Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

菜根譚 (4)

今日は2冊本が届いたのだが、まだ殆ど読んでいないので後日ということで、今日も菜根譚から一つ紹介する。題には「信ずる者と疑う者の違い」とあるが、そこに違いがあることは、言われなくても分かりそうなものだ。どういうことなのか。

信人者、人未必尽誠、己則独誠矣。疑人者、人未必皆詐、己則先詐矣。
(p.202)

未必は「必ずしも~ざる」で部分否定、必ず~だとは言えない、つまり~でないものがあるかもしれない、という意味になる。前半の現代語訳は次の通り。

他人を信用する人は、他人は必ずしもすべてに誠があるとは限らないが、少なくとも自分だけは誠があることになる。
(p.203)

信じるということと誠ということがどの程度リンクするのか。ヨルムンガンドというアニメでキャスパーという武器商人が「人間を信用するな」と言うシーンがある。騙そうとする人間が大勢いるこの世界で、他人を信用するのは自滅行為だという考え方なのだろう。あるいは、武器だけは信用できるということか。

他人を信用しないことには利点もある。裏切られてもダメージが少ないのだ。信用しないといっても社会生活上、常に他人を信用しないわけにいかない。だから裏切られることもある。

では、最初から疑ってかかるとどうなのか。それが後半に書いてある。

他人を疑う者は、他人は必ずしもすべてに偽りがあるとは限らないが、少なくとも自分はまず欺いていることになる。
(p.203)

現代語訳はいま一つスッキリしないが、「自分はまず欺いている」というのはこういうことか。人間を信用できない存在とするのなら、自分も人間なのだから、信用するわけにはいかない。しかし自分は信用しているだろう。それは偽りではないか。

ただ、私の場合、まず自分自身も信用していない。人間は必ずたまに間違う。即ちヒューマンエラーは発生する。だからというわけでもないが、自分が意図に反した行動を取ることがあるのは事実だ。忘れるとか勘違いとか、そのようなレベルなら誰だってあるだろう。

プログラムは信用できるが人間は信用できない、というのはある程度プログラムを書いていたら真理として分かってきたりする。ところで、自分が信用できないから他人も信用できないとしたら、それは誰かを欺いたことになるだろうか。

(つづく)


菜根譚
講談社学術文庫
中村 璋八 翻訳
石川 力山 翻訳
ISBN: 978-4061587427