東京では桜の花も散ってきたが、
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
(p.706)
とても有名な歌なので説明しないが、この歌がちょろっと出てきた小説があったのだが、思い出せない。影武者徳川家康だったかな。
ところで引用したこの本、実はまだ読んでいない。多分最後にこの歌は出てくるだろうと予想して後ろから探したらやっぱり出ていた。そろそろちゃんと読みたいけど、読む暇もなし。
今日は先日「戦中派闇市日記」でちょっとだけ紹介した、山田風太郎さんの「人間臨終図巻」を紹介したい。文庫本で2巻の構成だが、私は第1巻して持っていない。第1巻には十代から四十代で死んだ人々が紹介されている。
若くして亡くなった人は特に悲惨な感じがする。先頭を切って紹介されているのは八百屋お七。年齢は十五歳で、数えで十六歳は成人だから死刑になったと説明がある。火あぶりの刑というのは残虐だと思う人もいるだろうが、当時の江戸で火事になると大勢の死者が出たわけで、どちらが残虐だといわれるとなかなか難しい。
あまりに大勢出てくるので、特に印象に残ったところだけ、いくつか紹介しよう。
§
石川啄木さん
「金を払わないから、医者も来てくれない」
(p.50)
栄養失調だか米を買う金もないという状態で、一家は結核にかかってしまって薬に金がかかるので大変だ。この言葉は啄木さんの老母が亡くなった後、見舞いに来た金田一京助さんに言った言葉である。金田一さんはこの後、家に戻って有り金を全部集めてきて啄木さんに渡したという。啄木さんが亡くなったのはその一ヶ月後のことだ。
§
高杉晋作さん
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
(p.60)
これに望東尼さんが「すみなすものは心なりけり」と続けたという有名な逸話を紹介している。心理学的にも、面白いか面白くないかを判断するのは脳の仕事であって、外部の仕事ではない。というところまで考えてみると面白い。
§
園井恵子さん
「十九日の園井の体温は三十九度。体の節々の痛みを訴えました。翌二十日朝の体温は三十九度八分。胸部の苦しさを訴え、左腕に紫色の紫色の小豆大の潰瘍が出来、脇や腰に皮下出血があって、そこをしきりに掻ゆがり、脱毛がはじまりました。
(p.110)
宝塚出身の女優。八月六日、広島で被爆して、爆風で吹き飛ばされた。その時は「無傷に見えた」ようだが、体の内部から壊れていき、二十一日に亡くなった。福島原発事故で被曝した人がいるが、原爆の爆風を直撃で受けるとこのような結果になるのだ。政府は核ミサイルの攻撃を想定した対策をしているようだが、このような被害をリアルに想像できている日本国民はどれだけいるのか。
§
山口良忠さん
「戦中派闇市日記」の評で、配給の食べ物だけを食べて餓死したことを紹介した。もしかして家族は配給以外の食べ物も食べていたのかと想像したのだが、AERA dot. には、山口さんが判事のうちは二人の子供に出来るだけ多く与えていたそうなので、つまり家族揃って配給だけで生活していたらしい。ただ、判事を辞めて療養するようになってからは、配給の食べ物以外も食べていたとも書かれている。この本によれば、その時はもう手遅れで、
与えられた食餌はすべて下痢となって排泄された。
(p.136)
とのことである。
§
塚越賢爾さん
「こんどの飛行の成功は二人だけのもでなく、大和魂の結晶であります」
(p.304)
パイロット。引用したのは昭和十二年四月に東京-ロンドン間を飛んで亜欧連絡飛行の新記録を出したときの言葉だ。大和魂という言葉は、グローバル化とか言っている今となっては伝説といってもいい概念だろう。当然、この後の戦争でも飛行機に乗ることになる。昭和十七年、極秘指令によりシンガポールから西に向かった後、機は消息を絶った。撃墜されたのだろう。
§
植村直己さん
