Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

Ruby on Rails 5の上手な使い方

今日はインストール三昧で本を読む暇がなかったので…といいたいところだが、ちまちま読んでいたのがこの本。買ったときには気付かなかったが、2018年1月24日発行となっていて、最近出たばかりらしい。

Part 1「基礎編」、最初の50ページ位で、Ruby の概要、インストールから Rails のインストールまでザックリ書いてある。このあたりは、こんなの細かく書かなくても自分でできるよね、という感じ。そのあたりの読者を想定しているのだろう。

Part 2「アプリケーション開発編」が、いきなり Rails ルーターの話から入っていく。ここからが本番、みたいな。MVCを作りこんだりテストのノウハウとか、実践的な内容がたくさん出てくる。Part 3「リリース運用編」は AWS への環境構築が紹介されていて、実はこのあたりが速攻で使えそうなので衝動買いしたのだ。

もっとも、なぜか今日はデバッグ環境構築あたりでハマってヒーヒー言っていたわけだが。現実は前途多難。

Ruby on Rails 5の上手な使い方 現場のエンジニアが教えるRailsアプリケーション開発の実践手法
太田 智彬 著
寺下 翔太 著
手塚 亮 著
宗像 亜由美 著
翔泳社
ISBN: 978-4798153094

学生時代に何を学ぶべきか

いやいや、ちょっと事故りました。書きかけの書評が消滅しただけなんですけど、まあ仕方ないか。杜撰なバージョン管理ってコインほにゃららじゃないけど、もう少しちゃんと安全対策すればよかった。

まあそんなに大騒ぎするような内容でもないのですが。

仕方ないので最近読んだ本から、紹介してみます。この本は、学生時代に何を学ぶべきか、というテーマで書かれた85人のエッセイ、コラムを集めたもの。いろんな考え方、見方がありますが、特に年配の方々、戦争を体験した方々の視点の鋭さは戦争を知らない子供たちには絶対に太刀打ちできないものがあります。

もちろん戦争を知らない人達も、だから負けているという訳でもなく、どんよりして切り込んでも切りようもない難敵になってしまった社会に立ち向かう勇士達のやり方には、学べることがたくさんあります。

しかし時既に遅し、残念ながら私の学生時代は遙か昔に過ぎ去ってしまいました。とはいえ、それはそれで読んでいて何か楽しく、そうだとか、そうではないぞとか、考えてみるのもそれなりに面白いものです。

いくつか印象に残った言葉を紹介します。

知識は職業的に役立つけれど、生きていく上にはあまり役立たない。
(p.139、自分でない人間に、邦光史郎)
私は人生は小舟を操って荒海を航海するようなものであると思う。
(p.153、野心を!、増淵興一)
「学校は、何を学ぶかを学ぶところである」という言葉があるが、まさに至言である。
(p.287、寄り道の効果、中川志郎)


学生時代に何を学ぶべきか
講談社 編
ISBN: 4-06-203895-1

「頭がよい」って何だろう―名作パズル、ひらめきクイズで探る

今日の本は『「頭がよい」って何だろう』。ひたぎさんは勉強できる人は勉強する前から頭がいいとか言ってたような気もしたが。

この本はIQの話から入ってくるから、IQを頭の良さの指標の一つと考えていることになるが、それだけに限らず、他の要素についてもいろいろ考察している。いずれにしても頭の良さを単なる「物知り」と考えていないことは間違いない。

子どもの頃あれほどパズルに熱中したのに、どうして大人になるとほとんどの人が興味を失ってしまうのだろう。答えは「分別がつく」からである。
(p.73)

考えなくてもいろいろ出来るようになると、考えることが面白くなくなるとか、そういう傾向は確かにあるかもしれない。「わからない」が「わかる」に変わるところに面白さがあるとすれば、「わかる」が増えれば増えるほど面白いことは少なくなっていく。

天才と呼ばれた人の中には学校の成績が悪かった人が多いことも紹介している。成績とは関係ないが、ファラデーのこのエピソードは知らなかった。

彼が侵食も忘れて電磁気の実験に没頭しているのを見て、「いったいそんなことがなんの役に立つのかしら?」といった女性がいた。それに対して、ファラデーは「奥さん、生まれたばかりの赤ん坊はなんの役に立つでしょうか?」と答えたという。
(p.96)

ちなみに赤ん坊は癒し効果がばつぐんだ。

後半にはチューリングテストやフォークト・カンプフ検査の話題も出てくる。人工知能は知能テストの夢を見るか。

 

「頭がよい」って何だろう―名作パズル、ひらめきクイズで探る
集英社新書
植島 啓司 著
ISBN: 978-4087202076

雑記

「日本の無戸籍者」はちゃんと読み終わったが、やはり評するのは大変、というか時間がかかりそうだ。

途中に出てくる話題に、「三船殉難事件」がある。ちなみに、このような事件は学校の社会の時間に教えているのだろうか?

