Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

今日の本はガイ・ドイッチャーさんの「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」。

言語は思考に影響を与える、という説がある。英語で考える人と日本語で考える人とでは考え方そのものが違う、というのだ。言語と意味の関連でよく例に出てくるのが色だ。虹の色は日本では7色だが、どの国でも7色というわけではない。言語は使える色を左右する。

本書で最初に出てくるのはホメロスの色表現である。

グラッドストンは『イリアス』と『オデュッセイア』を繰り返し精読するうちに、ホメロスの色の描写がどこかおかしいことに気づいたのだった。
(p.58)

例えば海を「葡萄酒色の」(wine dark)と表現している。確かに海がワイン色に見えることはあるが、それはあまり一般的な状況ではない。そもそもワイン色といっても、はっきりしない。白ワインと赤ワインは全然違う。

ホメロスは海以外のどんな対象物を「ワインに見える」と描写しているだろうか。
(p.69)

牛だという。

生の牛肉は確かにワインっぽくもない。他に「すみれ色」(violet か?)を海の描写に使っているという。…というような話ではなさそうだ。すみれ色は羊の色にも使われている。黒い羊が存在することは著者も指摘しているが。「黒」に対して何か別の色に見えている状況はありそうな気がする。牛も黒毛かもしれない。

ホメロス叙事詩全体を調査した結果、グラッドストン

「青」を意味すると考えられる単語がまったく見あたらない
(p.74)

ということに気付く。ここまで読んで私が真っ先に考えたのは、ホメロス色弱ではなかったか、ということだが、その話は数ページ先に出てくる。この論文が出てきた当時は、まだ色弱についての知識が共有されていなかったらしい。

万葉集には青という表現が出てくる。この言葉は緑を意味することもあるが、「大分青馬」は葦毛の馬だという説がある。すみれ色といえば日本だと紫だろうか。紫も万葉集に出てくる。聖徳太子得の時代には冠位十二階という制度があって、位に応じた色が割り当てられていた。ただし具体的に何色なのかは明らかではないそうだ。一説では「紫、青、赤、黄、白、黒」の濃淡で12色というのだが、ここには青が出てくる。もちろん、この青が今の青と同じである保証はないのだが。

空が「青」いという表現が出てこないことに関して、

ひとつだけ、ヴェーダが教えてくれないことがある。それは、空が青いということだ。
(p.84-85)

ヴェーダは古代インドの宗教詩で、これを調査したガイガー氏の言葉だ。インドでも空は青くなかった。

聖書にも青という表現が出てこないという。これはヘブライ語に青という言葉がないからだそうだ。

これらの事実に対して、著者は「青」という表現がなかったから、青い空を「青」という言葉で表現できなかった、と結論付けたいようだ。

しかし、あくまで私見だが、もう一つの単純な解釈も可能だと思う。数千年前の地球の空は青くなかったのかもしれない。

SF映画に出てくる異世界の空のように、一日中空が赤かったら、青と表現する必要はないし、表現したらおかしい。大気の成分か、小惑星帯のガスか、何かの理由で波長の短い光が今よりも弱かった、だから空が青くなかったし、あらゆる光景が青抜きのカラーだった、というような可能性まで考えてしまう。

青といえば、日本の「青」は緑を表すことがある。

たとえば「青」と「緑」を区別しない未開人
(p.126)

日本では緑色の信号を「青信号」という。日本は未開人だというのは欧米諸国の常識だが、実際に日本で暮らしているから、青と緑をどう区別していないかを考えてみると、緑を青と表現する状況としては、信号機以外では植物、草木の葉の色であることが多い。

目には青葉山ほととぎす初鰹
(山口素堂)

青野菜という表現もある。

青春という言葉もある。この「青」は若いというイメージに関連がある。それが若葉の明るい緑色の印象と共通点を持っている。

(つづく)


言語が違えば、世界も違って見えるわけ
ガイ・ドイッチャー 著
椋田 直子 翻訳
今井 むつみ 解説
ハヤカワ文庫NF
ISBN: 978-4150505868