「倅は、お国にもご近所にも、何の役にも立たんことをして、こんなに心配していただいて申しわけない」
冒険家の植村さんの最後の挑戦は、因縁のマッキンリーだった。1968年に単独登山の許可が出ず断念した後、1970年8月に単独登頂に成功。そして1984年2月、初の単独冬山登山に挑む。12日に単独登頂に成功したという無線連絡があった。しかし翌日の連絡が最後となり、行方不明となってしまう。この日が植村さんの命日とされている。紹介したのは植村さんの老父の言葉。何の役にも立たないかというと、そんなことはない。多くの人に多くのヒントを与えたはずだ。
人間臨終図巻1<新装版>
山田 風太郎 著
徳間文庫
ISBN:9784198934668
3月中に何とか終わらせたいぞ、「戦中派闇市日記」。とにかく毎日書くのは大変なのだが、こんなのもアリなのか。
二十五日(日) 晴
神経。
(昭和二十三年四月二十五日)
この日はコレだけしか書いてない。本文が句読点を入れて3文字だ。試験の勉強に忙しいのだろうか、神経というのは神経学の勉強のことだと思われる。私なら「開発」とか「デバッグ」とただ一言書けば、似たような状況を作り出せそうだ。忙しいときは本当に忙しいのだが、それでも書かずにはいられないというのも分かる。ていうか、今だってこんなの書いている場合ではないような気がしてきた。
山田氏は当時、推理小説を書いていただけあって、マニアックに知識を持っていたから推理小説の話もたくさん出てくるのだが、この日記で特に絶賛しているのはアガサ・クリスティと、この本。
『Yの悲劇』読。
(昭和二十二年十二月二十三日)
二十二日の日記には「バアナビイ・ロス」と作者が書かれている。もちろんエラリー・クイーンだ。山田氏はこれを高く評価したようで、この日には「何だかガタガタしているようだ」と評しているが、後日(後述の一月八日)それがなくなったと書いている。個人的には、Yの悲劇はもちろん超名作だと思っている。何度も読み返した。ただ、私としてはこの作品の一番の注目すべきところは、最後の最後、ドルリー・レーン氏が企んだ罠にあるのだが、そこには触れていない。
寐ころんで『Yの悲劇』再読。
(昭和二十三年一月八日)
山田氏も読み返している。横になると何か感覚が変わるのかもしれない。
この頃、リアル社会で大事件が起こっている。帝銀事件だ。
数日前豊島区椎名町の帝国銀行支店に毒殺事件があって連日新聞にそれが書き立てられている。
(昭和二十三年一月三十一日)
推理小説家としては、このリアル事件には猛烈な興味を持ったと思われるし、仮説も書いている。実は私、以前、椎名町の近くに暫く住んでいたので、あのあたりに若干土地勘があるが、もちろんこの時代のことはまるで知らない。それはそうとして、この事件に関する悪についての感覚なのだが、
帝銀事件犯人平澤貞通自白、その家にウンカのごとく群集あつまり、雨戸をとじて泣きくれている家族に聞こえよがしにオカミさん達が「ニクラシイわね」「これがあの大罪人の家なんだッてサ」と悪口しているという。十二人の人間を一瞬に毒殺して金をうばった平澤自身より、この小さなオカミさん達の心の方が一層悪意に満ちている。それだから人間の悪はおそろしい。
(昭和二十三年九月二十七日)
これは確かに分からなくもない。
§
精神論的な話、特に日本人的なネタがいくつか出てくる。その前に女性の話をちょっと紹介しておくと、
女性を美しく描くのは男性の夢であり、それ以上の何者でもない。
(昭和二十二年十一月七日)
医学生としての女性観としては幻想的なところが面白い。上野公園に行ったときの話があるが、
遠足の新制中学の女学生ら、黄塵あげてぞろぞろ行く。
(昭和二十三年五月八日)
なぜこれをわざわざ書いたのかというのが実に興味深い。女学生に関しては、次の記述もとても気になった。
別に松竹少女歌劇『希望の星』なるものあり、始めて少女歌劇を見、始めて女学生達のイヤラしき熱狂ぶりを見、始めてその愚劣低能なるに呆る。
(昭和二十三年七月二十九日)
なにがあった?
