Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記 (3)

今日も「みんな彗星を見ていた」から紹介します。前回、キリシタンがなぜ迫害されたか、寺院を焼き討ちにしたという話を紹介しましたが、もっと恐怖を感じさせたのは信者達の妄信的な行動だったようです。

「日本は神国・仏国にして神を尊び仏を敬ひ、仁義の道を専らにし、善悪の法を匡す、(中略)かの伴天連の徒党、みな件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残なひ、善を損なふ。刑人あるを見れば、すなはち欣び、すなはち奔り、自ら拝し自ら礼す。これを以て宗の本懐となす。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵仏敵なり。急ぎ禁ぜずんば後世必ず国家の患ひあらん。」

(pp.246-247)

これは金地院崇伝の書いた「排吉利支丹文」からの引用です。当時の日本は神仏習合、神も仏も大切にしていたところに、突然キリスト教がやってきて、日本の神仏を否定し、ついに宣教師が処刑されるという最悪の結末に至ります。普通ならそれで終わりそうなものですが、信者達は刑人を拝しているのです。

キリスト教が権力に反対する存在であったので、迫害を受け、殉教者が輩出したのではない。(中略)むしろ、キリスト教は、迫害を受け、殉教者が輩出したことによって、幕府勢力に反する存在であると認識されるようになったと考えられる。
(p.366)

死罪になった宣教師を信者達が拝んでいる、それは罪人の行動を支持しているとも解釈できますから、傍から見ると怖い団体でしかないでしょう。そもそもキリストが磔にされたのも、罪を犯したという建前があったわけです。キリスト教は「許す」ことを重視する教義なので、罪を犯した者を崇拝するというのは、それほど違和感はないのかもしれません。しかし神仏を信じる側から見ると異様です。罪人である殉教者を信者たちが崇拝しているのを見た人達が、これは反社会的団体ではないかと疑い始めた、という順序は、確かにその方が自然な解釈かもしれません。

この本がもう一つ注目しているのが、聖遺物です。

私は最近、日本のキリシタン迫害を描いた本を読む機会が多いが、処刑や拷問の残酷さに戦慄するのは当然ながら、殉教者の遺体や遺物に群がる信徒の姿に異様な迫力、正直に言えば、ある種の気味悪さを感じることがある。
(p.254)

オウム真理教の教祖が死刑になったときに、信者が遺骨等を欲しがるのではないかと言われていましたし、事実そうだったらしいですが、教祖の遺物に力が宿ると考えたのは、キリストの時代からそうだったわけです。実際、聖書にはキリストの服に触れただけで奇跡が起こる話も出てきます。

そもそもキリスト教偶像崇拝を禁じているはずなのですが、

聖人と聖遺物に対する崇敬は容認した。
(p.255)

このあたりの線引きは素人にはよく分かりません。ともかく、聖遺物の話は、この本ではかなり頁を割いて分析しています。

聖人ないし聖遺物は、神の力によって奇跡を起こすと信じられていた。
(p.258)

今だって信じられているはずです。この種の物には「ウィルトゥス」という特別な力が宿っているとされたといいます。

聖人になるためのルールは結構厳しかったらしいのですが、

当時の日本は世界でも数少ない、殉教可能地域だったのである。
(p.269)

例えばプロテスタントの支配する地域に宣教に行って殺されても駄目で、日本というのはそこで処刑されたら殉教者とみなされるという理想的な国だったのです。殉教すれば聖人です。聖人の遺物が聖遺物で、そこにはウィルトゥスという力が宿ります。だから信者は争ってそれに触れよう、奪おうとするのです。ただの遺体ではないわけです。

(つづく)


みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記
文春文庫
星野 博美 著
ISBN: 978-4167911638