今日も昨日の続き。まず、堀江さんの教養論から。
先に私の考えを書いておくと、教養とは生きていく過程で身に付けるもの全てのことだ。実践してもよし、本やネットで知識を仕入れてもよし。しかしそれを身に付けないと教養ではない。使えない知識は教養ではない。そこが単なる知識と違う、というのが私の解釈だ。さて、堀江さんはどうか。
教養とは、それぞれが好きなことをしていく中で、必要なタイミングで身につけるものだ。
(p.101)
ここが炎上ポイント(笑)ではないかと思う。堀江さん的には人生イコール「好きなことをしていく」だからこれでいいのだが、世の中の大半の洗脳された人達は、堀江さん自身が指摘しているように我慢が人生、即ち人生イコール「イヤなことをしていく」だろう。
そのような人達の教養は必然的に嫌なことをしていく中で身につけるものになる。私見としては、先の解釈に従えばそれも教養になる。。つまり、教養は必要なタイミングで実践的に身に付けるものだとしても、それをするシーンを「好きなこと」とか「嫌なこと」で制限する必然性はない。些細なことではあるが。
学校を順当に卒業しなければ得られない教養など、もはや存在しない。
(p.101)
卒業式のマナーとか(笑)。この件は茂木さんも同じようなことを言っていたと思うが、今はインターネットを使って大抵の知識も教養も身に付けられるので、そこは同感だ。
しかし、世の中、本当に誰もが好きなことをするだけで回るかというと、そうではない。これも好きなことをやって刑務所に入れられてしまったのだから、奇しくも堀江さん自身が証明している。そこまで甘受するという覚悟もアリだとは思うし、堀江さんもご自身としては間違ったことはしていない、判決は誤審だ程度に思っているかもしれないし、私もあれは誤審だと思っている。
しかし、集団生活で下っ端として演じないと得られない種類の教養だってあるのではないだろうか。いろんな role に応じた適切な行動がある。対人的なノウハウは今の時点ではインターネットではなかなか得られない。そのようなソーシャルゲームか仮想世界でもあれば世界が変わってくるかもしれない。開発してみようか。
堀江さんはプログラミングに興味があったという。
僕は中学時代、まがうかたなき「プログラミングの専門バカ」だった。あの頃は、持てる時間のすべてをプログラミングに投入していた。成績の低下に怒り狂った親にパソコンを捨てられたこともあったが、すぐさまゴミ捨て場から取り戻した。あの当時、僕ほどパソコンにのめりこんでいた子どもはいなかったのではないかと思う。
その体験は僕を無教養にしたか? まったくそんなことはない。東大入学も、起業も、宇宙ロケット開発や予防医療など専門性の高い領域でのビジネスも、元をたどればすべてはあの「プログラミングの専門バカ」の時代が礎になっている。
(pp.102-103)
ま、誰でも「オレほど…」とは言いますよね。そこは否定しないし、否定すること自体に意味がない。全員が自分が一番と思っていればいい。ちなみに私は中学時代は電子工作にのめりこんでいた。アマチュア無線の免許を取ったのは小6のときで、当時は壊れたラジオから部品を取ってヘンテコなものを作ったりしたものだ。
ここで違和感があるのは、もっと他にスキルアップする方法はなかったのかというところである。もし堀江さんが中学の時代に、今のような主要5科目と副教科と部活、みたいな中学校ではなく、何か好きなものをメインにしていい、例えば午前中はプログラミングをする、後はちょっと主要科目を、みたいなスタイルの教育を受けていたら、世の中がもう1レベル変わったような気もするのである。
その場合、そのようなスタイルの教育も常識の押し付けで洗脳になるのか、というところが違和感の正体だ。
しかしほとんどの親は、幼児の行動を管理する延長で、ある程度大きくなった子どもにまで「これをしちゃいけません」「あれをしちゃいけません」という禁止のシャワーを浴びせかける。
(p.105)
禁則事項ですね。これとは違う話だが、日本の法律は「これはしていい」で、アメリカは「これはしてはいけない」だから、日本は新しい技術が発展しないし、アメリカはどんどん新しいものが出てくる、いう説を最近どこかで見た。「これはしてはいけない」という制限は、それ以外のことは何でもしていいので、そこに発展性がある。