という感じで、女性ネタから離れて精神的、ていうか哲学的な話題を拾ってみると、
価値は単にその実質に依らずその数に依ることが多いようである。即ち、世界に於ける数が少なければ少ないほどその価値が大となる。
(昭和二十二年十二月四日)
希少価値という。では真の価値とは何だろうか、ということについて山田氏は説明しない。そのテーマは既に頭の中で解決しているのであろうか。価値の話が出てくるのは日本が貧窮の時代になっていたからだろうが、GHQの占領政策について、成功でも何でもないと指摘しつつ、サラっとこんなことを書いている。
それでいて、世界で一番平和だといわれるのは、日本人が地球上稀なおとなしい国民だからであって、長いものに巻かれることに驚嘆すべき忍耐を持っているからである。
(昭和二十二年十二月九日)
個人的にはユダヤ人もなかなかなものだと思うが、確かに日本人は忍耐という点ではかなりのキャパを持っているような実感がある。そういうのはキレた時が怖いのだ。
そういえば、新カナづかいには反対だという話が出てくる。
全く文法の成立しようもない、メチャクチャな言葉は却って、日本語の学習を不便ならしむるものとして反対である。
(昭和二十三年十一月七日)
この日記も旧カナで書かれている箇所が多々ある。もっとも、それにこだわっているようにも見えないのだが。学問という視点からは思うところがあったようだ。例えば、
生まれてよりのすべての学問、経験――何をなすべきか、ということではなく、何をよそおうべきか、ということ。
(昭和二十三年七月五日)
これはちょっと難しそうである。教育というのは、何が正しいかではなく、どのようにふるまえば正しいか、というものだというのだろう。先に闇食料を拒否して餓死した人の話を紹介したが、あれは本人の信念としては正しかったのかもしれないが、ふるまいとしてはどうなのだろうか。
「理解しない」――いや「理解できない」ということは、いいことである。
(昭和二十三年九月十六日)
といった、独特な感覚も出てくる。凡人の感覚なら、理解した方がいいと思いそうなところ。
理解されないといって寂しがるのは、ゼイタクであって、このことこそ最も嘆賞すべき事実なのだ。
(昭和二十三年九月十六日)
そこまで言い切っているのも面白いと思うが、私の場合も、このような文章を書くときに、理解されることを特に前提にしていない。もちろん、理解されないように書いているわけではないが、読めば理解してもらえるなどと自惚れてはいない。だから私の場合、寂しいという感覚は元からないのだと思う。逆に、何で分からないかなぁと言っている人がいると、何で分かってもらえるという自信があるのか不思議でしょうがない。
山田氏は少しヒネたこともタマに書く。
他人の不親切をボヤくのはやめて、吾々は須らく不親切になるべきである。
(昭和二十三年三月十一日)
もちろん反語ではあろうが、今の東京の不親切さはどうだろうか。老人に席を譲らないというが、最近の東京を見ていると、その程度ならまだ可愛いような気がしている。
心理的な話としては、登記に行って代書してもらうときの代書人の描写がよかった。
片腕のない男、ヒカラビテ貧相な男、ことごとくおそろしく横柄である。人民のペコペコする姿をいつもここで見つづけているから、自分達がえらくなったような錯覚があるのだろう。
(昭和二十三年六月二十一日)
心理の形成過程まで踏み込んで考察しているが、当時は弱肉強食、今の日本のように全員一緒にゴールしたり学芸会で全員主役なんて時代ではない。強いものは偉い、そういう時代なのだろう。今の感覚で考えると解釈を間違えてしまうような気がする。いや、実はあまり変わらないのか。
§
言うまでもないが、当時の日常生活は、なかなかキツいものだったようだ。
サツマアゲ六個二十円、チクワ三本三十九円(カマボコ一つくれといったら九十円だといわれてやめた)、レンコン一本(百五十匁)三十五円、代用醤油一升百円、葱五本二十円、大根二本三十円、杓子一本十二円、ハミガキ粉二袋一〇円八十銭買ってきたら日がくれた。
(昭和二十二年十二月十四日)
代用醤油というのが分からないのでググってみたが、なかなか酷いものだったらしい。さらに家賃もバブルっぽい悲惨なことになっている。
わが記憶ある最初の家賃は三十円なりき、去年の冬頃よりか九十円となる。
(昭和二十三年三月十五日)
東京から帰省したときの日記も面白い。リュック紛失事件。
ふと気づきて標柱見れば「胡麻駅」。愕然たり、背にリュックなし。余はいかにしてこの駅に降りたるや更に記憶なし、こんなことがあってたまるべきやと、吾と吾が身をつねるにやはり痛し!
