今日は礼記の中巻の続きです。
學者有四失,教者必知之。人之學也,或失則多,或失則寡,或失則易,或失則止。
(p.550、學記第十八)
或失則多は「或失於多」の誤り、という注釈があります。
学ぶにあたって4つの誤りがあるので気を付けろという話ですが、その4つとは「多」「寡」「易」「止」。「多」「寡」はターゲットをどの程度広げるかという話で、範囲を広げすぎると全て中途半端になってしまい、範囲が狭いと知識が限定されてしまう、と考えることができます。
分かりにくいのが「易」と「止」です。これを竹内さんは次のように解説しています。
目先の変化に引かれると何一つ完全な知識は得られず、逆に狭い範囲に限定すれば知識は偏狭となる。
(p.550)
易は「やさしい」、簡単なことばかりしてはいけない、ということでしょうか。「止」はさらに先に進もうとしないとか、新しいことに手を出さない、ということだと思います。
教える側の態度として、次は面白いです。
善學者、師逸而功倍、又從而庸之。不善學者、師勤而功半、又從而怨之。
(p.552、學記第十八)
学問を修めることに優れた学生であると、教師は楽に指導ができて、しかも効果が大きく、かつその学生はその効果を師の恩とする。しかし学問のしかたの拙い学生であると、教師は苦労して、効果が小さく、かつその学生は師を恨むのである。
(p.552)
こうなってしまうと、教師からはどうしようもないですね。和田秀樹さんという勉強法で有名な人がいますが、和田さんの「受験は要領」という本で紹介された解法暗記というメソッドが、まさにそんな感じです。レベルの高い受験生はしっかり「解法」を暗記して合格するのですが、レベルの低い受験生は解法と解答の区別ができずに、解答を覚えて破滅する。あるいはそもそも暗記できていない、そして失敗したのを和田さんのせいにして、非難し始めたりします。
教える側の心構えとしては、知識だけではダメだといいます。
記問之學、不足以為人師、必也聽語乎。
(p.553、學記第十八)
記問之學に関しては2通りの解釈があるそうですが、今回はそれはおいといて、ここで主張しているのは「聽語」が必要だ、ということ。つまり、弟子が言っていることを聴いてそれに対応する姿勢が重要だ、という話です。
知識よりも相手を観察して対応する能力を重視しているのです。東大生だからといって誰でも家庭教師ができるわけではありません。教えるのが下手な人もいます。学ぶ能力と教える能力は別なのです。
(つづく)