Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

文化防衛論

三島由紀夫さんの「文化防衛論」はまだ書評として投稿していなかったので、書いておきます。この本の前半は論説文がいくつか収録されていて、最初は「反革命制限」、そして「反革命宣言補註」となっています。なかなか過激な内容ですが、その当時の日本がどのような状況だったのか。それより少し前の描写が出てきます。

かつてプロレタリアは社会的疎外の代表だった。戦争前には日本の経済政策の貧困から農村は疲弊し、飢餓状態は蔓延し、人身売買は兵士の心を押え毒していた。
(p.16)

日本の食料自給率が低いことのルーツはこのあたりにあるのでしょうか。江戸時代も悲惨なところは悲惨だったし、それより昔はもう何が何やら分からないです。万葉集には貧窮問答という有名な歌がありますね。

三島さんの防衛は戦って守るという意味の防衛です。無抵抗とか不戦という発想はありません。

守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るにはつねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
(p.49)

言論も攻撃の一種です。

言論の自由は本質的に無倫理的であり、それ自体が相対主義の上に成り立った政治技術的概念である
(p.65)

この後、だから安保はイカン、という趣旨に続いていきます。この「無倫理的」というのはツイッターやインスタグラムを日常的に使っている我々なら簡単に理解できるでしょう。妄想や捏造でも真実のように投稿できてしまう反面、それが真実であってもちょっと危ないことを書いたら誹謗中傷といって削除され、削除されないにしても炎上して謝罪を強要される、それが今の言論の不自由な社会です。

私には、事態が最悪の状況に立ち至ったとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思われる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、ついには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。
(p.114)

楽天的といえば何か幸せな世界のような雰囲気ですが、逃げているだけのような気もしますね。誤解のないように蛇足しておきますが、個人的には逃げるというのは最も賢明な選択だと思っています。逃げるというのも美徳であり、難易度の高い対応法なのです。

いくつかの論文の後には、いいだももさんとの対談があります。

これが何か微妙に噛み合っているというかウロボロスのように噛み付きあっている感じで面白いです。まず、核兵器は使えないイリュージョンだといいます。

自分の国で、いわゆる内戦なり革命なりに使った場合には、東京の一千万の都民に対して核をぶっ放す気に、佐藤さんなら佐藤さんがなれるかというと、これもたいへんなイリュージョンであって、文学的考えの中ではできると思うけれども……
実際には絶対できない。
(pp.160-161)

前半がいいださん、後半が三島さんの言葉です。確かに内戦で使うには核兵器は強烈すぎます。自爆テロで仲間も全部吹き飛びました…という状態になりますよね。じゃあ三島さんは一体どうするかというと、その戦略は至って単純で、日本刀を持ってぶん回すわけです。ただ、そこにも美学はあります。

日本刀を持ち出して、新宿騒乱で殴られた男がいるそうだけれども、そんなこと絶対信じないんだ。日本刀持ち出せば、相手も死ぬときだし、自分も死ななきゃ日本刀じゃないんだよ。日本刀持ち出したら殺傷するんだよ。殺傷して、場合によっちゃ自分も死ぬんだよ。ぼくはそういう武器しか信じない。使える武器はぼくの芸術観なんだ。
(pp.161-162)

もちろん冗談じゃないと言いたいところですが、三島さんがこう言うと冗談には聞こえません。三島の芸術観でいえば、マシンガンを持ち出して乱射するのはどうなのでしょうか。そういう犯人は大抵、狙撃されて死んでいます。おそらくそれは反則だと言うでしょう。一方的に強いというのはフェアじゃないからです。尋常に果たし合う、ということですね。

いいださんの話では、能役者の話が面白いです。

ぼくは、たまたま梅若万三郎の最後の「弱法師」を見てるんですよ。ヨロヨロしてね。名演技だとすっかり感心したら、すぐ死んじまった。死に際だから、ヨロヨロしてるはずだよね。
(p.170)

それが形なのか死に際なのかは、見ている側からは区別ができないのです。そして、解釈するのは常に一方的に見ている側の責任で自由なのです。

いいださんのこの意見も面白い。

だいたい学生運動は、コミュニケーションが通ずるという現実の上に立っているんじゃなくて、コミュニケーションというものは成り立たないし意味がないんだという原理の上に立っているんじゃないですか。
(pp.174-175)