(昭和二十三年四月七日)
リュックには医学書とか入っていてヤバしと絶望していたのだが、このリュックは後で出てくる。帰省先が「八鹿町」と書いてあるので Google Maps で調べてみると、兵庫県の中央よりはやや日本海側。ここまで電車を乗り継いで行くのはかなり大変そうだ。
最後に、東京裁判の判決に関して。東條英機に死刑判決が出たというニュースで、
アメリカはこの刹那、東條に敗北した。
(昭和二十三年十一月十二日)
なかなかの絶賛ぶりである。これは東條が判決を聞いて、微笑んで法廷を去ったことを評しているのだ。アメリカ人にこんなことができるか、といいたいのであろう。しかしなぜ微笑んだのか。
彼は戦死者のことを考えていたのだろう。
(昭和二十三年十一月七日)
俺もそっちに行くぞという感じか。敗戦のときに自殺した将校がいたが、部下を死なせて自分が生きているのは恥だという感覚があったのではないか。日本の軍人の根幹には武士道があるのだ。
昨日に続いて「戦中派闇市日記」。日記の中には格言的、哲学的な文もかなり出てくる。例えば「急進」に関して述べた次の文。
保守も急進も、単に時の問題に過ぎぬ、今日の急進は明日の保守であり、今日の保守は昨日の急進である。
(昭和二十二年五月二十八日)
道理である。こんなことを言われたら誰も反論できない。確かに永遠の新作は有り得ない。時間がたてば準新作になって旧作になる。まあでも、そういう話は芭蕉の頃から言われているし、下手したら平家物語の時代から周知の事実だ。もっと遡れるかもしれない。
ともあれ、幸福についてのこの記述は興味深い。
ローマ時代が、中世期の暗黒時代より幸福であったとは思われず、明治時代が徳川時代より愉快であったとは考えられぬ。あらゆる時代に幸福があり、不幸があった。その相対量は大体同じであったように思われる。
(昭和二十二年五月二十八日)
幸福量一定の法則かな。違うかも。そして、山田氏の学生時代の幸福というのは、とにかく食えるということであった。食えない状態が食えるに変化すると幸福感が得られる。現代(2018年)のように、いつでも好きなだけ食えるようになってしまうと、残念ながら食っただけでは幸福感は得られない。食えても有難味の増加がない、相対的に量が0であるから幸福になれない。
相対的思考という点では、これはどうか。
人間には戦争などの屍山血河中に身を置くよりは、女房の不義のごとき小事の方が精神的に大打撃を受くるもののごとし、
(昭和二十二年五月三十一日)
空襲で爆撃されている最中も案外精神はしっかりしている、という話のようだ。緊急の生命の危機という condition red でも落ち着いていられるのに、妻の浮気でアタフタするのは、いつの時代も同じか。
戦争と平和、という映画の話題ではこんな話が出てくる。
先々週だか封切の筈だったところ、無期延期となった。これは映画中の米空軍爆撃のシーンがあまりに凄惨だった為、司令部よりカットを命ぜられたのが理由だという。そのシーンがどれくらい凄いのか知らんが、実際はもっと残虐だったことは経験者たる吾々が知っている。
(昭和二十二年六月二日)
もっと残虐というところが生々しい。事実は小説よりも残酷なり。それを経験してしまうと大抵のことには驚かないはずなのに、それでも妻の浮気の方が心乱されるのか。
兵士の精神状態については、こんな記述もある。
米将兵には本対戦中ノイローゼ、或は発狂せるもの極めて多数なりき
(昭和二十二年五月三十一日)
