Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (3)

今日も昨日の続き。まず、堀江さんの教養論から。

先に私の考えを書いておくと、教養とは生きていく過程で身に付けるもの全てのことだ。実践してもよし、本やネットで知識を仕入れてもよし。しかしそれを身に付けないと教養ではない。使えない知識は教養ではない。そこが単なる知識と違う、というのが私の解釈だ。さて、堀江さんはどうか。

教養とは、それぞれが好きなことをしていく中で、必要なタイミングで身につけるものだ。
(p.101)

ここが炎上ポイント(笑)ではないかと思う。堀江さん的には人生イコール「好きなことをしていく」だからこれでいいのだが、世の中の大半の洗脳された人達は、堀江さん自身が指摘しているように我慢が人生、即ち人生イコール「イヤなことをしていく」だろう。

そのような人達の教養は必然的に嫌なことをしていく中で身につけるものになる。私見としては、先の解釈に従えばそれも教養になる。。つまり、教養は必要なタイミングで実践的に身に付けるものだとしても、それをするシーンを「好きなこと」とか「嫌なこと」で制限する必然性はない。些細なことではあるが。

学校を順当に卒業しなければ得られない教養など、もはや存在しない。
(p.101)

卒業式のマナーとか(笑)。この件は茂木さんも同じようなことを言っていたと思うが、今はインターネットを使って大抵の知識も教養も身に付けられるので、そこは同感だ。

しかし、世の中、本当に誰もが好きなことをするだけで回るかというと、そうではない。これも好きなことをやって刑務所に入れられてしまったのだから、奇しくも堀江さん自身が証明している。そこまで甘受するという覚悟もアリだとは思うし、堀江さんもご自身としては間違ったことはしていない、判決は誤審だ程度に思っているかもしれないし、私もあれは誤審だと思っている。

しかし、集団生活で下っ端として演じないと得られない種類の教養だってあるのではないだろうか。いろんな role に応じた適切な行動がある。対人的なノウハウは今の時点ではインターネットではなかなか得られない。そのようなソーシャルゲームか仮想世界でもあれば世界が変わってくるかもしれない。開発してみようか。

堀江さんはプログラミングに興味があったという。

 僕は中学時代、まがうかたなき「プログラミングの専門バカ」だった。あの頃は、持てる時間のすべてをプログラミングに投入していた。成績の低下に怒り狂った親にパソコンを捨てられたこともあったが、すぐさまゴミ捨て場から取り戻した。あの当時、僕ほどパソコンにのめりこんでいた子どもはいなかったのではないかと思う。
 その体験は僕を無教養にしたか? まったくそんなことはない。東大入学も、起業も、宇宙ロケット開発や予防医療など専門性の高い領域でのビジネスも、元をたどればすべてはあの「プログラミングの専門バカ」の時代が礎になっている。
(pp.102-103)

ま、誰でも「オレほど…」とは言いますよね。そこは否定しないし、否定すること自体に意味がない。全員が自分が一番と思っていればいい。ちなみに私は中学時代は電子工作にのめりこんでいた。アマチュア無線の免許を取ったのは小6のときで、当時は壊れたラジオから部品を取ってヘンテコなものを作ったりしたものだ。

ここで違和感があるのは、もっと他にスキルアップする方法はなかったのかというところである。もし堀江さんが中学の時代に、今のような主要5科目と副教科と部活、みたいな中学校ではなく、何か好きなものをメインにしていい、例えば午前中はプログラミングをする、後はちょっと主要科目を、みたいなスタイルの教育を受けていたら、世の中がもう1レベル変わったような気もするのである。

その場合、そのようなスタイルの教育も常識の押し付けで洗脳になるのか、というところが違和感の正体だ。

 しかしほとんどの親は、幼児の行動を管理する延長で、ある程度大きくなった子どもにまで「これをしちゃいけません」「あれをしちゃいけません」という禁止のシャワーを浴びせかける。
(p.105)

禁則事項ですね。これとは違う話だが、日本の法律は「これはしていい」で、アメリカは「これはしてはいけない」だから、日本は新しい技術が発展しないし、アメリカはどんどん新しいものが出てくる、いう説を最近どこかで見た。「これはしてはいけない」という制限は、それ以外のことは何でもしていいので、そこに発展性がある。

もう一つ気になるのは「これをしちゃいけません」である。本文中では「子ども自身に危険が及ぶような行為」は批判の対象から除外しているから、それ以外の禁止行為を批判しているわけだが、では例えばどういう例が想定できるだろうか。

堀江さんの場合は多分「パソコンやるな」だろう。しかしこれも多分親としては、パソコンをやってはいけないというのが主目的ではなく、勉強しろというのが本当の理由だろう。成績低下で激怒したのだから、成績が低下しなければ問題はない。遊ぶなという親は、遊ぶのが悪いことだというのではなく、勉強しないとか、成績が下がることが悪いと考えているのである。勉強もしないで遊ぶのは悪い、そのような束縛条件がある。

なお、最近の流れとしては、遊んでいるときに止めさせないのがトレンドになっている。遊びに熱中させることで、集中力が高まるというのだ。その下積みが大学入試とか、もっと後になって生きてくる。

 僕がそれに取り組めたのは、「すべてを自分で決めた」からである。
(p.111)

