Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

今日の本は、『「原因と結果」の経済学』。「データから真実を見抜く思考法」というサブタイトルが付いている。

合理的な判断には因果関係が欠かせない、それは否定のしようがない真実だから、そこは問題ない。ただ、この本はちょっと考え方がおかしな所もある。何か意図的に印象を偏らせようとしているような気がする。例えば、次の主張はどうだろうか。

「体力があるから学力が高い」というのは、「体力をつけさえすれば、(まったく勉強しなくても)学力を上げることができる」ということである。
(p.002-003)

そうだろうか。「体力があるから学力が高い」という表現は、「体力がある」という条件が学力を高めるための必要条件の一つになっているという解釈も可能だ。つまり、体力も必要だし勉強も必要、という場合に「体力があるから学力が高い」と主張すること自体は間違いではない。実際、体力がないために長時間の勉強に耐えられず、受験勉強の追い込みができない、というケースは普通にあるのだ。

まあ細かいことは抜きにして、

因果関係があるように見えるが、実はそうではない通説を信じて行動してしまうと、期待したような効果が得られないだけではなく、お金や時間まで無駄にしてしまう。
(p.010)

確かに、そのような可能性があるのは事実である。

例えば地球温暖化。世界は二酸化炭素の増加が温暖化の原因であると断定して行動しているようだが、科学的にはそれは証明されていないし、原因ではない可能性もある。もしそれが原因でなければ、二酸化炭素をどんなに削減しても、温暖化は止まらない。それは、二酸化炭素削減が成功したときに、驚きの結果として、明確に分かることになる。

実際、論理的思考ができない人は大勢いる。ネットを見ていると痛烈にそう思うのだが、

たとえば、子どもを有名大学に合格させたという母親が書いた本に「一切子どもにテレビを見せなかった」と書いてあったとしよう。多くの人は、「テレビを見せなかったから学力が高くなったのだ」と思ってしまう。
(pp.046-047)

本当だろうか? 私なら、間違いなくそのような発想はしない。例えば「テレビを見せなかった子供が学力が高くなった事例が一件ある」と解釈するはずだ。当たり前のことではあるが、それができない人が本当に「多くの人」なのだろうか。

いくつか衝撃的な例も紹介されているが、日本のメタボ健診の件については、因果関係以前に、この箇所が気になった。

厚生労働省は、このことを調べるために、約28億円を投じてデータベースを構築した。しかしこのデータベースに不備があり、収集したデータの約2割しか検証できないことが発覚し、大きな問題に発展した。
(p.066)

動かないコンピュータあるある、ですかね。そもそふ28億円なんてコストが一体どこに行ったのかが謎だろう。桜を見るとか見ないとかより、こういう所はもっと追求すべきではないのか。

もう一つ何かもやもや感が残った話が、COLUMN 3 の「受動喫煙は心臓病のリスクを高めるのか」だ。このコラムは、次のことを指摘する内容になっている。

受動喫煙心筋梗塞とのあいだにも因果関係があることが示唆されている。
(p.088)

その理由は、公共の場所を完全禁煙にしたサンタフェ州と、換気装置があれば喫煙可としたブエノスアイレス州の比較データで説明されている。完全禁煙化の後、サンタフェ州心筋梗塞患者数が明らかに減ったのだ。

しかし、両州の喫煙率は変わらなかった。つまり、喫煙者数は変わらない前提で、受動喫煙者数だけが減ったと考えてよい。そして心筋梗塞患者数が減った。この結果に対して、

つまり、たばこを吸っていた当人ではなく、受動喫煙を強いられていた人々の健康状態が改善したと考えられる。
(p.090)

これは因果関係をテーマにした本としては、あまりにもおかしな結論である。

なぜなら、この理屈が成り立つためには、もう一つの条件が必要になるからだ。すなわち、減った心筋梗塞の患者は、全て非喫煙者でなければならないはずだ。しかし、そのことはデータからは分からないのである。非喫煙者だけでなく喫煙者も同様に患者数が減っていたら因果関係は成立しないし、極端かもしれないが、もしかすると、減ったのは受動喫煙を強いられていた非喫煙者ではなく、喫煙者の心筋梗塞患者数かもしれないのだ。

そんなことが論理的に有り得るのかというと、例えば今までは公共の場所で喫煙する喫煙者が、周囲の目とか、非喫煙者からのプレッシャーとかで、ストレス要因になっていて、それが心筋梗塞を引き起こしていた、という仮説はコジツケすぎるだろうか。まあ戯言はともかくとして、このコラムの結論を導く過程に欠陥があることは事実だろう。

第4章、「認可保育所を増やせば母親は就業するのか」について、分析結果が、

保育所定員率と母親の就業率のあいだには因果関係を見出すことができない」という驚くべきもの
(p.106)

