Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

非アメリカを生きる――〈複数文化〉の国で

今日の本は室謙二さんの『非アメリカを生きる』。

十数年前にアメリカ国籍をとって市民になる宣誓式のときに、数百人の新アメリカ人の一人として、裁判官の言葉にしたがいアメリカへい忠誠の言葉を胸に手をあてて復唱したが、それはしなくてはいけない儀式だからしていたのであった。
(p.4)

本心から忠誠を誓ったわけではないというのである。ではなぜアメリカなのかというと、

そこには非アメリカ的要素が息づく空間があった。私はもともと非日本人的日本人だったから、それが非アメリカ的アメリカ人になっただけのこと。アメリカで非アメリカ人として住む方が、日本で非日本人として住むより楽なように思えた。
(p.5)

日本より住みやすいからだという。それだけの理由で移住してしまうというのは、日本人的にはちょっと珍しい感覚のような気がする。確かに非日本的だ。

第1章は北米最後のインディアン、イシが紹介されている。イシが発見(?)されたときに、全米が泣いた、じゃなくて注目したというのだが、室さんはこれを批判している。

新しく大陸に来たアメリカ人たちは、もとから住んでいたアメリカ人を殺してしまったのだが、また別のアメリカ人、新しい世代のアメリカ人たちがあらわれて、生き残ったイシと関係を持ちたいと思った。それめちゃくちゃな話である。殺しておいてから関係を持ちたいなんて、自己欺瞞である。
(p.25)

しかし世代が違うのなら、どうだろう。同一人物がソレをやったら自己欺瞞に間違いないが、この件はそうではないような気がする。

第2章の登場人物、ハンクはこんな人。

スペインでファシストと闘ったエイブラハム・リンカーン旅団の兵士
(p.41)

スペインに不法入国してスペイン市民戦争で戦ったアメリカ人である。なぜハンクがアメリカからスペインに渡って戦ったのか、理由はこの本にいろいろ書いてあるが、全体的に感じるのは、特に理由はないような雰囲気だ。ISに諸外国から人が集まってくるというが、何か類似の惹きつける要素があるのだろうか。

ハンクは自分のやったことを後悔していないというが、

だがこの「後悔していない」という言い方は、スペインで死んだ人に対しては、フェアではないかもしれない。ハンクは生き延びたからこそ「後悔していない」と言えるのではないか。死んだ人間には「後悔している」とか「後悔していない」とい言うチャンスがないのである。
(p.65)

そのチャンスが死後にあったら面白いかもしれない。オマエは人生を後悔しているか、していないか、というのだ。ここで「している」と返事をすると、もう一度この世の人生をやり直させる。後悔していない死者には別の役目が与えられるか、消える。

コック白井は、

リンカーン旅団に参加した「唯一の日本人」
(p.68)

であり、ファシストと戦うためにスペインに渡った人物だ。スペインの戦争は国家間の戦いではなく、国家の軍隊と個人の軍隊のバトルだから合理的な判断だと著者は評する。ではなぜ日本人の白井がアメリカにいたのか。

アメリカへ来たのは、日本より素晴らしいからだ」
(p.69)

著者はこれを、アウトローにとっては日本よりアメリカが合っていると分析している。確かに、日本はしていいことしかできない国だ。これに対して、アメリカは、してはいけないことをしなければ、それ以外は何でもできるのである。

第3章は「マイルスはジャズを演奏しない」。マイルスの自伝に書かれている言葉を紹介しているが、

過去のスタイルで演奏して喝采あびるより、新しい音楽を演奏して批評家とか観客につまらないと思われた方がずっとましだ
(p.95)

これは贅沢な言葉だと思うが、何となく分かる気がする。いい音楽を作ることが目的であって、誰が聴くとかいうのはどうでもいいのだろう。

第4章 ビートたちのブッダと鈴木老師。老師というのは有名な鈴木大拙師ではなく、鈴木俊隆氏である。

鈴木老師の法話は、それを聞くアメリカ人にとっては、翻訳を通した日本の声ではなくて、アメリカ人のために語られたアメリカの声だったのである。
(p.144)

弟子が悟ったときの体験を語ったところ、

「それは悟りと言える。だが、忘れた方がいい。仕事の調子はどうかね」と言った
(p.148)

こういうのは、何を訊いても「ま、お茶を一杯」としか返ってこない禅者を思い出す。単にどうかねと訊いているわけではないのだ。

第5章「ハムサンドを食べるユダヤ人」はイザヤ・ベンダサンの話から始まる。もちろんこれは偽ユダヤ人である。ハムサンドを食べるユダヤ人というのは、

ユダヤ教では穢れたものとされる豚肉のハムサンド
(p.189)

ということらしい。この話でハムサンドを食べるというのは、強制的ということではなく、自らその枠から出るという意志表示においてなされるのである。つまり、非ユダヤユダヤ人になるのだ。そこに非アメリカ的アメリカ人、非日本的日本人との共通点がある。


アメリカを生きる――〈複数文化〉の国で
室 謙二 著
岩波新書
ISBN:978-4004313779