心理学的にも、自分で決めたことの方がモチベーションが持続するという話がある。この後ゲームの話が出てくる。私は昔は一日中ゲームをするタイプの人間だったから、ゲームの話は得意なのだが、いわゆる攻略本を買ったことがない。基本的にゲームは自分で攻略するのが面白いのであって、攻略本を買ってゲームするのは、解答を見ながらパズルを解くようなものだと思っている。もちろん、今の人達がそうではないことも知っている。ゲーム自体にクリアするという面白さがあるから、クリアできないよりは攻略本を見てクリアする方が面白いとか、攻略本でクリアしてから自分で工夫する面白さがあるとか、それも理解できる。しかし、自分で全て攻略してクリアするという面白さは、まるで次元が違うような気がするのだ。

比較しようがないから証明しろといわれても無理ですけどね。

本の話に戻ると、違和感があるのは、他人に決めてもらって取り組む、それで楽しむというのはダメなのかというところだ。

何もせず、ただROMしているだけ(他人の書き込みを読むだけで自ら動かない)の人たちは、行動的な人たちの半分も楽しめていない
(p.112)

個人的にはこの意見には猛烈に同感なのだが、ただ、その「半分も楽しめていない」はどうすれば検証できるのか、真実なのか、というところが分からない。同感なのだが自信が持てない。ちなみに個人的には半分どころか1割も楽しんでいないと思っている。もちろん証明はできないのだが、脳波とか測定したら検証できるのかもしれない。

次はここ。

 100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。100点以上を取れる確率はゼロだ。
(p.119)

これは明白な間違いだろう。堀江さんがこんな基本的なミスをするのは珍しいと思う。ゴールの先に行ってしまうことは結構よくあるものだ。

100点というのが例えば球入れゲームで、100個入れたら勝ちだとする。とにかく球を入れていけば、最後100ぴったりで終わるよりも、101個、102個入ることの方が多くはないだろうか。少なくとも100個を超えて入る確率がゼロであるわけがない。オーバーキルは案外あるものだ。駅伝で1位でゴールする人の殆どは、ゴールで走るのを止めない。その先まで走り続ける。

ゴールを決めて逆算すること自体は悪くはない。ペースも理解しないで行動する方がよいとはとても思えない。もし100点で止めてしまうことが望ましくないのなら、ゴールではなくマイルストーンにすればいいだけのこと。駅伝でほにゃらら橋通過順位とかタイムとかいう、あの感じである。「ゴール」に決めてしまうからそこで止まろうという力が働くのである。

貯金でお金は増えない。
(p.131)

厳密にいえばそうではないけどね、ハチドリの涙程度の利息は付く。先日、やっと楽天銀行にログインできるようになったのだが、利息が4円だっけ、付いていた。大もうけなのか。

ま、それは「増えない」に含まれるだろう。しかし減りもしない。それが重要なこともある。金額によっては減ることもあるらしいが、それは私の知らない世界だ(笑)。また、貯金で増減しないのは金額である。価値は増減する可能性がある。つまり、インフレやデフレになった場合は、同じ100万円でも、ラーメンも買えないようになるかもしれないし、家が買えるようになるかもしれない。もっと蛇足しておくと、ドル建てで貯金するとどうなるか、ビットコインだとどうか、という話もある。

ポートフォリオとしては、貯金を1/3、不動産を1/3、投資を1/3、というのが昔(大昔?)の常識だったけど、今は違うのかな、ビットコインが9割なんて人はいるのだろうか。

次のネタは、100円のコーラを1億円で売る方法、みたいな本、ありましたよね。少し違うけど。これ系の話。

ただし、資本を投じる先が、前者はりんごの「美味しさ」であるのに対し、後者はりんごの「付加価値」である。
(p.146)

本の中では、この付加価値というのはアイドルが収穫したリンゴというシナリオになっている。リンゴにサインしてもらえば高く売れるというありきたりの話で、そんなことはもちろん超同感だ。

で、違和感があったのは些細なところ。東大生という付加価値についても、面白い主張が出てくる。もちろん、堀江さんは元東大生だった。ただし中退なので東大卒ではない。

「東大生」なんて、もはや珍しくもなんともない。珍しかったのは、大学進学率が1~2割しかなかったような時代、あるいは東大生が民間(特にベンチャー)に少なかった時代の話だ。

1960年代から、大学進学率は毎年増加しており、1962年には4年制の大学進学率が1割になった。1972年には2割を超えている。堀江さんは1972年生まれだから、堀江さんの言う通りなら、生まれた時点で既に東大生は珍しくなかったということになる。ちなみに1996年にオン・ザ・エッヂを設立したときの大学進学率は33.4%で、3分の1を超えていた。

今はどうなのだろう。テレビでやたら東大をタイトルに付けた番組があるが、そろそろ視聴率が下がっているという噂もある。視聴率を維持できるかどうかは、上田さん次第です、みたいな。あれはタイトルに東大って付いてないか。

次のネタは炎上したらしいが、寿司職人の話。

だがその後、僕の意見の正しさはしっかりと証明された。調理師学校「飲食人大学」で「寿司マイスター専科」を3ヶ月受講しただけの寿司職人の店「鮨 千陽」が、ミシュランに掲載されたのである。
(p.164)

これは少しじゃなくて、ものすごい違和感があった。

まず、この意見自体、何の証明にもなっていないミシュランに掲載されたというのは、ただそれだけのことだ。寿司としての完成度と、ミシュランが評価するかどうかは、違う話だ。まさか堀江さんのような高度な判断力を持った方がミシュラン信者というか、学校で学んだ知識のように「ミシュランに掲載された料理は優れている」と信仰しているとは思えないが、ミシュランというキラーワードを使ったレトリックのつもりなのかもしれない。