もう一つ気になるのは「これをしちゃいけません」である。本文中では「子ども自身に危険が及ぶような行為」は批判の対象から除外しているから、それ以外の禁止行為を批判しているわけだが、では例えばどういう例が想定できるだろうか。
堀江さんの場合は多分「パソコンやるな」だろう。しかしこれも多分親としては、パソコンをやってはいけないというのが主目的ではなく、勉強しろというのが本当の理由だろう。成績低下で激怒したのだから、成績が低下しなければ問題はない。遊ぶなという親は、遊ぶのが悪いことだというのではなく、勉強しないとか、成績が下がることが悪いと考えているのである。勉強もしないで遊ぶのは悪い、そのような束縛条件がある。
なお、最近の流れとしては、遊んでいるときに止めさせないのがトレンドになっている。遊びに熱中させることで、集中力が高まるというのだ。その下積みが大学入試とか、もっと後になって生きてくる。
僕がそれに取り組めたのは、「すべてを自分で決めた」からである。
(p.111)
心理学的にも、自分で決めたことの方がモチベーションが持続するという話がある。この後ゲームの話が出てくる。私は昔は一日中ゲームをするタイプの人間だったから、ゲームの話は得意なのだが、いわゆる攻略本を買ったことがない。基本的にゲームは自分で攻略するのが面白いのであって、攻略本を買ってゲームするのは、解答を見ながらパズルを解くようなものだと思っている。もちろん、今の人達がそうではないことも知っている。ゲーム自体にクリアするという面白さがあるから、クリアできないよりは攻略本を見てクリアする方が面白いとか、攻略本でクリアしてから自分で工夫する面白さがあるとか、それも理解できる。しかし、自分で全て攻略してクリアするという面白さは、まるで次元が違うような気がするのだ。
比較しようがないから証明しろといわれても無理ですけどね。
本の話に戻ると、違和感があるのは、他人に決めてもらって取り組む、それで楽しむというのはダメなのかというところだ。
何もせず、ただROMしているだけ(他人の書き込みを読むだけで自ら動かない)の人たちは、行動的な人たちの半分も楽しめていない
(p.112)
個人的にはこの意見には猛烈に同感なのだが、ただ、その「半分も楽しめていない」はどうすれば検証できるのか、真実なのか、というところが分からない。同感なのだが自信が持てない。ちなみに個人的には半分どころか1割も楽しんでいないと思っている。もちろん証明はできないのだが、脳波とか測定したら検証できるのかもしれない。
次はここ。
100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。100点以上を取れる確率はゼロだ。
(p.119)
これは明白な間違いだろう。堀江さんがこんな基本的なミスをするのは珍しいと思う。ゴールの先に行ってしまうことは結構よくあるものだ。
100点というのが例えば球入れゲームで、100個入れたら勝ちだとする。とにかく球を入れていけば、最後100ぴったりで終わるよりも、101個、102個入ることの方が多くはないだろうか。少なくとも100個を超えて入る確率がゼロであるわけがない。オーバーキルは案外あるものだ。駅伝で1位でゴールする人の殆どは、ゴールで走るのを止めない。その先まで走り続ける。
ゴールを決めて逆算すること自体は悪くはない。ペースも理解しないで行動する方がよいとはとても思えない。もし100点で止めてしまうことが望ましくないのなら、ゴールではなくマイルストーンにすればいいだけのこと。駅伝でほにゃらら橋通過順位とかタイムとかいう、あの感じである。「ゴール」に決めてしまうからそこで止まろうという力が働くのである。
貯金でお金は増えない。
(p.131)
厳密にいえばそうではないけどね、ハチドリの涙程度の利息は付く。先日、やっと楽天銀行にログインできるようになったのだが、利息が4円だっけ、付いていた。大もうけなのか。
