Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

桜の森の満開の下

先日、清原なつのさんのマンガを紹介したときに「桜の森の満開の下」というタイトルの作品を紹介しましたが、そのタイトルの本家となっている坂口安吾さんの「桜の森の満開の下」を紹介します。

なお、今回は文庫本からではなく、青空文庫からの引用です。まずは桜の持っている妖力から。

桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、

この「怖ろしい景色」というのは、なかなかイメージできないでしょう。もっとも、森ともなれば話は別です。花が咲いてなくても、森というのは恐ろしいものです。何が出てくるか分からない怖さが常にあります。そこに桜など咲こうものなら、もう大変なものです。

花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。

登場人物は、山賊の男。そして、街道で襲った亭主から奪った女、この二人がメインです。女は7人いた男の元女房を殺せと命じます。男は女房たちを殺した後で不安に駆られ、これは何かに似ていると思います。そして、こんなことに思い当たります。

桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。どこが、何が、どんな風に似ているのだか分りません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。

桜の花の下を通るときに気が変になる、それと似ているというのです。実際に桜の木の下を通るときに気が変になるという経験をしたことのある人は、おそらく滅多にいないでしょう。昔もいなかったと思います。それにもかかわらず、この作品に強く共感してしまうのは、何だか分からないが、気が変になってしまうようなイベントを、誰でも経験しているからではないでしょうか。

女はこんなことを言います。

都の風がどんなものか。その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなものか、お前には察しることも出来ないのだね。お前は私から都の風をもぎとって、その代りにお前の呉れた物といえば鴉や梟の鳴く声ばかり。

女は何か訳あって都を追われたのでしょうか。都、都といわれ続けて、都を知らない男は都に敵意を持ちますが、結局は女に根負けして、都で暮らすことになります。

女は都で首遊びをします。お人形遊びのようなものですが、死んだ人間の首で遊ぶのです。その描写は引用しませんが、狂気としか思えないような行動です。男は女に首を持ってきてくれと頼まれる都度、誰かを殺して首を持ってきますが、ついに「キリがない」ことに気付き、家から逃げ出します。山の上で男は、こんなことを考えます。

空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、とめることができます。

女を殺せば自由になれるのだろうか。でも結論は出ません。

あの女が俺なんだろうか? そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか? と彼は疑りました。女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。俺は何を考えているのだろう?

男は数日後、山へ帰ることを決心して家に戻ります。女は男の決心が揺らがないのを知ると、都も首も諦めて一緒に山に帰るといいます。男は喜びますが、帰路の途中、あの桜の森を通ることになるのです。

男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。

桜の森の効果は二通りに解釈できます。一つは、そこを通る者の気を狂わせて、幻覚を見せてしまうという、話に出てくる通りの解釈です。もう一つは、そこを通る時だけ、真実が見えるようになるという解釈です。

前者の解釈をすると、男は桜の森の下を通った時に幻覚を見て女を殺してしまう、というストーリーになりますが、後者だと、女は最初から最後まで鬼だったことになります。女の行動だけから考えると、こちらの解釈の方が当てはまるのですが、ストーリーの文章は前者だと言っている。この矛盾がこの話を魅力的にしているのです。

男は女を殺した後、はじめて森の恐怖から解放されます。一度は女を殺そうかと考えたこともある、数え切れない人間を殺して平気だった男が、たった一人の女を殺して泣くシーン。

彼はワッと泣きふしました。たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。

最後に男と女は消えてしまい、桜の花びらだけが残ったといいます。悟りの境地のようです。その直前の男の心境が、

ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。

100万回生きたねこ」で、最後にねこが泣いて死んだ後に生き返らなかった理由が、ここに書かれています。「満開」と「万回」という符牒は偶然なのでしょうか。


青空文庫坂口安吾 桜の森の満開の下
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