先に紹介したように、今の人達はゲームを攻略するのではなく、攻略本を買って攻略することに満足する。堀江さんの言葉で言うならば「ただROMしているだけ」で満足する人が多いのだ。

私はその寿司屋で食べたことがないから味について評価できないのだが、寿司職人といえば、小野二郎さんという世界的な名人がいらっしゃる。ミシュラン信者の堀江さんなら、小野さんがミシュラン3つ星だということも知っているだろう。そのレベルに3か月で到達できないのは当たり前だとして、3か月でどんなレベルに到達しているのかという本質的なところは、もう少し突っ込んだ方がいいと思う。「ただROMしているだけ」が大多数の今の日本で「美味い」といわれるレベルの寿司を出すことに、どのような意味があるのか。

例えば、くら寿司に行けばなかなか美味い寿司が食えるという噂もあるけど、くら寿司に流す寿司を作るのに何年かかるのだろうか。

次に、これは違和感ではないのだが、

僕は自分の「いいじゃん」という感覚を信じている。
(p.167)

これって私とは決定的に違うところなんですよね、私は自分の感覚は信じていない。それが後になってみて、何だよ、当たってたよ、ということがよくある。たまごっちだってプリクラだって、誰も注目していない時点でコレは凄い、と思った。まあでもオタク視線なんだろうな、とか思っているうちに大ヒットした。そういうことがよくあって、全部後手後手どころか、何のチャンスも掴めずに今に至る、という感じ。

自分の感覚を信じるというのは重要なんでしょうね。

次の違和感はここ。

会社なんて気軽に辞めればいい。
(p.175)

これは殆どの人に違和感があるだろうね。私も昔はそうだったと思う。今は違うというか、何度か気軽に辞めた(笑)。統計的には、かなり以前から、新卒採用の3割程度が3年以内に退職しているとか、数字はちょっと怪しいが、そういうデータがある。気軽に辞めたのかどうかは知らないけど。2年でカード作ってから辞めるのがいいかもね。

しかし、落ち着いて考えればわかることだが、一つの組織から抜けたくらいで「大変なこと」なんて起きない。
(p.177)

これはもしかして間違っていたら悪いけど、堀江さんって貧乏生活の経験がないのでは。私だって食うのに困るような経験はない。食べるものを探したら味付けノリしかなかった、というような時代はあったが、とにかく食うものはあった。味付け海苔。自己記録は持ち金5000円で1か月生活したこと。もちろんバイトとかするしかない所だが、このときは1か月、パチンコで稼いで暮らしたはずである。こういう人生は面白いぞ。ただし一歩間違ったら死ぬかもしれない。

僕は東大を中退しているが、大変な目になんて一切遭わなかった。
(p.177)

これも個人的には違和感がある。だって、実際ライブドアを追い出されていますよね、しかも刑務所にぶち込まれてしまった。堀江さんレベルだとこの程度なら別に大変な目でもないのだろう。刑務所なぅ、とか言う豪傑だし。でも、洗脳されている日本人の大多数にとっては、刑務所に入るなんてのはあり得ないような大変な目なのだと思う。それどころか、民事で訴えられるだけでも大騒ぎだ。もっと凄いと思うのは、知恵袋を見ていると分かるけど、大学受験に落ちて不合格になっただけで死ぬという人が大勢いるのだ。たかが不合格と思うかもしれないが、今の人の感覚としては、不合格になるのは死ぬほど大変な目なのである。

「堀江さんの言うような働き方をみんながするようになったら、誰も何も生み出さなくなってしまうと思います!」
(p.192)

それは二つ考え方があって、1つだけ書いておくと、そうなったとき、誰も何も生み出さなくてもいい時代になっていると思う。全部コンピュータが生み出してくれるから心配しなくてよろしい。

僕はこの数年、「好きなこと=遊び」を仕事にしよう、と言い続けてきた。「やりたくないことをするのが仕事だ」という考え方をやめ、「やりたいからどんどんやってしまう」サイクルの中から仕事を生み出す、そんな生き方を提唱してきたし、誰より僕がそれを徹底してきた。
(p.196)

堀江さんが言うから説得力があるのだけど、それが絶対に成功する保証がないのは当たり前だとして、どの程度の成功率なのだろうか、そこも評価すべきだと思う。ただ、この選択肢には、仮に失敗しても好きなことをできたからいいじゃないか、という見方もある。だったら選択しない手はない。

個人的に思うのは、好きなことしかやらないと、好きでないことの中に含まれているコトには気付かない。それは何かマイナスになるような気がしないでもない。好きでないことをすることにもメリットはあるのだ。

さて、これ読んでないからアレなんですけど、

『嫌われる勇気』というベストセラー本を知っている人も多いだろう。他人に振り回されずに生きることの大切さを、アドラー心理学を軸に描いたものだ。
この本を読んだとき、僕は大いに興奮した。「みんなのマインドが、この一冊で一気に変わるに違いない!」。そう期待を抱いたからだ。
(p.201)

で、変わらなかったという堀江さんのグチが面白い。

人間、そう簡単には変わらないんですよね。それが洗脳の怖さなのだ。逆にいえば、洗脳してしまえば人間は簡単に変われるのではないか。堀江さんにもし何か足りないものがあるとすれば、そこではないだろうか。つまり、洗脳力。それがあれば日本を支配できるかもしれない。堀江教の立ち上げを期待する。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論
堀江 貴文 著
光文社新書
ISBN: 978-4334039745

