Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

君の膵臓をたべたい (2)

「君の膵臓をたべたい」の感想が(つづく)で中断していたので、今頃ですが、10月2日の続きです。

この物語の主人公は「僕」です。名前は最後まで出てきません。性格がかなり暗いところは個人的に似ているのか、「僕」という表現に何か親近感があります。まだ映画やアニメは見てないので、名前が最後まで出てこないという特徴をどう処理したのか気になっています。

こういう時、僕は嘘をつくことをためらわない。
(p.47)

これは、桜良と仲がいいのか訊かれて「べつに」と答えたことを指しているのですが、いつも嘘をつくわけではなく、TPOに応じて嘘をつくというのは賢い生き方なのでしょう。無意識に、本当のことだと思い込んで嘘をつくような人はいても、嘘をつかない人間はいないでしょう。

孤独派というと、最近のラノベではよくあるキャラかもしれませんが、

その点交友関係がない僕は、人を傷つけるようなことはしない。
(p.105)

人と干渉しないから傷つけなくて済むという発想は、阿良々木暦のようです。私も一匹狼派なのかもしれませんが、干渉しなくても勝手に他人を傷つけることは結構あったような気がしますね。勝手に誤解して勝手に自爆されても困るというか、干渉しても結局同じなら、どうしようもなので、どうでもいいという結論になってしまうのですが。

こんな「自分のルール」もあります。

僕は手に入れた本は順番に読む
(p.171)

FIFOのようです。私は割とランダムアクセスで、しかも並行処理しています。今も数冊並行して読んでいるので頭の中がごちゃごちゃです。

YouTube によれば、日本人が帰宅したときに「ただいま」というのが外国人には不思議なようですが、そんなシーンが出てきます。

誰もいない空間に元気に挨拶するのは頭のおかしい人だよ
(p.146)

これに対して桜良は家に挨拶したと反論します。家神様に挨拶しているという説もあるようです。日本にはたくさん神様がいますから。そういえば、外国人が日本で暮らしていると Oh my God! と言わなくなるらしいです。God って単数ですからね。

桜良とゲームをするシーンで、ゲームの説明が出てくるのですが、

最初は、格闘ゲームをやった。コントローラーのボタンを押すだけで画面の中の人間が簡単に相手を傷つけ、傷つけられる様を楽しむという、極悪非道なあれだ。
(p.148)

なかなかいい表現です。この種のゲームにはヴァーチャルな世界で極悪非道なことを実行することで、現実世界で実行することを避ける効果がある、と考えられています【本当?】。

「僕」はロジカル人間なので、多数だと正しいという確率的なソリューションは否定的なようです。

僕は、心底呆れる。どうして彼らは多数派の考えが正しいと信じているのだろうか。
(p.177)

いっそ「多数派が正しい」という定義にしてしまえば丸く収まるような気もします。全ての人が同じ妄想を見るとき、それは現実になる、と吾妻ひでお氏も言ってます。

彼女に僕の価値観を理解してもらおうとは思わなかった。彼女は僕とは反対の人間なのだから。
(p.179)

理解してもらおうと思わない、という思想にも個人的に共感できます。私が「僕」の年齢の頃は自分で作詞して作曲していたのですが、その時のポリシーは、理解を求めない、あるいは、大勢に分かってもらうということは諦めて、100人に1人しか分からなくてもいいので好きなように作る、というものでした。結局誰にも伝わらないです。それは今もあまり変わってないのですが、テクニカルライターとしては許されないので、やはりTPOで表現は変えています。このブログはどっちだよ、といわれたらもちろん100人に1人に決まっています。

興味深かったのが、桜良の「生きる」の定義で、こんな感じです。

「きっと誰かと心を通わせること、そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」
(p.192)

ロビンソン・クルーソーみたいな孤独な生活は生きていることにならないのでしょうか。自分と心を通わせるという解釈が可能かもしれませんが。興味深いというのは、この定義なら AI にも実装できそうだと思ったからです。

「僕」が桜良とカフェで待ち合わせをするときに、先に着いた「僕」はこんなことをしています。

ふいに僕はなぜだか外を眺めていた。
(p.213)

これは私もよくやることなので分かります。カフェから外を見ていると、とても面白い。ただ単にいろんな人がいるだけなのですが、それが。ちなみに、今はこれカフェで書いてますが、後ろは壁で、外は見えません。壁を後ろにするのは、ビジネスメールみたいなのも読むので、覗き見されないためです。

最後に出てくる遺書は、とても奥が深いことが書いてありますが、

もしかしたら私に何かを伝えたいと思ってた人もいるかもしれない。もしそうだったら。私以外の人には、伝えたいことを全て伝えるようにしてください。
(p.244)

それがとても難しいことなんですよね。現実的に可能なのかな、ちょっと疑問です。

私の魅力は、私の周りにいる誰かがいないと成立しないって。
(p.252)

客観的評価というのは第三者の視点が必要になりますから、当然のこととして、二人の方向性について、

僕らの方向性が違うと、彼女がよく言った。
当たり前だった。
僕らは、同じ方向を見ていなかった。
ずっと、お互いを見ていたんだ。
反対側から、対岸をずっと見ていたんだ。
(p.257)

相手の立場で考える、というのがありますが、それは結局想像でしかない。自分の枠内での相手のシミュレーションですから、物凄く大きな誤差があるでしょう。反対側から対岸を見るというのは、お互い持っていないピースを合わせたら絵が完成するようなイメージですね。そういう相手はなかなか見つからないものです。


君の膵臓をたべたい
住野 よる 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575519945