ま、それは「増えない」に含まれるだろう。しかし減りもしない。それが重要なこともある。金額によっては減ることもあるらしいが、それは私の知らない世界だ(笑)。また、貯金で増減しないのは金額である。価値は増減する可能性がある。つまり、インフレやデフレになった場合は、同じ100万円でも、ラーメンも買えないようになるかもしれないし、家が買えるようになるかもしれない。もっと蛇足しておくと、ドル建てで貯金するとどうなるか、ビットコインだとどうか、という話もある。
ポートフォリオとしては、貯金を1/3、不動産を1/3、投資を1/3、というのが昔(大昔?)の常識だったけど、今は違うのかな、ビットコインが9割なんて人はいるのだろうか。
次のネタは、100円のコーラを1億円で売る方法、みたいな本、ありましたよね。少し違うけど。これ系の話。
ただし、資本を投じる先が、前者はりんごの「美味しさ」であるのに対し、後者はりんごの「付加価値」である。
(p.146)
本の中では、この付加価値というのはアイドルが収穫したリンゴというシナリオになっている。リンゴにサインしてもらえば高く売れるというありきたりの話で、そんなことはもちろん超同感だ。
で、違和感があったのは些細なところ。東大生という付加価値についても、面白い主張が出てくる。もちろん、堀江さんは元東大生だった。ただし中退なので東大卒ではない。
「東大生」なんて、もはや珍しくもなんともない。珍しかったのは、大学進学率が1~2割しかなかったような時代、あるいは東大生が民間(特にベンチャー)に少なかった時代の話だ。
1960年代から、大学進学率は毎年増加しており、1962年には4年制の大学進学率が1割になった。1972年には2割を超えている。堀江さんは1972年生まれだから、堀江さんの言う通りなら、生まれた時点で既に東大生は珍しくなかったということになる。ちなみに1996年にオン・ザ・エッヂを設立したときの大学進学率は33.4%で、3分の1を超えていた。
今はどうなのだろう。テレビでやたら東大をタイトルに付けた番組があるが、そろそろ視聴率が下がっているという噂もある。視聴率を維持できるかどうかは、上田さん次第です、みたいな。あれはタイトルに東大って付いてないか。
次のネタは炎上したらしいが、寿司職人の話。
だがその後、僕の意見の正しさはしっかりと証明された。調理師学校「飲食人大学」で「寿司マイスター専科」を3ヶ月受講しただけの寿司職人の店「鮨 千陽」が、ミシュランに掲載されたのである。
(p.164)
これは少しじゃなくて、ものすごい違和感があった。
まず、この意見自体、何の証明にもなっていない。ミシュランに掲載されたというのは、ただそれだけのことだ。寿司としての完成度と、ミシュランが評価するかどうかは、違う話だ。まさか堀江さんのような高度な判断力を持った方がミシュラン信者というか、学校で学んだ知識のように「ミシュランに掲載された料理は優れている」と信仰しているとは思えないが、ミシュランというキラーワードを使ったレトリックのつもりなのかもしれない。
先に紹介したように、今の人達はゲームを攻略するのではなく、攻略本を買って攻略することに満足する。堀江さんの言葉で言うならば「ただROMしているだけ」で満足する人が多いのだ。
私はその寿司屋で食べたことがないから味について評価できないのだが、寿司職人といえば、小野二郎さんという世界的な名人がいらっしゃる。ミシュラン信者の堀江さんなら、小野さんがミシュラン3つ星だということも知っているだろう。そのレベルに3か月で到達できないのは当たり前だとして、3か月でどんなレベルに到達しているのかという本質的なところは、もう少し突っ込んだ方がいいと思う。「ただROMしているだけ」が大多数の今の日本で「美味い」といわれるレベルの寿司を出すことに、どのような意味があるのか。
例えば、くら寿司に行けばなかなか美味い寿司が食えるという噂もあるけど、くら寿司に流す寿司を作るのに何年かかるのだろうか。
次に、これは違和感ではないのだが、
僕は自分の「いいじゃん」という感覚を信じている。
(p.167)
これって私とは決定的に違うところなんですよね、私は自分の感覚は信じていない。それが後になってみて、何だよ、当たってたよ、ということがよくある。たまごっちだってプリクラだって、誰も注目していない時点でコレは凄い、と思った。まあでもオタク視線なんだろうな、とか思っているうちに大ヒットした。そういうことがよくあって、全部後手後手どころか、何のチャンスも掴めずに今に至る、という感じ。
