Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

十字架

今日は重松清さんの「十字架」。

中学生のフジシュンがいじめが原因で自殺します。その遺書に親友だと書かれた真田くんと中川さんが苦悩する、というストーリーです。

タイトルの十字架というのは、ゴルゴダの丘まで十字架を背負って運んだ話が有名です。

十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。
(pp.78-79)

キリストは贖罪を暗示します。遺書にはこのように書かれていました。

真田裕様。親友になってくれてありがとう。
(p.12)

真田とフジシュンは小学生の頃は遊び友達でしたが、中学に入ってからはそれほど親しくなかったので、この遺書は不可解なのです。真田はフジシュンがいじめられているのを知りながら、関わろうとしませんでした。フジシュンの父親は、真田に、親友ならなぜ助けなかったのかと責めるのですが、そもそも真田はフジシュンの親友ではないのです。

いじめた本人が苦悩するのではなく、いじめを止めなかった同級生が苦悩していくというのが本作のポイントなのですが、一つ腑に落ちないのが、この作品、フジシュンの両親があまり責められていない点です。

私の感覚としては、フジシュンが自殺した最大の原因は両親にあります。特に父親はデタラメにしか見えません。このような父親でなかったら、フジシュンは死ななかったでしょう。いじめは単なるきっかけで、本質的な原因は、そのような人間に育てた親にあります。この作品は、それを他人に責任転嫁して同級生をいじめ続ける話、といった読み方をしたくなります。

ただし、その意味では、真田くんと中川さんも変です。

なあ、同級生が死んだんだぞ。しかも自殺だ。おまけに、原因がいじめだ。動揺しないわけがないだろう?
(p.297)

いじめた本人でないのなら、動揺する必要はないのです。もちろん十字架は背負わないといけません。見捨てたという意味では同罪かもしれません。しかし、それならただそれを背負って歩けばいい。見捨てるしかなかった理由があるのなら、それも抱えて罪も背負えばいい。しかしそれを背負おうとしないで、だんだん忘れていく、しかも何年も苦悩する、というところが奇妙なのです。もっとも、それは現実によくあることなのかもしれませんが。

わたしたちはみんな、重たい荷物を背負っているんじゃなくて、重たい荷物と一つになって歩いているんだと、最近思うようになりました。
(p.383)

中川さんが20年後に書いた手紙に出てくる言葉です。しかし、それは20年後ではなく、同級生が自殺した時、ただちに思うべきことではないのでしょうか。それは今の人達に欠けている感覚ではないでしょうか。

人間って、死にたくなるほどつらい目に遭ったときに絶望するのかな。
(p.296)

その「死にたくなる」の閾値も、ものすごく低くなっているような気がします。今の人達は、どうでもいいようなことで絶望してしまうのです。


十字架
重松 清 著
講談社文庫
ISBN: 978-4062774413