先日、出版社が分からなくなったので調べると宣言していた「ハイデガー入門」ですが、講談社学術文庫であることが確認できました。ハイデガーといえば「実存」なのですが、実存とは何だろう。
それから「存在的優位」とは、やはり「存在問題」を論究するにあたっては、人間という存在(=現存在)は他の諸存在(事物存在)に対して優位を持っているということ。その理由は、人間は「自分の存在がどういう存在であるかを問題にする」ような存在だからだ。また、このような人間の「存在仕方」をハイデガーは「実存」と呼ぶ。
(p.39)
ハイデガーに逆らうのはおこがましいでしょうが、個人的には人間以外が「自分の存在がどういう存在かを問題にしていない」というのであれば、それは人間の思い上がりのような気もします。そう言うなら、そこまで考える動物が実在するのかと問われるとアレですが、例えばAIはどうなんでしょうか。動物じゃないですけど。「私は何なのか?」と悩むAIが、そろそろ出現するかもしれません、いや、既にいるかも。
ハイデガーにとって「実存」とともに重要なテーマは「死」です。
また人間は、いわば「死」をめがけて存在しているような存在であり、ある意味で「死」が人間の生の「全体」を完結する。
(p.124)
生死も相対的に捉えるということでしょうか。確かに、もし人間が不死であれば、倫理は激変しますね。その意味では、死が人間を束縛する力はたいしたものです。
「死」は「言葉」と並んで、人間の幻想秩序における最も根源的な本質契機である。
(p.141)
死という「恐怖」が人間の行動をおおいに制約していることを示しています。人間は本質的に死を避けようとする存在のはずなのですが、ちなみに今読んでいる本は零戦で特攻する話が出てきます。アレはいったい何なのだ、何でそうなるのだといわれると、それもまた死という様相の持つ特殊なプロセスではないかと思います。
ところで、次の主張はどうでしょうか。
もし人間から「死の不安」を取り払えばどうなるか。秩序だった労働はなくなり、富の蓄積はなくなり、したがって、権力の必要性もなくなり、
(p.141)
個人的には、そんなことはない、人間の欲望は、死ななければどうでもいいみたいな単純な結論を出さないと思うわけです。例えばいくらでも稼ごうとするだろうし、楽をしようとか、面白いことをしようと考えないでしょうか。権力というのは生存のために得ようとするものには思えないのです。
さて、前回も紹介しましたが、
なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのかではないか?
(p.188)
無がある、という考え方が面白いというような話をしました。日本人はあまりそのような考え方はしません。モノとかオブジェクトが最初にあって、それがあるかないか、だから「何もない」と考えます。しかし、英語の表現では、nothing や nobody のような単語が主語になる文もありふれています。ビートルズの歌にもありますね。nobody knows は無理に日本語にすると「誰もいない」が知っている、ということになり、誰も知らない、とは視点が違っているわけです。