と指摘するのだが、こんなもの私にいわせれば、驚くような要素は微塵もない、当たり前である。

だって、そもそも、多くの認可保育所に入るためには、既に母親が就業していること、という条件が必要なのだ。就業していない母親が申請すると「仕事してないんだから入れなくてもいいよね」という理由で、入れてくれないのである。就業済の母親が優先的に入れてもらえるのだ。認可保育所は不足しているから、結果的には、仕事をしていない母親は誰も入れない。

この「仕事をしていないと認可保育所に入れない」「認可保育所に入れないと、仕事ができない」というジレンマは、現実世界では普通に解決している。つまり、まず認可外保育所に入れて仕事を始めてから、認可保育所を申請するのだ。それが普通のやり方である。

だから、保育所定員率は母親の就業率とはあまり関係ないだろう。調べるべき視点がちょっとズレているのではないか。

次の話題は、最低賃金を上げると雇用が減るかという問題について。当たり前だが、最低賃金を上げることで、雇用者が雇うことができなくなるという可能性は高くなる。ないものは払えないという原理が働くからだ。これに対して、

最低賃金の上昇は雇用を減少させない
(p.109)

という分析結果があるのだが、これは、

また、最低賃金の上昇は、ニュージャージー州の企業による価格の上昇をもたらしていることも明らかになった。
(p.109)

と続くので、要するにこのデータの場合は、最低賃金を上げた代わりに製品価格も上がったというオチのようだ。これで製品の市場競争力が低下して売れなくなったら、会社はつぶれてしまう。

私の知る範囲では、東京という最低賃金が徐々に上昇している地域でも、雇用の減少は発生していないと思われる。また、製品価格への転嫁も発生していない。ではどうしているかというと、労働時間を減らしているのである。つまり、8時間の給料が払えないから、6時間で止めてくれないか、という方向に話が行くのだ。そうすれば、最低賃金を守ったままで、賃金は増やさなくて済む。もちろん、労働者の手取りは減る。これは一体誰が望んだ世界なのだろうか?

第5章の「テレビを見せると子どもの学力は下がるのか」では、

幼少期にテレビを見ていた子どもたちは、小学校に入学した後の学力テストの偏差値が 0.02高かった
(p.120)

という結果を紹介している。テレビを見ると成績が落ちるという説があるから、この分析結果は面白い。もっとも、0.02程度なら有意差ではないかもしれないが、少なくとも学力が下がるという結果は否定されたといえるのだろう。これはアメリカの1940年代から1950年代のデータを分析した結果なのだが、テレビにより知識が得られることは明白だから、それで偏差値が上がるというのは理屈としてもあっている。

最近の日本では、若者のテレビ離れの傾向が顕著に出ているそうだから、それがどのような結果をもたらしているか、研究結果があってもよさそうなものだ。

コラム5も実に興味深い。

ノルウェーでは、女性取締役比率が2008年までに40%に満たない企業を解散させるという衝撃的な法律が議会を通過した。
(p.125)

というケースに関して調査・分析したら、

女性取締役比率の上昇は企業価値を低下させる
(p.127)

という結果になったというのだ。ただ、これは女性を取締役にすると企業価値が低下するというわけではなく、短期間でこの法律を守る必要に迫られたために、

経験が浅く、経営者の資質に欠ける女性を無理やり取締役にして急場をしのいだ。このことが企業価値を低下させることにつながったと考えられる。
(p.128)

という推理が紹介されている。これは合理的な解釈の一つであり、単に男女の参加者を同数にすれば解決する問題ではないという当たり前のことが証明されたに過ぎない。

第6章では、

勉強のできる友人に囲まれて高校生活を送っても、自分の子供の学力にはほとんど影響がない
(p.137)

という、またまた驚きの鑑定結果が出ている。とはいえ、個人的にはこれも、勉強しない奴はどこに行ってもしないという、当たり前の結果に過ぎないような気がする。

最後に、第7章の「偏差値の高い大学に行けば収入は上がるのか」では、

卒業後の賃金に統計的に有意な差はなかった
(p.157)

という結果が出ている。これも本では「驚くべきこと」と書いてあるのだが、私見を言わせてもらえば、これも当たり前のことであって、驚く要素など微塵もない。

そもそも、ある人がよく稼ぐというのは、その人が仕事ができるからである。それは、とある大学に入ったから仕事ができる能力を get したというより、仕事ができる人がたまたまその大学に行ったと考えた方が自然だろう。一流大学の卒業生の収入が高いという統計結果はあるが、それは、一流大学に入ったから高収入というのではなく、高収入を得る素質を持った人が一流大学に行く傾向がある、と考えるべきだ。なぜなら、仕事がデキるというような能力を持っているなら、当然受験勉強のような、より低いハードルは楽に超えられるだろうと予想できるからである。だから、同じ能力の人がどの大学に行こうが、収入は変わらないのである。


「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法
中室牧子 著
津川友介 著
ダイヤモンド社
ISBN: 978-4478039472