日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後の一九四五年八月二二日、北海道留萌沖で日本の引揚船三隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して一七〇八名以上が犠牲になった。
(日本の無戸籍者、井戸まさえ著、岩波新書、pp.126-127)

樺太からの引揚の話とか、悲惨な史実はたくさんある。過去とはいえ、まだ当時を知る生存者がいるような近い時代のことである。ロシアは親日だというが、引揚船を魚雷で沈めた相手と仲良くしたいという神経がよく分からない。

日本の無戸籍者

昨日紹介した本を半分程度読んだので、途中までだが紹介する。実は1度斜め読みしていたりする。気が向いたら続きを書くかもれない。

ざっくりいえば、この本は、戸籍がない人に関していろいろ解説したものである。それにしても

そもそも「登録していない人」を把握することは難しい。
(p.3)

悪魔の証明みたいなものだから、当然そうなるわけだ。しかも、戸籍がない人は裁判で戸籍を取ることができるのだが、いざ戸籍を取ろうとすると、

戸籍がないから調停・裁判をやろうとしているのに「戸籍謄本を持ってきて」と指示されたり、
(p.12)

役所にも無茶を言われたりするようだ。しかし、この本の著者である井戸まさえさんは、裁判を起こして子供の戸籍をgetできたのである。前例のないことなので、まず調停を申し込んで不成立になった後に裁判を起こす、という大変な努力をして、

こうして「勝訴」に至ったのだが、敗訴側も喜ぶ、そして誰もが納得する奇妙な瞬間だった。
(p.18)

どういう状況か説明させていただくと、離婚してから300日以内に生まれた子は前夫の子とみなすという法律がある。しかし子供の父親は前夫ではない。戸籍に入れてしまうと前夫との子になってしまう。そこで、現在の夫を相手に認知の裁判を起こした。現在の夫は自分の子だと認めているから本来は裁判を起こす必要もない話のはずなのだが、裁判で勝訴しないと現在の夫の子にはなれないのである。

今はDNAを調べれば高い確率で親子関係を証明(あるいは親子でないことを証明)できる。300日以内などという非合理的な法律が今も生きていること自体がおかしいのだ。

戸籍がなくても国民健康保険に入れるというのは知らなかった。しかも、うっかり入ると、

過去三年分に遡って保険料が請求される
(p.36)

これは怖い。

この他にも、戦争で戸籍が失われた例とか、虐待が絡んでいて逃げ出したとか、いろいろ悲惨な事例が紹介されている。歴史的な事例としては「サンカ」や「家船」というキーワードが出てくるが、詳しい話は出てこないのがちょっと残念だ。

江戸時代の話としては、

当時、無戸籍者たちは「無宿」「無宿者」と呼ばれた。
(p.90)

木枯らし紋次郎がそうだ。紋次郎の場合は戸籍も何も、島抜けしてきたのだから完全に国の管理外、存在するはずのない人間なのだが。

日本の無戸籍者
岩波新書
井戸 まさえ 著
ISBN: 978-4004316800

雑記

今日は別の本を読み終わったのだが、オフィスに置いてきてしまったので、途中まで読んでいる本を紹介する。

この本は、いろんなタイプで戸籍が無い状態になるケースを紹介している。そのような人は少なくとも1万人というのが驚きだ。

 

日本の無戸籍者
岩波新書
井戸 まさえ 著
ISBN: 978-4004316800

とりかへばや、男と女

ということで、一回ではとても終わらないが、とりあえず始めてみる。昨日紹介したように、これは心理学的な分析の本。とりかへばやを語るわけではなく、とりかへばやという物語を通じて、男と女とは何かということを心理学的に考察した本である。

まずはストーリーの中で男女が入れ替わることにどのような意味があるかを掘り下げていくことになる。そのためには、男女の役割、即ち、男と女という性別に対してどのような意味が与えられているかというところから吟味しなければならない。最初に問題になるのは、

『男らしい』とか『女らしい』とかの固定した概念
(p.15)

である。男女平等という呪文の下で、例えば男の子は黒いランドセル、女の子は赤いランドセル、のようなステレオタイプが批判の対象になるようなことがあった。今もあるのかもしれない。あるいは、男は力強く、女は優しい、そのような先入観に対して批判する人もいた。これが不平等な考え方と決め付けるのは簡単だが、その前に重要なのは、なぜそのような考え方を持っているかということなのだ。

しかし、ここでよく認識しておかねばならぬことは、一見馬鹿げて見える固定的な分類も(たとえば、アボリジニのドゥワとイリチャのような)、人間が生きてゆくために必要なことだということである。
(p.15)

単純にその理由を想像するのみならず、必要性というところまで思慮する必要があるというのである。「とりかへばや」においても、若君は

絵かき、雛遊び、貝おほひなどしたまふを
(「とりかへばや物語」p.6)

そして姫君は、

若き男わらはべなどと、鞠、小弓などをのみもてあそびたまふ、
(「とりかへばや物語」p.7)

といった感じで、男の子の遊び、女の子の遊びが逆転しているのである。逆転するためには、そもそも男の子が何をする、女の子が何をするという前提が必要になる。そこにどんな意味があるのかというのが関心事ということになるのである。

そもそも、物語という形態によって伝えることが心理学的にどのような意味があるかというと、

「物語る」という形式が、人間の無意識のはたらきを表現するのに非常に適している
(p.19)

というのが面白い。固有名詞でなく曖昧な表現にすることのメリットは、落語でもそのような説明があったと思う。

そして、特に過去の物語に注目することで、

昔話は時代をこえて、人間の無意識のはたらきを伝えてきたものとして貴重な資料と言わねばならない。
(p.19)

古来からの人間のふるまいを理解しようとするのであろう。それで「とりかえばや」なのだ。日本では「とりかえばや」は古典としてマニアックな人気があるはずなのだが、河合さんのアメリカの友人は、このように評したそうである。

ポスト・モダーンの物語だ、
(p.29)

世界中に男女入れ替わりの物語はいくつもあるのだが、総じていまいち高い評価を得られず、むしろ世俗的だとか、場合によっては品が無いといった評価になってしまっている。世俗的というのは逆に考えてみれば大衆の人気が得られるということでもある。

この本は、最初の60ページ程度を使って、とりかへばやのあらすじが紹介されているから、ストーリーを知らない人でも読んで理解できるようになっている。

(つづく)


とりかへばや、男と女
新潮選書
河合 隼雄 著
ISBN: 978-4106036163

とりかへばや物語―校注
鈴木 弘道 著
笠間書院
ISBN: 978-4305001061