自分の感覚を信じるというのは重要なんでしょうね。
次の違和感はここ。
会社なんて気軽に辞めればいい。
(p.175)
これは殆どの人に違和感があるだろうね。私も昔はそうだったと思う。今は違うというか、何度か気軽に辞めた(笑)。統計的には、かなり以前から、新卒採用の3割程度が3年以内に退職しているとか、数字はちょっと怪しいが、そういうデータがある。気軽に辞めたのかどうかは知らないけど。2年でカード作ってから辞めるのがいいかもね。
しかし、落ち着いて考えればわかることだが、一つの組織から抜けたくらいで「大変なこと」なんて起きない。
(p.177)
これはもしかして間違っていたら悪いけど、堀江さんって貧乏生活の経験がないのでは。私だって食うのに困るような経験はない。食べるものを探したら味付けノリしかなかった、というような時代はあったが、とにかく食うものはあった。味付け海苔。自己記録は持ち金5000円で1か月生活したこと。もちろんバイトとかするしかない所だが、このときは1か月、パチンコで稼いで暮らしたはずである。こういう人生は面白いぞ。ただし一歩間違ったら死ぬかもしれない。
僕は東大を中退しているが、大変な目になんて一切遭わなかった。
(p.177)
これも個人的には違和感がある。だって、実際ライブドアを追い出されていますよね、しかも刑務所にぶち込まれてしまった。堀江さんレベルだとこの程度なら別に大変な目でもないのだろう。刑務所なぅ、とか言う豪傑だし。でも、洗脳されている日本人の大多数にとっては、刑務所に入るなんてのはあり得ないような大変な目なのだと思う。それどころか、民事で訴えられるだけでも大騒ぎだ。もっと凄いと思うのは、知恵袋を見ていると分かるけど、大学受験に落ちて不合格になっただけで死ぬという人が大勢いるのだ。たかが不合格と思うかもしれないが、今の人の感覚としては、不合格になるのは死ぬほど大変な目なのである。
「堀江さんの言うような働き方をみんながするようになったら、誰も何も生み出さなくなってしまうと思います!」
(p.192)
それは二つ考え方があって、1つだけ書いておくと、そうなったとき、誰も何も生み出さなくてもいい時代になっていると思う。全部コンピュータが生み出してくれるから心配しなくてよろしい。
僕はこの数年、「好きなこと=遊び」を仕事にしよう、と言い続けてきた。「やりたくないことをするのが仕事だ」という考え方をやめ、「やりたいからどんどんやってしまう」サイクルの中から仕事を生み出す、そんな生き方を提唱してきたし、誰より僕がそれを徹底してきた。
(p.196)
堀江さんが言うから説得力があるのだけど、それが絶対に成功する保証がないのは当たり前だとして、どの程度の成功率なのだろうか、そこも評価すべきだと思う。ただ、この選択肢には、仮に失敗しても好きなことをできたからいいじゃないか、という見方もある。だったら選択しない手はない。
個人的に思うのは、好きなことしかやらないと、好きでないことの中に含まれているコトには気付かない。それは何かマイナスになるような気がしないでもない。好きでないことをすることにもメリットはあるのだ。
さて、これ読んでないからアレなんですけど、
『嫌われる勇気』というベストセラー本を知っている人も多いだろう。他人に振り回されずに生きることの大切さを、アドラー心理学を軸に描いたものだ。
この本を読んだとき、僕は大いに興奮した。「みんなのマインドが、この一冊で一気に変わるに違いない!」。そう期待を抱いたからだ。
(p.201)
で、変わらなかったという堀江さんのグチが面白い。
人間、そう簡単には変わらないんですよね。それが洗脳の怖さなのだ。逆にいえば、洗脳してしまえば人間は簡単に変われるのではないか。堀江さんにもし何か足りないものがあるとすれば、そこではないだろうか。つまり、洗脳力。それがあれば日本を支配できるかもしれない。堀江教の立ち上げを期待する。
すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論
堀江 貴文 著
光文社新書
ISBN: 978-4334039745