Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

フランクル氏による、アウシュビッツ収容所での生活の実体験記。

例えば、最近のアメリカの監獄ではインスタントラーメンが貨幣の役目を果たしているというのを何かで見た記憶があるのだが、この本には褒賞として煙草をもらった話が出てくる。

十二本の煙草はなんと十二杯のスープを意味し、十二杯のスープはさしあたり二週間は餓死の危険から命を守ることを意味した。
(p.7)

アウシュビッツでは、煙草が貨幣の役割を果たしていたようだ。

もちろん、生活は極限状態である。

人間はなんでも可能だというこの驚きを、あといくつかだけ挙げておこう。収容所暮らしでは、一度も歯をみがかず、そしてあきらかにビタミンは不足していたのに、歯茎は以前の栄養状態のよかったころより健康だった。
(p.27)

歯槽膿漏の原因となる菌が餓死してしまった…という話ではないと思うが、フランクル氏は医師なのでこのような所は医師目線である。新宿や渋谷のホームレスの人達の歯の状態はどうなのだろう。あのあたりだと、栄養のあるものを食べられそうだから、また違った状況かもしれない。

 

ところで、最近は禁煙が当たり前、タバコは悪というような風潮があるようだが、本当にタバコに何の有益な働きもないのかというと、このような話が出てくる。

ふだんは感情の消滅といらだちを和らげてくれた市民的な麻薬、つまりニコチンとカフェインが皆無だったのだ。
(p.105)

タバコにはストレスを発散させる効果がないという人もいるのだが。イラっとしたときにタバコが効果的であることを否定する喫煙者はいないだろう。

この本のテーマは、収容所の様子を伝えることではない。生きるとはどういう意味があるのか、それを考えようというのである。死と隣り合わせで自由も奪われた生活に、どのような意味があるのか。

そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。
(p.112)

収容所の中にいる人達がどのように自分の生存価値を自覚していたかというと、この収容所の生活において生きる意味というのは、生き延びることができればいつかはここから出ることができる、という期待だった。

「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」
(p.116)

これは数日のうちに死ぬことを知った女性の言葉である。死ぬ直前になって生きることの意味が分かったというのは「君の膵臓を食べたい」にも出てきたテーマだ。フランクル氏は、結論としては、次のように語っている。

人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をも含むのだ、と私は語った。
(p.138)

アウシュビッツのような極端な環境下でも、やはり生きることには意味があると説くのである。

最後に、ついに収容所から開放されたときに、それほどうれしい感情がないことに気付くというのが興味深い。 最後に、幸運にも収容所から解法されたときのこの一言。

わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。
(p.149)

先日イスラム過激派組織から解法された某氏、報道ではあまりうれしそうな顔をしていなかったようだが、同じような感情だったのか。


夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録
V.E.フランクル
霜山 徳爾 翻訳
みすず書房
ISBN: 978-4622006015