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (2)

昨日の続きで、堀江貴文さんの本から。洗脳といえばすぐに思いつくのが自己啓発【違】だけど、これは面白いと思ったのは、

某回転寿司チェーンが、新人研修で「社訓」を暗唱できなかった内定者に、入社辞退を求めていたというのだ。
(p.31)

これはあるあるだ。テストに通らないと契約終了というので話題になっているのは理研の非正規だっけ。テストで合格しない社員は減給するという世界は意外と普通にあるような気もするが、しかし、

そうやってできあがるのはきっと、目を輝かせて「会社のためなら死ねます!」と言う社員なのだろう。
(p.32)

それはいくら何でも考え方が甘いんじゃないか。いや、そうと言えないこともない。確かに「会社のためなら死ねます!」と言う社員になるというのも経験的にはその通りなのだ。しかし、それはそう言っているだけであって、社員は全然そんなことは思ってないと思う。演技に過ぎないのだ。だから飲みに行けばいろいろ面白い話が聞けるし、簡単にヘッドハントされてしまう。この前なんか、ラジオの投稿で多分それ系の社員じゃないか、みたいな内容の投稿があってビックリした。ヤバいよ。そういえば、堀江さんって、一社員として上司に怒られながら働いたことあるのかな、その目線からの世界が案外面白いのだけど、もしかしたらそこがごっそり抜けているのかもしれない。

要するに、洗脳といっても、根っこのところから本気で変えようというのはなかなか難しいと思う。

次に違和感があると言いたいのは、文化について。

たとえば、アメリカ人を「違う国の人」と感じる最大の理由は、お互いが住んでいる場所の違いであり、使用する言語の違いだ。
(p.41)

確かに言語の違いは超決定的かもしれない。しかし個人的には、異国人を「違う」と感じる最大の要素は文化的要因だといいたい。例えばウソをつくのが平気な国がある。例えば中国の歴史を見れば謀略のオンパレードで、いかに敵を欺くかに全力が注がれているように見える。むしろ騙すのが正義のような気までしてくる。もちろんそれは中国だけの話ではないし、日本ですら同様の空気は少なからずあるが、少なくとも日本には「ウソをつくのは悪い」という大前提があるような気がするのだが、それは他の国では通用しないことに日本国民は気付いているだろうか。教科書には書いてないからなぁ。

次は、地方の居心地について。

大都市圏で働く高所得層の納めた税金が地方に回っているからこそ、地方の居心地の良さは守られているのである。
(p.58)

大都市で稼いだ金が使われている、という所には全く異議なし。その通りだ。

しかし、個人的には、地方の居心地の良さ隣人関係が支えているような気がする。ウチとソトという考え方がある。地方の町内会は「ウチ」に属するが、東京にいると、町内会ですら「ソト」でしかあり得ないような感覚があるのだ。ざっくり言えば、東京では隣の人は他人だ。地方にいると隣人はウチとして家族ではないが仲間的な感覚が強くなってくる。地方の居心地の良さというのは、本質的にはそこにあるような気がする。そういうのは私だけかもしれないけど。

ウチとソトという考え方でいうと、都心から地方へ離脱する人にとっては覚悟が必要な場合がある。都会から引っ越してきた人は、その地域にとってはソトの人である。ソトというのはどちらかというと敵だから、ウチに入れてもらえないと居心地が悪いどころではない。

まあ、ここはそのような話が主題ではないから、どうでもいいことかもしれない。。

ところで、この章の主題は何かというと、G人材L人材である。説明しておくと、この本でG人材というのは、Global = 世界規模人材、L人材は Local 人材という意味だ。スコープの違いである。もう一つ、N幻想という言葉が出てくる。Nは Nation State、国民国家である。これもスコープの話だ。今更言わなくても、インターネットが国境を崩壊させるというのは随分昔から言われていた話で、この本は例としてインドの話を紹介している。

今やインドといえば、IT大国として名高い。
(p.67)

これを書いている時点でまだ 2017年だが、インドは1990年頃に既にIT大国として名高かったと思う。少なくとも日本よりはソフトウェア産業の世界ランキングで上を行ってた。インドのIT企業が発展した要因として、当時 IBMの研究所がインドにあったことが大きな影響を与えたと思っているのだが、まあ時期はどうでもいい、インドが今もIT大国なのは事実だ。そして、ITエンジニアがカーストの抜け穴だったというのはナイス視点だと思った。

つまり、低いカーストの人間が政治家になることは許さないが、20世紀になって初めて登場したIT産業に関わることは許すのである。
(p.67)

余談だけど、AIがこれから進化するとして、AIにはカーストが適用されるのかということについても興味がある。まあされないと思うが、AIはインドの政治家になれるのか、という話だ。インドはダメでも日本ではなれそうな気もする。

ピコ太郎は世界的な大ヒットになったのに、イルマニアがそうでなかったのはなぜか、という話に関して、

この二人の対比から導き出せるのは、「やりたいことをやればいい」というシンプルな結論である。やりたいことをやり、大切にしたいものを大切にすれば、それに賛同する人が必ず現れる。
(p.81)

インターネット人口は全世界人口にどんどん近付いていって、そのうち追い越すに決まっているから、この主張は正しい。世界には自分と全く同じ人間がいると言われている位である。似ている程度の人ならわんさか居るだろう。しかし、賛同されただけでは話は進まなくて、むしろ次に出てくる、

