今日は秋分の日なので雑記にします。といいつつまた違った本を読み始めました。
考えるまでもなく当たり前の現象なのですが、本を読んでいると紹介する暇がなく、紹介の文章を書いていると本を読む暇がありません。
今日はいろいろ忙しかったので雑記にします。
忙しいという訳ではないのですが、1個10kg程度のコンクリートブロックを移動しました。移動したのには訳がありますが、細かい話はどうでもいいので省略します。もう一つ、鉄鍋の移動という謎のミッションがあったのですが、こちらは有耶無耶になりました。
Skype のセットアップ作業を行ったのですが、全然うまくいかず結構難儀しました。まずメールアドレスを使ってアカウントを作り、チュートリアルとかやった後に一旦サインアウトしてサインインしようとすると、そんなアカウントはないと蹴られるという現象でした。
どうもアカウントというのが全ての元凶になっているようで、もう一つのタスクはIDが分からないアカウントにログインする、というものでしたが、こちらもお手上げで、いろいろやっているうちに、そのカードはサービス対象外みたいなメッセージも出てきて訳が分かりません。マイナンバーカードってICチップは入ってないのでしょうか。マイナンバーカードをセンサーに近づけたらチャチャっとサインインできるような世界は期待しすぎなのでしょうか。
と書くと今日の作業で成功したのがブロック移動だけみたいに見えますが、他にも細かいことをいろいろやっているのです。
今日の本は小島寛之さんの「数学的決断の技術」。確率・推論を使って正しく判断する方法論をたくさん紹介している。
この本を読んでみた時に真っ先に思い浮かんだのは Yahoo!知恵袋の大学受験カテのFAQだ。「偏差値はあてになりますか」、あるいは「模試の判定はあてになりますか」という質問である。
「判定」というのは模試の結果に付くA~Eの評価のことである。例えばB判定だったが合格できるか、という話。しかし、模試の成績通知、あるいは受験時の注意書きには判定の説明が書いてある。例えば、A判定は80%以上の合格率、のような解説があるのだ。
ここでよくある誤解が、80%というのがその人の合格率だというものである。模試に出てくるA判定80%というのは、A判定となった人の80%が合格するという推測であって、A判定になった人が全員80%の確率で合格するという意味ではない。模試と本番は問題の傾向が違うから、模試で高得点を取れても本番では失敗する人もいるのだ。
例えば、最近はよく当たる天気予報。信用できるのか。
天気予報や経済予測は、同一条件での追実験が不可能であり、再現性をもっていない。したがって、「当たっているから正しいのだろう」という自己循環的な評価しかできないのである。この場合、「いつまでたっても、法則は経験則の域を出ず、いつ間違いだと判明するか予断を許さない」ということになる。
(p.45)
統計的確率を使うときに、データが正しいかどうかが重要だという話だ。確かに「歴史上記録のない大雨」をどうやって予測するのか、というのは謎だ。
同じく知恵袋 FAQ に、大学に行く価値があるかという質問がある。これは機会損失の話題が出てくる所で思い出した。
彼らが考え落としているのは、「もしも、高卒で働いたら、4年間でいくらの収入があったか」ということだ。仮に250万円の年収が得られるとするなら、大学に通うことの4年分のコストは、学費+1000万円ということになる。
(p.95)
この4年間という時間の解釈が難しい。もし大卒と高卒の入社時の年収が同じで、昇給も等しいとすれば、4年間の機会損失の収入コストは、定年前の4年間の年収と等しくなる。学費+4000万円ということだ。実際は、大卒の初任給は高く設定されているため、この理屈は成立しない。しかし、4年間のコストを学費だけで見積もってはいけない、という所は間違いない。
地球温暖化に関して、筆者は「温暖化は嘘」という主張や、クライメイト・ゲート事件の話題も紹介している。小島さんとしては、温暖化の問題は確率的なところに重点を置いているようだ。
地球の未来の気象を確実に予言できる理論は存在しない。したがって、温暖化の是非がはっきりしない中での、人類のとるべき行動に関する判断は、『不確実性の下での行動選択』となってしまう。
(p.101)
論証に関しては、推論の原理をシンプルに紹介している。
「論理学的な推論」というのは、基本的には「AならばB」という形式の論理文をつないでいくことだ。
(p.144)
突き詰めていけば、確かにそうなるのだが、もちろん古典的な風桶理論も紹介されている。デフォルト論理の話題も出てくる。
「デフォルト論理」というのは、『現在の知識と矛盾しない限り、受け入れる』という推論の方法だ。
(p.161)
最後に、著者の小島さんがあとがきで宿題を出している。この本には解答は出ていない。その宿題とはこうだ。
「間違った選択などありえないのではないか。なぜなら選択が正しいかどうかを決めるのも、まさにあなたの行動なのだから」
(p.234)
個人的には、間違った選択があり得ないのなら「選択が正しいかどうかを決める」ことはできない、と言いたい。
数学的決断の技術
やさしい確率で「たった一つ」の正解を導く方法
小島寛之 著
朝日新書
ISBN: 978-4022735423
今日は新しい本を読み始めたので雑記にします。G.ポリアさんの「いかにして問題をとくか」という本で、古典的な本らしいのですが、まだ読んだことはありません。あるいは読んだ記憶がありません。
まだ読み始めたところだが、
未知のものは何か、与えられたものは何か、条件は何か
(p.6)
これを元にして問題を解決していこう、という正攻法なのですが、実際に未知の問題に遭遇すると、こんな単純なことでもなかなか確定できないものです。
数学の受験勉強に解法暗記というやり方があるのですが、これを解法暗記ではなく解答暗記にしてしまい、効果がないという人が少なからずいます。解答と解法の区別がつかないのかと思っていたのですが、最近思うのは、本当に解答と解法の差異が認識できていない人がいるのではないか、ということです。
つまり、解答というのは解法を使って具体的に解いたものという点でレイヤーの違う存在なのですが、それを区別するためには二階層の認識が必要になります。それができていないのです。従って、何か問題を解いたときに、その解き方を一般化して他の問題に応用することができないのです。
最近もう一つ気付いたのは、本が読めない人がいるのではないか、ということです。音読させると書いてあることを音声にすることはできるのですが、それを解釈して脳内にシーンを展開することができません。単に音を出しているだけなのです。
普段の会話は文章によって行っているはずなのですが、視覚情報として文字を見て情報入力したときにその解釈ができないというのは、不思議な現象です。