先の大戦の戦記はたくさんあるが、このような話はたくさん出てくる。沖縄戦のような激戦地で、圧倒的兵力を持っている米軍が、カミカゼがいつ飛んでくるか心配でノイローゼになってしまう。日本人とアメリカ人の思想的差異は何なのか。カミカゼはビジネスライクに戦争をするアメリカ人には理解できないというのだが、
それにしてもマッカーサーはどうして隣組や町会を廃止するのだろう。
(昭和二十二年六月四日)
このあたりに何かヒントがありそうな気がする。日本的発想の根幹にあるのは同族・仲間意識だ。家族や知人のようなグループ、もしくは町や国といった社会のために個人を犠牲にして全体を救うという発想である。カミカゼにおいては、どうせ皆殺しにされるのなら、自分が特攻することで誰かを助けられた方が結果的にはいいという計算がなかったか。
マッカーサーが隣組を廃止しようとした、というのは記憶になかった。アメリカ的な思想としては、個人的には自治を重視するのが基本という印象もあるが、何を恐れたのかというところがポイントなのだろう。
報道批判、というか、冷めた感想みたいなものがある。
日本には元帥の成功を祝福する声のみ聞えているが、それはその声しか許されないからだ。
(昭和二十二年六月四日)
これは今の新聞も同じだと思う。但し、当時は上からの圧力だったと思われるが、今のマスコミは何がしたいのか全然分からない。しかし少なくとも公平な報道をする気がないことだけはよく分かる。一体誰から圧力を受けているのかが分からない。宇宙人かもしれない。
己は一体、こんな日記を書いて何になるのか、他人が読んで面白いだろうとは考えられない。
(昭和二十二年六月六日)
私もブログを大量に書いているから少しはその気持ちが分かるような気がする。元々、私の場合も他人が読んで面白いだろうとはまず考えていない。但し、自分で書いていて、これは面白いと思うことが、数百回のうち何回かある。そういうのは自分が面白いので何度も読み直してニヤニヤしている。最近だと例えば「ねじまき鳥クロニクル」で書いた緯度の話だ。あれは自分では面白いと思っているが、極言すれば単なるオヤジギャグの域すら超えがたい程度だから、従って他人にとっても面白いとまでは言い辛い。知恵袋に書く回答の中にも、数百の中に1回や2回はそういうことがある。
余談はさておき、山田氏のこの日記は他人が読んで猶面白い事間違いない。それは時代を知らない人に対する意表が満載だからだけでなく、文体の妙というのもあるだろう。
当時の貧困度については、日記の至るところにソレっぽい内容があるわけだが、
われわれは貧乏とか苦しみとかいうものに理由のないメッキをかぶせて飾る滑稽な癖がある。立志伝中の人はその伝記に若い日の苦しみを得意気に書いているから、われわれは苦しみが成功の主要なる原因であると考える傾向があるらしい。
(昭和二十二年六月六日)
よく見る言葉に「努力は報われる」というものがある。クールに考えるならば、報われるのは努力そのものではなく、努力の対象となったその行為である。努力したから報われたわけではないだろう。それが転じて「苦しみが報われる」的なベクトルになるという分析はなかなか鋭い。
最近も新宿ではデモ行進をたまに見かけるが、
“食えるだけ賃金を呉れ!”
(昭和二十二年七月二十一日)
賃金値上げのデモ行進だ。流石に今の時代にこのレベルのデモは見たことがない。
このような庶民の生活についても参考になる話題がたくさん出てくる。とはいえ、次の話は単独でぶっ飛んでいると思うが、
お釜は食器であろうか?
