Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

わが家は祇園の拝み屋さん5 桜月夜と梅花の夢

今日は「わが家は祇園の拝み屋さん」の5巻です。

話の流れとしては、小春が能力を失って取り戻す話と、前世の話、謎の祓い屋の問題解決。これに並行して澪人の姉の杏奈のスキャンダルの話といったところ。スキャンダル解消の記者会見で杏奈が証拠があると主張するところはスゴいです。そう来たか、みたいな。

ということで、ストーリーと無関係に面白いと思ったネタをいくつか紹介します。

ある国の人にひどいことをされたからって、その国の人間全員を恨むのは乱暴な話だ。
(p.155)

まあその通りですが、その「ひどいこと」がもしその国の思想・風潮に根づいたなのなら、その国の人全員に対して警戒するのは当然のことになります。

例えば、日本は嘘をつかないことが当たり前とか美徳とされていますが、嘘を付くのは悪くないという国もあります。そういう国の人を相手にするときは、日本的な考え方で対応すると酷い目にあうでしょう。

聖書には「隣人について、偽証してはならない」のような表現が出てきます。隣人でなければいいわけです。そもそもキリスト教は「殺してはいけません」という教義を信仰しつつ十字軍を編成するような宗教なので、なかなか難しい。

もちろん逆の見方も成立します。ある国の人に親切にされたからといって、その国の人が全員親切だと思うのは乱暴です。

話題を変えて「謙虚」について。斎王の玉椿が、次のように説明するシーンがあります。

自分の身を、川の上に浮かぶ木の葉と同じだと思うように、と教えていただきました
(p.209)

流れに逆らわないことを謙虚と結びつけるというのは独特な発想だと思いますが、これは禅的な考え方でしょうね。一休の「有漏路より無漏路へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」を思い出します。神様の若宮も次のように言ってます。

この森羅万象において、良いも悪いも、すなわち善悪などないのです。すべての理(ことわり)は鏡。自分のしたことはすべて自分に返ってくるだけです。
(p.233)

神の視点としてなら、それもいいのではないかと。機械学習の視点でいえば、善悪というか、評価が全てです。全てはスコアにして評価に使い、それが次の自分の行動を決める世界です。見方によっては、謙虚から最も離れたところのプロセスだといえます。人間は理想と機械の間で、中途半端な判断をしがちです。


わが家は祇園の拝み屋さん5 桜月夜と梅花の夢
望月 麻衣 著
角川文庫
ISBN: 978-4041053942