モノやお金の価値が最小化されていく社会では、誰にどれだけ支持されているか、共感されているかが重要な意味を持つ。
(p.81)

それは確かにそうだと思う。

ところで、堀江さんの学びとは何か。

僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。
(p.87)

個人的には堀江さんというのは飽きやすいイメージもあるのだけど、集中すべき時はディラックのδ関数のように集中できるのだろう。この次のページに「お勉強」と「学び」の対比表が出ているのだが、それを見るに、堀江さんのお勉強というのはデータの入力、学びは deep learning のような感じがした。

堀江さんの学校には殴る先生がいたようだ。中1のときに、授業中に居眠りしていたら殴られたという。

眠くてあくびをしただけで、ボコボコに殴られる。それが当然とされるのが学校であり、それを内包する社会の姿なのだ。
(p.97)

寝るな、寝ると死ぬぞ的な教育かな。私が高校生の頃、居眠りokという先生がいた。社会の先生だ。社会の姿といわれて思い出した。

ちなみに殴る先生もいた。今の学校の生徒の感覚だと分からないかもしれないが、当時は殴る先生は普通にいた。なぜ殴るかというのは簡単な話で、殴らないと分からない奴がいるからである。言い換えれば殴ると分かる奴がいたのだ。子供の頃から親に殴られて育てられると、殴られるのは悪いことをしたからだというシグナルを感じることができるのだ。

たとえばロンドンブーツ1号2号の田村淳氏は、高校時代、劣等性だったにも関わらず生徒会長に立候補した。理由は「『学校の廊下を走ってはいけない』という校則にどうしても納得できなかったから」だったという。
(p.98)

廊下は走るな、というのはサザエさんとかちびまる子ちゃんで出てきたような気がする。常識(でいいよね?)なのだが、田村さん的には必要なときは走ってもいいと考えたようだ。これも多分ジェネレーションギャップがあって、昔の学校の廊下ってのは古い木の上にワックス塗って磨いたツルツルの状態だった。走るというのはすなわち危険だったのだ。最悪、死を意味するような危険行為なのだ。しかし今はそんな廊下は絶滅しているのではないか。上履きだって進化しているだろう。走っても安全なら走ってもいいというのは合理的な発想である。走るレーンを決めてもいいかも。誰か歩きながら安全に使えるスマホを開発しないのか。

しかし、この話はその後一体どうなったのか不明のままだ。生徒会長になれたのか。校則は変わったのか。言うのは簡単だが実現しないというオチだと悲しいかもしれない。

何か関係ない話になっているような気がするが、とりあえずここでもう一度切る。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論
堀江 貴文 著
光文社新書
ISBN: 978-4334039745

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論

堀江さんの本で、7月頃に図書館で予約したら今頃になって番が回ってきた。買えばいいじゃん、と思うかもしれないが、私もそう思う

ていうか予約したことを忘れていたし。

いきなり余談っぽいけど、やりたいと言いながらやらない人のパターンを2つとしている。○○には2種類ある。○○する人と、○○しない人だ、的なパターンではなくて、少しひねってある。

「ほんとうは何もやりたくない人」
(p.4)

これはありますよね、とりあえず何でもやりたいと言ってしまう人とか。しかし、何でやりたいと言ってしまうのかは謎。何でもやろうとするのが美徳という先入観があるのなら、それも学校教育に洗脳されたからなのか。

もう一つのパターンは、

「やりたい」と思いながら、それでもなかなか行動に移せない人
(p.4)

こちらが本書のターゲットらしい。で、結論を書けば、ていうかタイトルで既にバレバレなんだけど、行動に移せない理由は教育によって洗脳されているから、ということになっている。

実に興味深い。

そして先に私の書評としての結論も書いておくと、総論として賛成だ。書いてあることに同感。

その前提で、今回は違和感が残ったところだけを選んで評する。だから、この投稿だけ見ればこの本の意見に反対しているように見えるかもしれないが、実際はそれ以外の多くの部分が全部同感なのだ。

まず「洗脳」とは何かを示すことで読者を洗脳しているあたりが面白いのだが、注意深く読むと微妙な箇所がいくつかある。

僕もふくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、「いざという時」のために学校に通わされ、役に立つのか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。
(p.6)

皆といわれてしまったら、反論は簡単だ。私はそうじゃない。

反例があるので「皆」というのは自動的に否定されて、従ってこの論理は間違っていることになる。私は「いざという時」のために学校に行ったことなど一度もない。もちろん、私以外の全人類が堀江さんの言う通りである可能性はあるが、そうだとしても「皆」ではない。

大人たちは、子供に次のように言うというのが堀江さんの認識のようだ。

多種多様な「いざという時」に備えて今は我慢しなさい
(p.6)

この「我慢しなさい」という言葉は、我慢して勉強しろという意味だと思われるのだが、私は我慢して勉強したことなどない。なぜなら、前提として大学行かせるような金がないから働けという空気のある家庭だったからだ。ただし私は大学にいくつもりだったから、我慢しろという流れになるとすれば、大学は無理だから我慢して働け、ということになる。それはそれで我慢には違いないか。

要はそのあたりのジェネレーションギャップなのかもしれない。

さて、余談はおいといて、知識と常識の違いについて。

知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。
(p.20)