(昭和二十二年七月二十九日)
裏のお巡りさんのおかみさんに問われたという。ここで難しいのはおかみさんの理解できるレベルで納得させないといけない点に尽きる。しかし何でこんな質問が飛び出てきたのかというのが面白い。
「今、あの民主教育ってやつでしょう? 何でも先生が教えずに子供に考えさせるのだそうで、私みたいに古いものは困っちゃうんですの」
(昭和二十二年七月二十九日)
子供に考えさせる教育というのは今頃またやっているような気もするが、実は昭和22年に既に試みていたのだ。裏を返せば、それまでの教育は押し付けの教育、生徒は先生に言われた通りに覚え、言われた通りに考え、言われた通りに動く、そのようなロボット人間を作るようなものだったのか。明治以降の文献を見ても、そこまで酷いものには見えないが、ここで「考えさせる」という無責任な方向が面白い。考えた結果が「社会は独裁によるべきだ」とか「戦争は正義である」のような結論になってしまったら、一体どうするつもりなのか。
ちなみに、結論としては、お釜は食器ではなく調理器具だろう、という無難なところに落ち着いている。じゃあ鍋はどうだと突っ込みたくなる。私はインスタントラーメンを鍋で作ってそのまま食っているから、これはある意味食器で絶対間違いない。もちろん、調理器具 AND 食器というオブジェクトが存在しても別に問題はない。
列車が大混雑してインドのよう、という話は既に書いたが、事故もあったようだ。
途中、汽車にフリ落とされて死んだ青年のモッコにてかつがれ行くを見る。
(昭和二十二年八月二十二日)
どんな乗り方をしていたのか謎だが、屋根にでも乗っていたのかもしれないし、外にしがみ付いていたのかもしれない。インドの電車はあまり速度を出していないようだが、高速運転中に落ちてはたまらないだろう。
また話は変わるが、ちょっと気になる記述があった。
「よく遊びよく学べ」とは小学校の格言である。しかし古来からの天才児の大部分はよく遊ばずよく学ばず、夢みるようにぼんやりした少年だった。
(昭和二十二年九月十二日)
黙って考えることが重要だということだろうか。ぼーっとしていた方が将来有望ということか。個人的にはこれはイメージできない。身近にモチーフとなった人物がいたのかもしれない。そもそも私は天才に出会ったことがあっただろうか。そこがまず怪しいかもしれない。
§
十一日 東京地裁判事・山口良忠、闇食料を拒否し餓死
(p.186)
この日記は月初めのところに、1ページ使ってその年月にあった歴史的事件をいくつか紹介している。日記を出版するときに追記したのだと思うが、その中の一つがコレで、有名な話である。少し細かいところを他の本から引用しておくと、
東京地裁判事であった山口は、太平洋戦争敗戦後、裁判官として闇米を買うことを拒否して栄養失調になり、昭和二十二年八月二十七日、東京地裁で倒れた。(略)
十月十一日午後二時半、夫人が新聞を持って来て、それを受けとろうとした判事の手がふいにぱたりと落ちたかと思うと、彼は死んでいた。
残された感想集には、こんな文章が書かれていた。
「善人の社会での落伍者は悪人であるが、悪人の社会での落伍者は善人である」
(人間臨終図巻1、山田風太郎著、徳間文庫、p.136)
私が子供の頃に聞いた話だと、この山口さんは、闇市で買い出してくるのは違法行為だから、裁判官としてすべきではない。裁判官は法律を厳密に守るべきだといって、その結果、栄養失調になって死んでしまった。偉い人だ、みたいな。本当に偉いのかという印象は残る。法律にも緊急避難という発想があって、生命を守るためにはある程度の違法行為は合法となる。配給食品だけで死んでしまうのなら手段を選ばず食い物を調達しようというのは当然の行動なのでは、そんな考え方をしたような気もする。
また、本当に配給だけでは餓死してしまうのか。闇市で食い物を仕入れてくる時代だったとしても、餓死するというのは何か極端すぎて奇妙な感じがする。例えば夫人はどうなのか。同じものを食べていたのなら、家族も全滅していそうなものだ。本人には法を遵守しろと言わなかったのかもしれない。