話ても分からないから強硬手段に出るわけですよね。最近の香港のデモを見ると分かった気になれます。これには三島さんも賛成で、学生の言うことは詩だと主張します。ポエムだ。だから対話しようがない。

横浜市大の決起集会の話も壮絶で、これは面白いので会話を紹介しますと、

三島 あの人、痩せたブタになっちゃったよ。(笑)
いいだ そうなると、どっちもたいしたアレじゃない。
三島 きみ、そんなこといって軽視しちゃいかんよ。日本じゅうブタだね、ほんとうに。ブタ小屋だね、日本て国は。ブタを敬遠したらたいへんなことになる。ぼくはね、ブタを敬遠しないな。ブタぐらい恐ろしいものはない。
いいだ これはちょっとあんたの貴族趣味にのせられたな……。(笑)
三島 ぼくは、絶対ブタになりたくないけれども、ブタは絶対軽視できない。ブタをいかにキャッチするかということを、痩せた人間は考えないのか。
(p.177)

この人達は一体何がしたいんだろう(笑)。痩せたソクラテスの話は蛇足しなくても分かりますよね。

対談の後は、大学に出かけて行って学生の前で講演をして質問を受けます。三島さんと対談というと、結局危険な話題に行ってしまうのですが、

民主主義というのは、たとい客観的に民衆、大衆の動向が正しくないとしても、多数の民衆がそれを望むのであるならば、その民主主義は誤っていても、それに従わなくてはいけないと僕は思います。
(p.193)

これは学生Bの質問、というか意見です。個人的にはこの思想に殆ど賛成です。ただ、その多数の民衆の判断が全人類を滅亡する類のものであり、自分だけがそれに反対して回避する方法を実践できる場合、どうしますか。多数を尊重して滅亡すべきですか。そのあたりが民主主義の絶対的限界かなと思います。

三島さんの問いかけはすぐに殺し合いになります。

暗殺を非難するのはやさしいが、皆さん暗殺できますか。
(p.193)

これが三島さんの美学。一対一で命懸けで戦うのは基本的に正なのです。

そして人間は悲しいことに、他人の思想を抹殺する方法としては、殺すことしかまだ知らなかった。どんなことをしてでも、これしかできない。これは私は人間というものの悲しさだと思うのです。つまり、自分の気に入らないやつの意見をなんとかして抹殺したい。我々誰しもそう思うのです。
(p.195)

三島さんはまだ元気だからそういうことを言えるのだと思います。切腹するだけのパワーが残っている。それがもっと心が老化してくると、その力が消滅して、気に入らない奴の意見なんかどうでもよくなってくる。あーそう、ふーん、好きにすれば、で完全に終わらせることができるようになります。殺さなくても既に死んだも同然。

人間というものは人間性の中に自然を持っている。
(p.234)

サドを読んだ人なら分かるというのですが、

もし人間の中の自然、人間の中の野生というものを解放したならば、何が起るかわからない。
(p.234)

エヴァのように暴走するとか。

長くなったので、最後に、先に紹介しましたが、貧しかった頃の日本の話も出てきます。

少なくとも昭和初年には日本の貧困というものは大変なものでした。
(p.292)

東北で食べるものがないので子供がどんぐりを食べたという話に続きます。最近の貧困というのはパソコンが買えないとか修学旅行に行けないというレベルのことを言うらしいのですが、昔の貧困というのはどんぐりしか食べるものがない、というレベルなのです。次元が違います。

自分の妹が女郎に売られていく、自分はそれをどうすることもできず、戦争に行かなければならないという悲惨さ。
(p.292)

今「私が従軍慰安婦」とか言っている人達が将校たちと優雅に遊んで写真を撮っていた頃に、日本国内はそういう状況になっていました。今の人達には女郎というのが何だか理解できないかもしれませんが、当時はお金を稼ぐために大陸に行くという女性が大勢いました。大陸に行けば、日本で稼ぐよりも金になったのです。当時は売春は合法的なビジネスでした。合法的というのは、稼いだら納税しないといけないということで、その具体的な記録を紹介した本を読んだ記憶があります。どこまでも悲惨な時代だったのです。


文化防衛論
ちくま文庫
三島 由紀夫 著
ISBN: 978-4480422835