「原則として」という保険のための表現は私もよく使うが、使われるとちょっと嫌(笑)。それはおいといて、知識はファクト(事実)に基づくというのだが、それを言い始めると哲学の世界に落ちてしまうような気がする。それもおいといて、この言葉の定義については、堀江さんがそれで話を進めるというだけのことだから、異議はない。では常識の方はどうかというと、

常識とは「解釈」である。
(p.20)

こちらは主観メインということだ。私の語感としては違和感があるが、こう定義するということに、特に異議もない。論理的思考の土台として、その流れで考えればいいだけのことだ。

その上で違和感があるのは、次の箇所である。

学校で教えることの9割は、「知識」ではない
(p.20)

学校は知識(ファクト)ではなく、常識(解釈)を教えているというのだが…

社会のような科目が解釈だというのは分かる。歴史の教科書の内容が昔と今は違うというのは有名なことだ。しかし、数学や物理や化学で教えていることも、その9割が知識ではなく解釈と理解すべき性質のものなのだろうか?

例えば三角形ABCの面積は、(1/2)・AB・AC・sinA だと高校では習う。

確かにこれも単なる解釈であって、非ユークリッド幾何学のような世界に踏み入れたらそうではない解釈もある。しかしそれを根拠として「だから高校で学ぶ三角形の面積は常識であってファクトではない」と言い切っていいのだろうか?

とにかく9割という数字がどうも見えてこないのである。この本にはその9割や残りの1割の具体的な説明はない。唐突に数字だけ出されても検証できないので困る。個人的には、地球温暖化がCO2増加が原因、みたいな本当にファクトとは思えないような例外的な内容はあるとしても、少なくとも高校までの理系科目には「常識」は殆ど出てこないのではないかと思う。

堀江さんの主張だと、学校は常識を植えつけているということで、次のように述べている。

常識を疑い、常識に背を向けたからこそ、今の自分がある。
(p.22)

この場合、学校は常識を押し付けるという重要な役割を果たしたことになる。学校が常識を押し付けてくれないと、常識を疑うこともできなくなってしまう。先に「困った」と書いたように、与えられていない主張には反論することもできないのである。常識を疑うためには、まず誰かが常識を提示する必要がある。

私の感覚だと学校の役目はそちらに近いと思う。つまり、学校教育は、常識であれ知識であれ、それを提示するのが目的であって、それを真実だと洗脳したいわけではない。事実上洗脳したとしても、洗脳が目的ではない。反論したければすればいい、同感なら飲み込めばいい。重要なのは、今の日本の大勢の人が一体何をどのように考えているかというファクトを知ることである。つまり、常識は何かという事実を与えること自体に、重要性があるのではないか。実際、知恵袋の投稿を見ても、学校で教えていることは役に立たないと断じている生徒が非常に多い。全て役に立つなんて主張しているのは私だけかもしれない。

とはいっても、学校で教えられたら無条件にそれは正しいと信じてしまう生徒が多いことも否定できないし、まず間違いなく事実であろう。。ネットのデタラメを簡単に信用する生徒を見てると確信できる。今の殆どの中高生には主体的な思考能力はないとすら思えてくる。

長くなるので一旦ここで切る。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論
堀江 貴文 著
光文社新書
ISBN: 978-4334039745

短編少女 (2)

今日中に終わらせておきたいので、今日は11日に最初だけ紹介した「短編少女」の残りを書く。13日と14日にもちょろっと書いているけど、とりあえず3作目から。

道尾秀介さんの「やさしい風の道」の途中に出てくる「はげキオ」の話は先日紹介したので省略する。主人公は章也という少年。短編少女という文庫なのに、この本には実在の少女は出てこない。次の描写が印象的だ。

素早く姉の顔を振り向くとこちらに向けられた両目が急に奥行きをなくし、レモン形の紙を貼りつけたように見えた。
(p.103)

独り言をいう癖がある人なんていくらでもいるが、この話のレベルで一人で会話できたら二重人格に近いのではないか。姉というのは章也が生まれる前に死んでいるのである。作品中ではすごくたくさん会話する。それを確かめに昔住んでいた家に行ってみる。私も昔の家に行ってみたことがあるが、たどり着いたら化物語みたいに更地になっていた。この話ではその家に住んでいる瀬下という老人がキーマンで、天気が分かる能力者。そういう老人も心当たりがある。

「何で、雨が降るってわかるんですか?」
「風だよ。働いていたときに、仕事で草や木を調べていたんだけど、そのうちに、なんとなく風で、天気がわかるようになった」
(p.116)

deep learning でしょうね、多分。

4作目は中島京子さんの「モーガン」。モーガンというのは少女の名前だ。出てくる少女はクミコ。クミコはモーガン以外の少女からはムンバイと呼ばれている。ややこしい。そして、稲垣とダブルベ。あだ名の理由は小説に出てくるから省略。そういうことで呼び方って決まるのか、というのがちょっと面白い。まあそういうものだったような気もする。舞台は中高一貫の女子高で、クミコはモーガンが好きなのである。

でも、モーガンを見ていると胸がドキドキするんです。
(p.159)

保健室の熊沢先生にも「モーガン」で通じるらしい。結局、

どうして私はモーガンに好きだと言わなかったのだろう。
(p.170)

ということになるのだが、これはこれで正解だったと思う。人生にはいろんな正解がある。

5作目は中田永一さんの「宗像くんと万年筆事件」。この話は結構好みだ。先日「普通に読んでいけば分かる」と書いたのは、例えば、

「変だぞ……」と、宗像くんがつぶやいた。
「なにが?」
(p.200)

