Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

雑記

今日は三島由紀夫さんの「小説家の休暇」を少し読んだ。

最近、というか、昔からだが、ネットでよくある受験生の質問で「英語長文が読めない、読めるようになるにはどうしたらいいか」とか「数学が苦手だがどうすれば得意になれるか」という類のものがある。これを答えるには簡単で、長文を読みたいのなら、たくさん長文を読めばいいし、数学が苦手なら、数学の問題をたくさん解けばいい。そうやっていろんな〇〇を体験することで〇〇が上達するのである。一般に〇〇を得意にしたいのなら、〇〇をすればいい。そういう簡単なことを質問しないと分からないというのが分からない。何か長文が読めるようになる特別な薬があって、頼めばドラえもんが出してくれると思っているのかもしれない。

三島さんは「私の小説の方法」の中で、

言葉の使用法に関する技倆(メチエ)は、不断の訓練からしか生まれないのである。
(p.196)

と言っている。つまり、小説に必要なスキルを身に付けるには小説を書くしかないのだ。

だが、小説というのはそれで済むような甘いものではない。その上で才能のある人だけが小説家になれるのである。

言葉のそれぞれの比重、音のひびき、象形文字の視覚的効果、スピードの緩急、……こういう感覚を生まれつき持った人が、訓練に訓練を重ねて、ようやく自分の文体を持ち、はじめて小説を書くべきなのである。
(p.197)

ここで注目したいのは視覚的効果というところで、それには漢字の形状が大きく影響している。日本文学は英語では表現できない形の異質の芸術なのだ。

小説家の休暇
三島 由紀夫 (著)
新潮文庫
ISBN: 978-4101050300