいて、気になるところがあれば必ずアンダーラインを引きます。
(p.196)
電子書籍のハイライト機能についても言及されているが、ここではアンダーラインを引けるというのが技法として重要だという主張だ。ちなみに私は本には線を引かない。付箋を貼ることはあっても、線を引かない。理由は単純である。本を閉じてしまうとどこに線を引いてあるのか分からないからだ。
さて、アンダーラインを引くと、こんな現象が。
アンダーラインを再読してみると、どうしてこんなところに線を引いたのだろうと思われるような箇所が、結構あることに気づく
(p.203)
ちなみに、今これを書いているのは、この本に付箋を貼ってある箇所を pick up している。私の場合、「どうしてこんなところに付箋を貼ったのだろう」と思うことはあまりない。ちなみに、先に引用した箇所に付箋を貼ったのは、アンダーラインじゃなくて付箋でもそういうことはあるのかな、という疑問を持ったからである。
(つづく)
知的戦闘力を高める 独学の技法
山口 周 著
ダイヤモンド社
ISBN: 978-4478103395
今日の本は「女子大生会計士の事件簿」です。これ何巻まで出てるのかな、と思って調べたが、6巻らしいです。
〈監査一般基準・八――監査人は、仕事中に酒を飲んではならない〉って条文を専門学校で習わなかったの!?
(p.19)
主人公の会計士、藤原萌実のセリフなのですが、この後「社会人として常識」だろとサブキャラの柿本一麻がツッコミます。確かに常識だけど、社則に「飲酒してはいけない」のような条文がある会社ってありますよね。一体何があった、と問いただしたくなります。
ストーリーは不正会計を萌実が暴く、というワンパターンの短編になっています。マニアックなトリックが出てくるので、会計に興味がなかったら何が面白いのか、と思うかもしれませんが、まあ個人的には面白かったです。お金絡みの話はなにかと面白いものです。先のセリフは〈北アルプス絵葉書〉事件。裏金をどうやって作ったか、というお話です。
わざわざ通過勘定に〈現金〉を使っているのはどうしてなんですか。
(p.98)
こういう言葉が出てくると「?」なんですよね、何しろ私の簿記の知識は私が決算仕訳すると金額が合わなくなるレベルなので(笑)。笑い事じゃないですけど、この本、ちゃんと巻末に解説と会計用語集が入っているので、会計が苦手な人でも安心です…てなわけないか。
女子大生会計士の事件簿
山田 真哉 著
英治出版
ISBN: 978-4901234252
今日は推理小説、といってもラノベ的な感じもするのだが、化石少女。
文庫本も出ているが、今回は単行本のページ数になっている。主人公は高校2年生の神舞まりあ。名前はカンブリア紀から取ったのだろう。コンビを組むのが桑島彰。この名前は? まあいいや。この二人が化石部の部員で総勢2名の弱小クラブ。化石部の部長なので化石少女なのだ。この二人は幼馴染という設定なのだが、色っぽい話は微塵も無い。
まりあはヒタスラ化石を掘ってブラシで磨いているのだが、次々と殺人事件が発生する。部員不足で廃部の危機に瀕している化石部の部長であるまりあは、天敵の生徒会に犯人がいると推理。推理するものの、特に動きはないまま、次々と死人が。それはそうとして、まりあの思考回路が面白い。
それに世紀の大発見なんて、何時できるか判らないわよ。百年に一度だから世紀って云うのよ。
(p.44)
言われてみれば納得である。歴史上記録にないほにゃらら、のような表現もあるが。
作者は京大出身で、そのため、森見さんと同じく、京都ネタがちらほら出てくる。
鉄道系の弱小クラブは叡電部の他に嵐電部があるというのだ。
(p.119)
私はどちらも乗ったことがあるので、実に懐かしい。懐かしいという程、最近はとんと乗っていないのだが。しかしこういうの、京都を知らない人だとイメージが沸かないのではないか。ストーリーにはあまり影響ないからいいのか。
特に印象に残ったのは、生徒会書記の中島くんのこの言葉。
そもそも心というのは脳が生み出す電気信号に過ぎない。魂とはただの電気信号の集合体だよ。
(p.249)
クールだ。ま、確かにそうだ。感情ってのも所詮脳内で作られた電気信号なのだ。楽しいとかウザいとか、脳が勝手に作り出していると思えば、何かどんな気分もコントロールできるような錯覚が持てる。たかが脳内データの状態に過ぎないわけだ。
ところでこの小説、もちろん犯人も出てくるのだが、あまりにアッサリと簡単に人を殺して落ち着いている。今時の若い人の感覚ってそういうものなのだろうか。推理小説といえば、犯人がラスコーリニコフのようにアタフタしまくって自分から墓穴を掘るようなイメージもあるのだが、この小説の犯人も傍観者の生徒達も、殺人事件があった後、単に宿題が終わったみたいな感覚で翌日から平穏な日常生活をしているあたりがどうも奇妙だ。
もっとも、妖魔や怪異が出てきても普段の日常みたいな小説もあるから、そう思えば普通の学園生活という感じがしないでもないが。そういうアンバランスなところがラノベっぽい印象になっているのかもしれない。
化石少女
麻耶 雄嵩 著
徳間書店
ISBN: 978-4198638788
徳間文庫
ISBN: 978-4198942793