この時点で、何が変なのか分かるという意味だ。主人公の少女は山本さん。万年筆を盗んだという疑いをかけられてしまう。なくなった万年筆が山本さんのランドセルの中から見つかったのだ。先生にも疑われてしまう。

「片親だから泥棒に育ったんだよ、きっとね」
(p.183)

余計なところが妙にリアルなのは何か体験したのだろうか。友達も全員離れていく。昨日紹介した「レキシントンの幽霊」の中の「沈黙」という作品で、「ある日突然、僕のいうことを、あるいはあなたの言うことを、誰一人として信じてくれなくなるかもしれないんです。」と言葉が出てきたのを思い出す。しかし母親だけは山本さんを信じるように設定したのはなぜだろう。親にまで信じてもらえない状況なんて、いくらでもありそうなのに。

いいと評していた十円のエピソードというのは、

「いきなりこんなことを言うのはもうしわけないんだけど、十円を貸してくれないかな……」
「……いいよ」
(p.186)

この十円は、別の町で働いている姉に送る手紙の切手代が足りなかったのである。十円足りなくて送れないなんて。

「この十円は、いつか絶対に返すからね」
(p.187)

この十円は、宗像くんが最後の方で引越しの挨拶をしに来たときに返すことになる。

「自販機の下をさがして見つけたんだよ」
彼の手のなかにあったのは薄汚れた十円玉だった。
(p.228)

成績がよくて皆から信頼されている人が実は犯人という、お金もない宗像くんとの対比が極端すぎるのが面白い。銭ゲバみたいな世界観じゃないか。

6作目は加藤千恵さんの「haircut17」。

十七歳は中途半端。
(p.233)

18歳でいろんなリミッターが解除されるので、確かに17歳は最後の不安定な歳かもしれない。翼の折れたエンジェルだと初めての朝。主人公の優希は倉野くんに告白されてどうするか悩む。2か月も待たせてまだ返事しない。優柔不断なのだ。決断することができない、全て中途半端。倉野もよく待つものだと思う。それで優希は髪を切る決心をする。

髪を切ってから倉野くんに、昨日はごめんなさい、よかったらもう一度二人で会って話したいです、ってメールをする。
(p.256)

大人のカッコイイのってどんなところ、というのをラジオでやっていたけど、「何でも自分で決めるところ」みたいな答をしたのはぼくリリさんだっけ。よく覚えてない。メモっておけばよかった。

7作目は橋本紡さんの「薄荷」。ハッカー。違うけど。関係ないけどマツコさんがミントチョコが苦手なのは何故だっけ。出てくる少女の名前は有希。でもこの話は、途中に出てくるナラオカジという元同級生の男子の存在感がスゴい。

私はふと、彼と寝てみたいと思った。どんな感じがするんだろうか。きっと楽しいんじゃないかな。
(p.278)

ここだけ引用したら随分軽い娘のような気がするが、この有希は村田くんを好きになってしまう。でも、

村田に告白すべきでしょう」
「ええ、無理」
(p.279)

こんな感じ。有希はヨッちゃんと何でもない話をするのがいい(幸福?)と思っている。

こういう瞬間があるんなら、それでもいい
(p.284)

何かそこには悟りの境地のようなものがあるような気もする。しかしこの話を読めば「haircut17」の優希って全然中途半端じゃないように見えてくる。名前が似ているのは性格も似ているからなのか。

やっとここまで来たか。8作目は島本理生さんの「きよしこの夜」これを今日中に書いておきたかった。ちなみに作品中ではイヴではなく25日の夜の話が出てくるのだが。

もうじき、お姉ちゃんが死んで、一年が経つ。
(p.291)

この文庫本の作品には、死んでしまう人が結構多い。この作品も、話が始まったときにもう死んでいる。お姉ちゃんは真希という名前で、主人公の望の姉。望の友達の多枝ちゃんは割と解りやすい。しかし名前に「希」という漢字がやけに多いのは、流行でもあるのだろうか。レア教みたいな。

「そういえば昨日のニュース見た? 付き合ってた彼女にふられたからって刺し殺しちゃったやつ。あの犯人、うちらと同い年だよね」
(p.311)

こう言ったのは多枝ちゃんだが、こんな感じでストレートにストーリーをアシストする役目のようだ。多枝ちゃんの幼馴染の武田君は望に告白したのに反応が微妙なので自分から諦めてしまう。難問にチャレンジしてがんばるタイプで、少しややこしい奴だけどわかりやすい。

この話が難しいのは、お姉ちゃんが何故死んだのかというところ。理由は曖昧になっているから実は分からないのだが、望は自分のせいだと思っている。お姉ちゃんと望がバイトに申し込んだら望だけが採用になった、それが原因だというのだが、どうも分からない。そういうところが面白い。

ここまで書いてしまったから最後の作品も書くしかない。村山由佳さんの「エスタデイズ」。これはサワヤカ系なんじゃないかな、タイトルのイエスタデイズはヘレン・メリルさんの歌のタイトル。

スーくんの家は木工所を営んでいた。
(p.354)

スーくんという呼び方は反則なのでは、ちゃんと後で理由も出てくるけど。家が木工所のようなのは、昔そういう感じの家を知っていたので何かレトロな親近感がある。

私はジャズを殆ど聴かないのでよく分かっていないのかもしれないが、

もしかして、ああいうときの母も、飲みこみがたい何ものかを音楽に溶かしてもらっていたんだろうか
(p.360)

