Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

剣風の結衣

舞台は越前一向一揆、朝倉と織田が戦をしていて、どうにもならない一向宗が怒った、というような時代背景がある。戦国・一揆の時代だから泥仕合のようなバトルがたくさん出てくる。しかし元は平和な村だった。

この村では、鎧に使う革を納める代わりに軍役も免除されているので、村人が兵や人足に取られることもない。
(p.20)

これが戦争に巻き込まれて大変なことになる物語。略奪され、殺され、放火される。

「なんで、関係ない人の家にまで火なんかつけるんやろ」
「戦だからな」
(p.44)

最近は戦争なのに人道的とか訳の分からんことを言う風潮もあるようだが、所詮ただの綺麗事、現実的に戦になれば何でもアリというルールは世界共通である。ただ、日本の歴史において、西洋史でしばしば見られる殲滅的作戦を取ることはあまりない。これは農民を殺戮すると租税として作物を搾取できなくなるからであって、人道的な配慮ではない。世界という広い舞台なら略奪し尽くして次の土地を目指せばいいが、日本列島という範囲内でそんなことをすれば自滅してしまう。

主人公は結衣。下忍でくノ一。前半はショックで記憶喪失になっていて、なぜか殺しの技が使えることを不思議に思っている。納得いかないのか、結衣はよく考える。悩む。だから、読者も釣られて一緒に考えてしまう。これがこの作品のいい所だ。

「極楽ってのは、ほんとにあるんでしょうか?」
(p.52)

結衣は極楽を信じられない。今の時代だと信じないのが普通なのかもしれないが、戦国時代にこれは異常だ。せめて仏でも信じていないと生きてられない、そういう時代なのである。

次のセリフも面白い。

刀で斬られたり、鉄砲で撃たれたりするかもしらんのに。死んじゃうかもしらんのに、みんななんで笑てられるの?
(p.198)

これからバトルというときに皆が笑っているのはおかしいというのだ。ま、当たり前の感覚ではあるが、アニメ「ヨルムンガンド」にもそういうシーンが出てくる。女武器商人のココは大ピンチになるとやたら笑顔になるのだ。笑っても泣いても結果が変わるわけではないから、笑っていた方が楽しくていいだろう。そういう考え方もアリかもしれない。

結衣の親代わりは有坂源吾という元武士。源吾は仲間に裏切られて逃げる途中で結衣と出会い、結衣を連れて村に落ち延びる。源吾は普段はぼーっと生きているようだが、バトルになると武士の本性が姿を現す。

一人が叫んだ直後、その首が宙を舞った。男は返す刀でもう一人の槍の柄を叩き折り、切っ先を喉に突き立てる。
(p.84)

この男というのが源吾である。武士としての本気の技だ。武士も忍者も結局は殺人マシーン。

結衣が極楽の存在を疑うのは源吾の影響もあるのかもしれない。源吾が最後にとある娘を連れて逃げるときに、こういうことを言う。

「俺は、地獄や極楽が本当にあるのかどうかなど知らん。だが、人として生まれたからには、最後まで足掻き続けろ。俺が弥陀なら、生きることを諦めた者など、地獄に叩き落とす」
(p.289)

途中で諦めたら地獄に落とすというのだ。ある意味激烈かもしれない。

さて、忍者、武士とくれば時代物の作品としては僧侶の出番だ。ということで、賢俊という坊主が出てくる。これが狂信的でどうにも始末に負えない。

命など惜しくはない。死ねば、この身は弥陀のお側に召される。それは賢俊にとって、無情の喜びだった。
(p.188)

本人は正義感で動いているから説得は不可能。信じる者は救いようがない。

これまで、人を信じたことなど一度たりともない。
(p.206)

そういう性格なのだ。賢俊は誰も信用しない。信用するのは阿弥陀如来だけ。

「己の生になんの疑いも抱かない人間は、恐ろしいものです。己の信ずるもののためなら平気で他人を傷つけ、裏切り、命を奪うことさえ厭わない」
(p.12)

これがこの物語のテーマになっているという指摘は解説にも出てくる。こういう人間はいつの時代も怖い。ちなみに先のセリフは真矢というくノ一の言葉で、結衣はこの真矢の妹である。

さて、本作でその悪役を最も激烈に演じているのは曾呂利新左衛門という忍者だ。いわゆる上忍だ。下忍にこのように指導する。

「すなわち、力じゃ。力さえあれば、誰にも虐げられず、大切なものを奪われることもない。ひもじさに泣くことも、理不尽な世の仕組みに膝を屈することもない」
(p.226)

そういう曽呂利だって結構理不尽な圧力に屈服してきたらしくて、

羽柴筑前に取り入り、再び下忍を育て上げるまでにはずいぶんと苦労したぞ
(p.237)

なんてことも言っている。力でガチの勝負をするなら、上には上がいるわけだから当然そのような苦労を背負う。

余談だが、忍者の技を習得するのはなかなか厳しいらしくて、

「教えたはずだ。見えるもの、聞こえるものに捉われるなと。目や耳に頼りすぎるがゆえに、敵の数を読み間違えるという初歩的な過ちを犯す」
(p.240)

このあたり、柳生新陰流に通じるものがあるような気がする。新陰流自体、禅と密接なものだから、坊主とは相性がいいのかもしれない。

さて、この物語でもう一人いい味を出しているのが、お駒という茶屋の女主人だ。

四十歳くらいの、恰幅のいい女だった。
(p.122)

お駒は僧侶を言うことを信じていない。作り話と断じた上で、この世をうまく凌いで渡るスキルを持っている。源吾と同じく、仏がいないと断定はしないが、いるかどうか分からないというスタンスだ。理由は単純明快で、誰もあの世に行って仏様を見た人なんていないでしょ、というのである。現実派だ。

「この世には、人と人とがいがみ合う芽がいくらでもありますさけ」
(138)

「ありますさけ」は「ありますから」の方言だが、このあたりの方言だろうか。浄土真宗の派閥同志が勢力争いをしているのを冷めた目で批評する言葉である。寺だといっても違う宗派の寺は焼かれてしまう。

お駒は、人を殺して落ち込んでいる結衣に対してこんなことをいう。

どんな世の中であっても、誰も傷つけずに生きてくのは難しいもんや。
(p.272)

殺すのが辛いという時点で忍者は失格なのだが、お駒は人間としても仕方ないねというのだ。世の中は理屈通りではないのである。どんどん人が死んで行く中で、情というものはどうなのか、そんなことを考えさせられる作品だ。

最後に、源吾が死ぬところのシーンを紹介しておきたい。

梢の切れ間から、空が見える。いつの間にか夜は明けていた。頭上を重苦しく覆っていた雨雲は消え去り、どこまでも青く、透き通るような空が広がっている。
(p.292)

死ぬ寸前に空を見て美しいというのは、アニメ BLACK LAGOON でも出てきたのを思い出した。ヘンゼルとグレーテルの姉様が最後に撃たれるシーンだ。死に方としては、なかなかいいものなのかもしれない。


剣風の結衣
集英社文庫
天野 純希 著
ISBN: 978-4087458626