Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論

堀江さんの本で、7月頃に図書館で予約したら今頃になって番が回ってきた。買えばいいじゃん、と思うかもしれないが、私もそう思う

ていうか予約したことを忘れていたし。

いきなり余談っぽいけど、やりたいと言いながらやらない人のパターンを2つとしている。○○には2種類ある。○○する人と、○○しない人だ、的なパターンではなくて、少しひねってある。

「ほんとうは何もやりたくない人」
(p.4)

これはありますよね、とりあえず何でもやりたいと言ってしまう人とか。しかし、何でやりたいと言ってしまうのかは謎。何でもやろうとするのが美徳という先入観があるのなら、それも学校教育に洗脳されたからなのか。

もう一つのパターンは、

「やりたい」と思いながら、それでもなかなか行動に移せない人
(p.4)

こちらが本書のターゲットらしい。で、結論を書けば、ていうかタイトルで既にバレバレなんだけど、行動に移せない理由は教育によって洗脳されているから、ということになっている。

実に興味深い。

そして先に私の書評としての結論も書いておくと、総論として賛成だ。書いてあることに同感。

その前提で、今回は違和感が残ったところだけを選んで評する。だから、この投稿だけ見ればこの本の意見に反対しているように見えるかもしれないが、実際はそれ以外の多くの部分が全部同感なのだ。

まず「洗脳」とは何かを示すことで読者を洗脳しているあたりが面白いのだが、注意深く読むと微妙な箇所がいくつかある。

僕もふくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、「いざという時」のために学校に通わされ、役に立つのか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。
(p.6)

皆といわれてしまったら、反論は簡単だ。私はそうじゃない。

反例があるので「皆」というのは自動的に否定されて、従ってこの論理は間違っていることになる。私は「いざという時」のために学校に行ったことなど一度もない。もちろん、私以外の全人類が堀江さんの言う通りである可能性はあるが、そうだとしても「皆」ではない。

大人たちは、子供に次のように言うというのが堀江さんの認識のようだ。

多種多様な「いざという時」に備えて今は我慢しなさい
(p.6)

この「我慢しなさい」という言葉は、我慢して勉強しろという意味だと思われるのだが、私は我慢して勉強したことなどない。なぜなら、前提として大学行かせるような金がないから働けという空気のある家庭だったからだ。ただし私は大学にいくつもりだったから、我慢しろという流れになるとすれば、大学は無理だから我慢して働け、ということになる。それはそれで我慢には違いないか。

要はそのあたりのジェネレーションギャップなのかもしれない。

さて、余談はおいといて、知識と常識の違いについて。

知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。
(p.20)

「原則として」という保険のための表現は私もよく使うが、使われるとちょっと嫌(笑)。それはおいといて、知識はファクト(事実)に基づくというのだが、それを言い始めると哲学の世界に落ちてしまうような気がする。それもおいといて、この言葉の定義については、堀江さんがそれで話を進めるというだけのことだから、異議はない。では常識の方はどうかというと、

常識とは「解釈」である。
(p.20)

こちらは主観メインということだ。私の語感としては違和感があるが、こう定義するということに、特に異議もない。論理的思考の土台として、その流れで考えればいいだけのことだ。

その上で違和感があるのは、次の箇所である。

学校で教えることの9割は、「知識」ではない
(p.20)

学校は知識(ファクト)ではなく、常識(解釈)を教えているというのだが…

社会のような科目が解釈だというのは分かる。歴史の教科書の内容が昔と今は違うというのは有名なことだ。しかし、数学や物理や化学で教えていることも、その9割が知識ではなく解釈と理解すべき性質のものなのだろうか?

例えば三角形ABCの面積は、(1/2)・AB・AC・sinA だと高校では習う。

確かにこれも単なる解釈であって、非ユークリッド幾何学のような世界に踏み入れたらそうではない解釈もある。しかしそれを根拠として「だから高校で学ぶ三角形の面積は常識であってファクトではない」と言い切っていいのだろうか?

とにかく9割という数字がどうも見えてこないのである。この本にはその9割や残りの1割の具体的な説明はない。唐突に数字だけ出されても検証できないので困る。個人的には、地球温暖化がCO2増加が原因、みたいな本当にファクトとは思えないような例外的な内容はあるとしても、少なくとも高校までの理系科目には「常識」は殆ど出てこないのではないかと思う。

堀江さんの主張だと、学校は常識を植えつけているということで、次のように述べている。

常識を疑い、常識に背を向けたからこそ、今の自分がある。
(p.22)

この場合、学校は常識を押し付けるという重要な役割を果たしたことになる。学校が常識を押し付けてくれないと、常識を疑うこともできなくなってしまう。先に「困った」と書いたように、与えられていない主張には反論することもできないのである。常識を疑うためには、まず誰かが常識を提示する必要がある。

私の感覚だと学校の役目はそちらに近いと思う。つまり、学校教育は、常識であれ知識であれ、それを提示するのが目的であって、それを真実だと洗脳したいわけではない。事実上洗脳したとしても、洗脳が目的ではない。反論したければすればいい、同感なら飲み込めばいい。重要なのは、今の日本の大勢の人が一体何をどのように考えているかというファクトを知ることである。つまり、常識は何かという事実を与えること自体に、重要性があるのではないか。実際、知恵袋の投稿を見ても、学校で教えていることは役に立たないと断じている生徒が非常に多い。全て役に立つなんて主張しているのは私だけかもしれない。

とはいっても、学校で教えられたら無条件にそれは正しいと信じてしまう生徒が多いことも否定できないし、まず間違いなく事実であろう。。ネットのデタラメを簡単に信用する生徒を見てると確信できる。今の殆どの中高生には主体的な思考能力はないとすら思えてくる。

長くなるので一旦ここで切る。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論
堀江 貴文 著
光文社新書
ISBN: 978-4334039745