Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

バカの壁 (4)

バカの話、いや、バカの壁の続きです。今回はまず、冠詞の話題です。冠詞といえば日本人にはとても苦手で、英語を習い始めたときに、ここは a を使うべきか、the を使った方がいいのか、いちいち考えても分かりません。ていうか、ピンときません。

最初に「おじいさんとおばあさんがおりました」と言う時には、子供に、おまえの頭の中に爺さんのイメージと婆さんのイメージを浮かべろ、と言っている。特定の爺さん、婆さんを浮かべろと。浮かんだら、今度はそのお爺さんが物語の中で動き出します。次に「おじいさんは、山へ柴刈りに」という時には、特定のお爺さんが動き始めるわけです。
(p.77)

つまり、日本語にも定冠詞・不定冠詞に相当する考え方がちゃんとあって、ここで「が」は不定冠詞、「は」は定冠詞の役目を持っているという例が示されているのです。

これが逆に日本語を学ぶ外国人にとっての鬼門になっいるのではないでしょうか。つまり「が」と「は」はどこが違うのか、この場面だと「が」にすべきか「は」にすべきか、のような問題です。もっとも、この使い分けは日本人でも迷うところかもしれません。英語の冠詞に比べると、かなりアバウトな感じがしますね。

そして出てくるのが、オウム真理教の話題です。

竹岡俊樹氏の『「オウム真理教事件」完全解読』(勉誠出版)を読んでようやく納得出来た。
(pp.88-89)

つまり、あれだけインチキな宗教になぜハマるのか理解できなかったのが、この本で理解できたという話です。具体的には、筆者は次のように理解しています。

身体の取り扱いがわからなかった若者に、麻原がヨガから自己流で作ったノウハウをもとに〝教え〟を説く。それまで悩んでいた身体について、何かの答えを得たと思うものはついていった、ということでしょう。
(p.92)

仏教の荒行と比較しているのも面白い。ヨガと比較しそうなところですけどね。修行の本質としては、フィジカルに厳しいところに自分を置くことで、メンタルの不安などどうでもいい、という感じの優先順位を付けることではないか、と思うのですが、極論でしょうか。

本が紹介されていたので、私も読んでみました。確かにロジカルな手法で検証を進めていて、考古学的、歴史学的な手法で切り崩す系の考察は印象的です。

ただ、私の理解では、オウムにハマる人は身体というよりも精神の扱いが不安定だった、つまりメンタルの問題があるわけです。そこにうまく入り込んで、落ち着くメソッドを与えた。それが決定的だったのではないか。

彼らの言葉を集めてゆくと、二十七・六歳という年齢を反映して、彼らの入信の動機はそのほとんどが自分自身の存在や人生についての疑問と、社会にかかわる問題にいきつく。かつての宗教のように貧困や病などのさし迫った不幸は入信動機としては少ない。
(「オウム真理教事件」完全解読』、p.142)

他のどんな宗教にも共通している要素だと思うのですが、宗教を持つことによって、なぜ生きているとか、何のために生まれたとか、何をすべきとか、そういう疑問が解消されて悩まずに済むわけです。オウムはそこにイニシエーションとかアストラルとか、何かカッコイイ感じの言葉を使ってSF、ファンタジー的な解を与えました。これが世代の流行とシンクロして、宗教として発展していったのではないか。


バカの壁
養老 孟司 著
新潮新書
ISBN: 978-4106100031