話は変わって、
「あなたは天才だ」こう言われ、しかもその讃辞が真に意味あるのは、いう人自身が天才である場合に限る。
(昭和二十二年十月十五日)
先に紹介した言葉である。一般大衆に天才の何が分かるのか、といわれたら区別するだけなら何となく分かりそうな気がしてくるが、そこに真の意味が見出せるのかという話になると怪しい。凡人曰くの天才と、天才の認める天才は、やはり違うのであろう。私は凡であるからよく分からんが、ただここで山田氏の言いたいのは、凡人には天才を理解できないだろうという点だ。それは一理あるとは思うが、だったらなぜ凡人は天才を天才と称するのか。
大部分の人間はただ名声に幻惑しているだけで、いいと思えばいいと思うだけの話だ。
(昭和二十二年十月十五日)
皆がいいというからいいと思う。人間的でよろしい。いや、AI的というべきか。さて、今日は最後に山田氏のグチというか嘆き的なことを紹介して終わりたい。
日本の軍閥の罪に依って、と世界はいう。軍閥の侵略主義に依ってと彼らはいう。軍はどこを侵略したのか。満州か? 支那か? 仏印か? マレーか? 蘭印か? それならば開放されたというそれらの土地は今どうなっているのか。満州にはソビエットが、支那と朝鮮には米国とソ連が、仏印には仏蘭西が、マレーには英国が、蘭印にはオランダが、また住民達の苦しみの上に、相争い君臨しているではないか。
(昭和二十二年十月三十一日)
軍事裁判で日本が有罪である理由が理由になっていないと非難しているのである。そんなことはわざわざ書かなくても日本人なら誰でも分かるし、連合国も知った上でやっているのだ。建前と本音は違う。東京裁判は建前の裁判でそこに正義は存在しなかった。それだけのこと。ギャングが裏切り者を制裁するのと同じパターンだと思えば腑に落ちる。
(つづく)
漸く読み終えた。長くなりそうなので、数回に分けて感想を書かせていただきたい。
個人的には山田氏は魔界転生のイメージなので推理小説という感じが微塵も無いのだが、
『達磨峠の事件』は従来からある型であるが本格的探偵小説として水準に達した作である。
(昭和二十二年一月十一日)
今回は、引用における出所は頁数ではなく日記の日付を借用する。
「達磨峠の事件」は山田氏の作品で、引用した評は江戸川乱歩氏が書いたものだ。それを山田氏が日記に書いたのである。絶賛している言葉を書き残した上で、これに対して「わが作はそうではないが」と謙虚に否定していたりするので、何かウソ臭いのが面白い。
この日記に書かれている内容は社会の出来事と天気と家計簿といった日記にお決まりのテーマに加えて、探偵小説論と、医学生ならではの医学に関する話題、そして戦争に関するものである。医学の話題といっても学問的に踏み込んだものというより、試験があるのに勉強が進んでないとか解けなかったとか、そのような話が多いようではあるが。
戦後間もないための混乱が少なからず影響している出来事も多い。
「ここは神代です。浮世はなれた神代ですなぁ」ともう一人の狂人言える言葉、胸に沁みたり。
(昭和二十二年一月十五日)
これは病院で五人の狂人と話をするシーン。会話だけでは狂気なのか悟っているのか分からない。敗戦直後の大混乱の中でこうならない方がおかしいような気もしてくる。
探偵小説に関する話題は、次のような感じで散発的に出てくる。
「探偵小説なンて書くもンじゃないなぁ!」との大下氏の嘆声に哄笑。
(昭和二十二年一月十八日)
これは土曜会という、探偵小説愛好者の集まりの話だ。大下氏というのは大下宇陀児さんのこと。
生活に関しては、次のように数字が出てくるのが興味深い。
食物底をつきたり、大根三本二十五円、コンニャク一丁十円、ダシ十円、ハンペン七個十円買い来り煮て食う。
(昭和二十二年一月二十五日)
これは高価なのだろう。食べるものがない時代のことである。
コーヒー一杯十五円也
(昭和二十二年三月十三日)
2018年現在のコーヒー一杯は、安いところで108円(税込)、高いところだと千円以上するが、少しオサレなカヘだと300~400円、喫茶店で500円程度のものであろうか。当時の15円というのは大根やコンニャクの価格と比べたら、今とさほど変わらないような気がする。
