あーついにネタが切れたか。ということで今日は雑記かな。と思ったがあと4日で2月クリアできるのにモッタイナイような気もしたので、しぶとく一冊紹介してみよう。まだ出していなかったはずだ。佐野洋子さんの「100万回生きたねこ」。
うっかり「ぬこ」と書くところだった。危ない危ない。
まずタイトルがおかしい。何回も死ぬという話はよくあるのだが、100万回生きるというのである。生きるためには死なないといけない。
100万年も しなない ねこが いました。
100万回も しんで、100万回も 生きたのです。
(p.2)
このように、ちゃんと100万回死んだことになっている。でもこの「ねこ」は最後に白い猫に向かって、100万回も死んだと言っているから、その後死んで、結局 100万1回死んだことになる。100万年で100万回死んだら1年1回のペースなので、猫の寿命的には結構大変だと思う。こういう数字は浮動小数点の誤差的なものだと解釈しよう。100万回というのは「たくさん」なのだ。
この話を100万回死んだ…、というタイトルではなく「生きた」としたのは、「死んだ」という暗いイメージが表紙に似合わないと考えたのかもしれないが、「死ぬ」ことは重要ではなく「ねこたちはどう生きるか」が本当のテーマだから、という理由の方がジャストミートかもしれない。
話では「ねこ」が死んだときに、「ねこ」を飼っていた人が皆、泣いたということになっている。しかし、
ねこは、1回も なきませんでした。
(p.2)
死んでますからね。
「ねこ」は何度も生まれて、おなじとらねこになって、毎回ヒドい殺され方をする。異世界生活みたいな話だ。そして、「ねこ」は必ず飼い主を「だいきらい」だという。じゃあ何で飼われるんだと突っ込みたいところだが、そんなことはどうでもいいことだにゃ。
後半、「ねこ」はついに飼い主から開放されることになる。
のらねこだったのです。
(p.16)
とらねこ転じてのらねこ。ふっ。
ここで100万回繰り返されたパターンが変化する。今までは飼い主が一方的に「ねこ」を好きになり、「ねこ」は飼い主が嫌いというパターンだった。のらねこだから飼い主がいない。そこで「ねこ」は飼い主自身が「ねこ」という、一人二役を演じることになる。
ねこは、だれよりも 自分が すきだったのです。
(p.18)
ここでようやく「ねこ」は飼い主を好きになる。自分自身が嫌いだと、それはそれで面白いストーリーになるかもしれないが。
そして、後半のもう一つのイベントが、白いねこの登場だ。他の猫が「ねこ」に興味津々なところに、白いねこは無関心な猫として登場する。そうなると逆に気になって仕方ない。「ねこ」は白いねこに、こんなことを言う。
きみは まだ 1回も 生きおわって いないんだろ。
(p.20)
「死んでない」ではなく「生き終わっていない」という表現をするのは、生きることに猫生【謎】の目的があるという含みではないか。「死んでいない」という表現だと、死ぬのが目的、ゴールのようになってしまう。だからタイトルも「生きた」ねこなのだ。しかし「生き終わる」というのは聞きなれない表現である。その違和感は強烈だ。
白いねこはたくさん子ねこを生む。ここで「ねこ」は初めて自分以外の、白いねこと子ねこが好きになるのだ。
しかし、子ねこは巣立っていく。白いねこと残された「ねこ」は
白いねこと いっしょに、いつまでも 生きていたい
(p.26)
と思うのだが、白いねこは「ねこ」より先に死んでしまう。100万回生きて死んだときには、いつも飼い主よりも先に死んでいたから、相手が死ぬところを見るのは初めての体験だろう。そして「ねこ」は100万回泣いた後に死んでしまい、今度は生き返らなかった。
なぜ?
大学入試の受験生が集まる掲示板等で、小論文の問題を何か出してくださいといわれたときに、私はこの「100万回生きたねこ」を読んだ上で、猫が最後に生き返らなかったのはなぜか論ぜよ、と出題する。こういうネタは、人生経験がないとなかなか手も足も出ないものだ。
この絵本の最後のページ、31ページ目の絵がとんでもなくいい。もし生き終わるまでに絵本を出すような機会があったら、このような絵で終わる話にしたいと思っている。
100万回生きたねこ
佐野 洋子 著
講談社
ISBN: 978-4061272743