Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

貧困の光景

今日紹介するのは、曽野綾子さんの「貧困の光景」です。

日本でも最近は貧困が話題になっているようですが、日本の貧困は相対的貧困と呼ばれているもので、平均的な家庭よりも所得が低いことを言うのです。だから日本は永遠に貧困から逃れられないでしょう。しかし、世界ではそのような状況は決して貧困とはいいません。

「貧困とは、その日、食べるものがない状態」を言う。従って日本には世界的なレベルで言うと一人も貧困な人がいない。
(p.21)

仕事がなくても生活保護で毎日食べられる。少なくとも食べるものがどこかにある。戦前は食べるものがなくて死ぬということが普通にあったそうですが、今はよほどおかしな条件が重ならないと、そのようなことはありません。どこに行っても食べるものがない町などないのです。しかし、それが世界レベルでは実在します。

最近、どこかの電力会社の偉い人が小判を受け取ったとかで話題になっていたようですが、ボリビアの警官は汚職するのが当たり前だ、という話が出てきます。日本のように、モラルの問題でそうなっているわけではありません。

南米のボリビアの警官の月給は十ドル(千数十円)だというから、これで一家六人とか十人とかが生きて行くことはまずできない。どこかで汚職をしなければ餓死する仕組みになっている。
(p.15)

社会が汚職を前提に構築されているのです。日本の刑法には正当防衛とか緊急避難という概念が出てきますが、仮にそうしないと生命が維持できないという状態になったとき、汚職を禁止することができるのでしょうか。

泥棒しないと生きて行けないような国で、盗むというのは本当に悪なのか、というような話も出てきます。その人達は、盗まないと死んでしまうのです。そのような社会が、この本にはいくつも出てきます。

貧しい人に食料を送ろう、といった運動は日本でもあります。実際に募金したという人もいるでしょう。ただ、貧困国の子供に食べさせたいのなら、食料をそこに送るのではなく、現地に持って行って直接食べさせてあげないといけないといいます。

素材で渡すと親たちはそれを栄養失調児に食べさせず、その兄姉たちに食べさせるか、ひどい時には、それを市場で売ったりしてしまう
(p.38)

まさか、新宿あたりで募金したらそれが全部被災者とか貧しい人の手に渡るなんて本気で信じている人はいないと思いますが、ではその一部でも本当に渡っているのかというと、なかなか厳しいのではないでしょうか。仮に現地の親にまでそれが渡ったのだとしても、それでも子供に届かないことがあるわけです。

古着を寄付しよう、という運動もあります。しかし、日本から送られてくる服は、現地では役にたたないものが多いといいます。現地で欲しいのは、普通に日常生活で使う、着るための服なのですが、

女性用のスーツや子供のパーティドレスなどが信じられないほど多かった。
(p.50)

そんなのを現地に振り分ける方もどうかしていると思うのですが、

日本人は難民救済に、自分の要らないものを捨てる代わりに送り出したのだ。
(p.50)

それでも捨てるよりは何かの役に立てた方がいいような気はしますが、どうも、いろんな所で残念な人が関わっているようです。

エチオピアは物質に貧しく、日本は精神に貧しかった。せいぜい好意的に見ても、エチオピアの政治家は自国民をまともに食べさせるという基本的な能力において貧しく、日本人は貧困とはいかなるものかという客観的知識において貧しかった。
(p.51)

日本だってそういう時代があったのに、どこかで忘れてしまったとすれば、それはそれでモッタイナイことではないかと思います。いつかヒドい目にあいそうな気がしてなりません。


貧困の光景
曽野 綾子 著
新潮文庫
ISBN: 978-4101146447