今日は「大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起」から4回目。第4章の「文理融合から文理複眼へ」からいくつかネタを紹介する。
2015年に、国立大学の文系学部廃止という話題があった。
文系学部廃止論を増殖させたのは文科省というより、むしろマスコミの責任が非常に大きかったと思います。
(p.140)
当時のマスコミは廃止反対という主張を書きまくったのだが、これはマスコミの反安倍キャンペーンに使われたというのである。何か変なところから変な意見が出てきたなぁ、と思った記憶があったのだが、それなら腑に落ちる。
吉見さんは当時、文系は役に立つという明確な主張がなされなかったことを批判している。最近のネットの掲示板を見ても、文系は必要ない、と考えている高校生がいたりする。何の役に立つのか分からないというのだ。もっとも、そういう人達は理系科目の必要性もまるで分っていないようだが。
なぜギリシャ哲学を読むことが大事なのかというと、そこに含まれている知識そのものというより、その知識や知識を構成する概念の使い方を学べるからで、これがスキルとしてはレトリックになるわけです。
(p148)
レトリックを重要な文系スキルと位置づけているのが面白い。知識そのものではなく、上下のレイヤーに注目するのは発想を膨らませるときの定番の手法だ。そこからレトリックが出てくるというのはレトリックの役割をデザインパターンのような立ち位置としての解釈をしているのだと思う。
苅谷さんは、東大の総合図書館が今、指定した図書が書庫から自動的に出てくるのが残念だと述べている。
何か過去のことを調べようとしてたまたま隣のものを見て偶然発見することが、すごくおもしろかったのに。
(p.165)
これは分かる。図書館で本を探しているときに、近くにある想定外の何か面白そうな本を手に取ることは、よくある。図書館の本はテーマ別に分類されているので、関心事と近いネタの知らない情報に簡単にアクセスできるのだ。本のコードを指定したらピンポイントで選んでくれるようなシステムになると、そのようなゆらぎは、なかなか発生しない。
似た話として、受験勉強には紙の辞書がいいというのが定説だ。単語を調べるときに、まず違うページを開いてしまう。知らない単語を目にしたり、一度引いた単語を繰り返して見ることになる。これが学習には効果的なのである。
既知の範囲で研究していたら、新しいオリジナリティーなんて生まれない
(p.166)
自分が想定したものが出てくるだけでは、創造力が低下してしまう。
(つづく)
大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起
集英社新書
苅谷 剛彦 著
吉見 俊哉 著
ISBN: 978-4087211061