当時の社会は一体どういう状況だったのか。
新宿駅地下道にてパンパンガールらしきもの、黒人兵に抱きかかえられ、体をのけぞらして「いや、いやーっ」と叫びて唇を避けつつあるに、
(昭和二十二年二月十二日)
「人間の証明」に米兵が日本人女性を襲うシーンが出てくる。あれは映画でフィクションだが、実際にそのようなことが日常茶飯事であったことも間違いない現実だ。そして日記ならではの、山田氏の遠慮のない精神的抵抗が至るところに見られる。
電車はものすごく混雑していたようだ。
民衆は叫喚と悲鳴と呻吟の塊となって電車にぶら下がりエッチラオッチラ、電圧が下がって、大橋から道玄坂へ超える坂は下でバリキをかけてその勢で駈け登らねば途中で停ってしまう騒ぎ。
(昭和二十二年五月二十七日)
今のインドの電車みたいな感じであろう。外にまでぶら下がって乗っているのかどうかは分からないが、昔の漫画に超満員電車の絵が出てきたような気がする。そして、次の話は先日も紹介したが、混雑した車内の話である。
老婆あり、前の女に一寸足を動かしてくれというに、その若き女、いきなり「お前日本人だろう」という。然りと老婆答うるに「日本人のくせに生意気な! あたしゃ中華だよ!」と怒鳴る。
(昭和二十二年四月五日)
当時の日本人が中韓の人達から差別の対象となっていたことが伺える。このような重要な事実は歴史教科書で明確に教えているのだろうか。このような事実を知らないと、いろんな史実を読み間違えてしまうだろう。
さて、これは小ネタではあるが、
人の見る夕刊のぞくに「舌を切られた犯人は何処へ――」などいう大見出しあり
(昭和二十二年四月十九日)
最近の新聞の見出しは不適切なものが多いが、この見出しは秀逸だ。不適切というのは、見出しから想像できる内容が真実とは異なるという意味で不適切なのである。ちなみに先の記事だが、
娘を襲いて廃屋につれこみたる痴漢、接吻中に舌を娘に噛みとられて逃走
というから凄まじい。
戦争に関しての記述は生々しくて重い。そして、戦争について書かれるとき、常に精神論が見え隠れする。
果して真にその残酷を痛感し良心にいささかでも一種の動揺を感じているかどうかは疑問であるが、兎に角あれを「残酷」とか「非人道」とかいう言葉に結びつける精神作用は日本人よりも却って米国人の方に強いように思われる。肝心の日本人はあれを「戦争だから已むを得ない」と感じている。あれを別に非人道として魂の底より憤激しているようには思われない。情けないことである。
(昭和二十二年二月八日)
あれというのは広島・長崎への原爆投下を指すが、当時の日本人がこれを仕方ない的に考えているというのは意外なことだった。今の感覚とは違う。そして山田氏はこれを情けないと批判する。但しこの後に続く文が凄い。ちょっと凄いのであえて引用しないが、興味がある方は是非ご自分の目で確かめていただきたい。
東京裁判も進行中で、日記にちらほらと出てくる。
東京裁判開始されたる時、日本の各新聞は米国の裁判制度を紹介し、それが審判までは被告を罪人として扱わざることを指摘し、日本の裁判に於て被告即ち罪人の観あるに比し、その人道的なるを賛美せり。
――盗賊かとうぞくにあらざるか罪人か罪人にあらざるか、日本の立場は裁判終始までは一がいに決せられざる筈にあらずや。
(昭和二十二年二月二十七日)
合理的な疑問だ。しかるに米国は偽瞞であるという結論に至るが、そんなことは最初から分かり切ったこと。イエスに死刑判決を下した宗教の国らしき行動でむしろ当然ではないのか。
医学部の大学の試験が終わったところの日記が興味深い。終わったのに「案外嬉しくない」というのである。
この原因は出来不出来より、試験中の苦しみが不徹底なものであったということに依るものだろう、苦しみすくなければ悦びまた少なし。
(昭和二十二年三月二十七日)
至言である。努力は報われるというのは、案外そういうところに根差すのだろうか。つまり努力が報われるのは頑張ったからではなく苦しかったからではないか、というのである。
(つづく)