この表現が気になった。音楽を聴いているうちに気分がほぐれていくというのは分かる。とはいっても最近は欅坂46の不協和音みたいに三角波で頭が削られそうな感じの曲を主に聴いているから、音楽で心がほぐれるかと言われると自信がない。そういえば欅坂は紅白でこれを歌うらしい。イエスタデイズはググって YouTube で聴いてみた。ほにゃぁんとした感じだった。確かにゆでた袋麺のようにほぐれそうな気がする。


短編少女
集英社文庫
ISBN: 978-4087455731

レキシントンの幽霊

今日もやたら歩いたので本など読む暇はなかった。はずなのだが読んでしまったので仕方ない。

これも短編集。1つ目の「レキシントンの幽霊」は、レキシントンに幽霊が出るというだけの話。個人的には割とよくあるというか、経験しているような話だからいまいちだった。こういうことって、よくあるよね。え、ない?

2つ目の作品は「沈黙」

人はあらゆるものに勝つわけにはいかないんです。人はいつか必ず負けます。
(p.56)

負けた後にどうするかというのはこの続きに出てくる。

「ある日突然、僕の言うことを、あるはいあなたの言うことを、誰一人として信じてくれなくなるかもしれないんです。
(p.82)

私もそういう経験がある。小学2年か3年の頃だったと思う。このような経験をすると、人格というか、人間性が変わるような気がする。

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。
(p.84)

日本の大多数の国民がそうですよね。

3つ目は「氷男」。アイスマンか Ice Man。英語だと何かカッコイイ。スノーマンなら季節的にぴったりなのだが。言ってることもクールで、

夢は過去からくるものなんだ。
(p.104)

予知夢が否定されてしまった!

4つ目が「トニー滝谷」。この短編集の中ではこれが一番好みだ。最初に読んだときに付箋を付けたところが、トニーの父親が天涯孤独となったときの描写で、

しかし彼はそのことをそれほど悲しいとも切ないとも感じなかった。
(p.117)

ここに付箋を付けたのは何となくで、理由がよく分からなかったのだが、何か気になったのだと思う。しかし読み終えてからもう一度考えてみれば、この1文がこの作品の中で最も重要なところのような気もするのである。

トニーも孤独慣れして独りで平気なタイプなのだが、結婚した後に不安になることがある。

孤独でなくなったことによって、もう一度孤独になったらどうしようという恐怖につきまとわれることになったからだ。
(p.128)

私はこの感覚は分からない。いつ孤独になっても平気だろうという感覚はずっと昔から今に至るまで持ち続けている。

この小説で一番面白いと思ったのは、アシスタントとして募集した女性が洋服が一杯ある部屋の中で泣いてしまうところ。

「七番目の男」は、台風の目の中ってあまり経験がないので微妙。急に静かになるというのは何度か経験したが、外に出ても別に晴れているわけではなかった。目のはっきりしない台風だったのかもしれない。

最後の「めくらやなぎと、眠る女」でハッとしたのは、

いちばん辛いのは、怖いことなんだよ。実際の痛みよりは、やってくるかもしれない痛みを想像する方がずっと嫌だし、怖いんだ。
(p.189)

痛みを創造するって感じなんですよね。

レキシントンの幽霊
村上 春樹 著
文春文庫
ISBN: 978-4167502034

 

パン屋再襲撃

さいしゅうげき、を変換したら最終劇になるかと思ったらちゃんと再襲撃と変換してくれたのでホッとした。今日も時間がなかったので何も読めなかった、と書きたかったのだがこの本読んじゃったので仕方ない。

村上春樹さんの短編が入っている。まずタイトルになっている「パン屋再襲撃」。パン屋を襲撃する話…かと思ったら微妙に違う。

何年も洗濯していないほこりだらけのカーテンが天井から垂れ下がっているような気がするのよ
(p.24)

洗濯しろよ!

二つ目の作品は「象の消滅」。

…が象にバナナを一房ずつ与えた。
(p.45)

象って確かにバナナを食べるイメージがあるのだが、どこでそんなイメージが植えつけられたのだろう? 実際にバナナを食べているところは見たことがないような気がする。

三作目は「ファミリー・アフェア」。何となく吉本ばななさんの匂いがする。しかし出てくる人物の無気力さ【謎】は、なかなかのものだ。

「熱中しなくてもいいんだ」と僕は言った。「どうせ他人のやっていることなんだから」
(p.113)

これは野球を見ているときの会話なのだけど、そんなことを言われてしまうとスポーツを見ても盛り上がれなくなってしまう(笑)。

次の作品「双子と沈んだ大陸」で気になったのは、インスタントコーヒーを作るシーンで、

スプーンがみつからないので比較的清潔そうなボールペンでかきまわして飲んだ。
(p.128)

こういうの、やったことあります? ボールペンはないなぁ、鉛筆でやったことがあるような気がする。そういうのイヤだから、割り箸はいつも机の引き出しに入れておく習慣が身に付きました。

僕は結局何も考えないことにした。何を考えたところで、どこかにたどりつけるわけではないのだ。
(p.145)

とか思っているとき程、何か思わぬ所にたどりついたりしないか。ちなみに文庫本は新装版になっているが、ページ数は旧版のものです。

 

パン屋再襲撃
村上春樹
文春文庫
ISBN: 978-4167502119
(旧版 ISBN: 4167502011)